第六夜┊五「祟られる者」
『九尾の狐を見つけましたから、適当な場所に封印してください』
突然の呼び出しに、唐突な無茶振り。
さらには子供まで引き連れて、どうしたものかと雛遊肇は滝のような汗を拭う。
文句の一つ二つでは到底言い足りなかったが、今はこの状況の解決が先だ。
教え子を二人も連れて、これ以上夜の山に長居したくはない。
……もっとも、そのうちの一人は神々と肩を並べる大怪異で、もう一人に至っては、もはや人かどうかも定かではないのだが。
このメンツで夜の森に長居したところで、食われる恐れがあるのは俺だけなんじゃねーの、とやけっぱちな考えが頭をよぎったが、だとしても自分達が取るべき行動は変わらない。
手段は違えど、俺たち祓い屋は人を守るために存在している。
だから綾取襲は、あの場に一人残ったのだ。
「交代してやるって言ったのに」
小さな文句が、口をついて転がり出る。
あの場に彼を一人残してきてしまったことへの、つまらない言い訳だった。
俺は知っている。
若宮を名乗るあの男が、昔大切にしていた猫のことを。
……そして、その末路を。
血塗れの麻袋が、砕けた背骨が、切り裂かれた腹が、散らばる臓腑が、壊れたフィルムのようにパラパラとフラッシュバックする。
自分ですらこんな気分なのだ。澄ました顔で人を見下すような微笑みを浮かべるあの男は、果たして今どんな顔をして、あの崖に立っているのだろうか。
✤
「で? 神獣ってどういうことだ。怪異と何が違う」
道すがら、予告通り投げ掛けられた詰問に顔を覆う。
「懸賞金目当てに神獣を祓おうとしていただなんて」「実情を知る者からすれば卒倒ものですよ」と、独り言とも泣き言ともつかない小さな声が指の隙間からこぼれ出た。
捜索の協力を要請された怪異が、実は手出し無用の神獣だったと知れば、小手鞠カルタを危険に晒したと彼は怒り狂うだろう。
呼び出されて早々、八方塞がりな状況にしばらく頭を抱えていたが、教職であるからには教え子の質問には嘘偽りなく答えてやりたい。俺は諦めて顔を上げた。
「明確な区分はありませんよ。人が怪異と呼ぶか神と呼ぶか、確かな違いはそれだけです」
それだけの差が、大きな差なのだが。
伝承が力を持つように、怪異として疎まれるものと、神として崇められるものには、天と地ほどの差がある。そして有り余る力を手にし、神の座にまで上り詰めた怪異というのも存在する。
最たる例はこの地を支配する土地神であり、そして……。
「括りで言うなら君も神様側なんですよ、星蓮君」
「ああ、それはなんとなく知っている」
夜空を揺蕩い、星屑を呑み込んでいた時分から、己を神として崇め奉るものが一定数いたことは認識していたのだろう。
当然のように頷く彼の隣で、「え、僕は知らなかったんだけど」と小手鞠カルタが顔を青ざめさせた。
「君って神様だったの?」
「俺はただのルームメイトだよ」
星蓮と名付けられた少年は、こちらに向ける不信の顔とは打って変わって、小手鞠カルタには柔らかく笑んでみせる。
その強大な力を胸に秘めながらも、彼らは「君にお願い事をしたら、叶ったりする?」「おまえの願いなら大体いつも叶えてやってるだろ」「じゃあ、明日の朝は炊き込みご飯がいい」「……キッチンが直ったらな」と、至って普通の寮生らしい、微笑ましい会話を繰り広げていた。
「なるべく早く直るといいんだけど」
「そういう願い事こそ、あの狐の方が得意なんじゃないのか」
星蓮君に話を振り戻されて、「そうですね」と頷く。
「九尾の狐は本来、吉兆の印。見かけると良いことがあるといわれる神獣です。同じように、神の座にまで成り上がった三大怪異として、九尾の狐の他に、鞍馬山の鴉天狗、大江山の酒呑童子が特に有名ですね」
「そいつらにも懸賞金が掛かってるのか?」
「いえ、彼らは家にいますよ」
はた、と二人の足が止まる。
不思議に思って振り返ると、彼らは揃ってぽかりと口を開けていた。
語弊があっただろうか。正しくない日本語は国語教師として見過ごせない。
家というのは決して俺のボロアパートではなく、実家のことだということを補足して伝えるが、二人の開いた口は塞がらなかった。
「念のため聞くが、憑かれているわけじゃないよな?」
「ええ、きちんと使役していますよ。私の家は怪異の使役が得意なもので」
「……神獣を二匹も?」
「他にもたくさんいますが」
星蓮君が、すすす……と小手鞠君のうしろに移動する。何か勘違いされているようだが、彼を封じて使役できるような人間など、そうそういないだろう。
鴉天狗や酒呑童子だって、そう簡単に使役させてくれるような相手ではない。
交渉し、きちんと迎える準備を整えた上で、三日三晩掛けてようやく封じられるような者たちだ。こちらの意思一つで屈服させられるわけではない。
——そう、仮にも相手は神格を持つ怪異なのだ。
相応の依り代を用意しなければ、九尾の狐の封印なんて、とても出来やしないだろう。手ぶらで来てしまったことが悔やまれる。
大体、あんなショートメッセージを送ってくるくらいなら、最初から封印の用意をしてこいと書いてくれればよかったのだ。
……もっとも、「九尾の狐を封印するから準備をして来い」なんてメッセージが届いていたら、その送り主の番号が小手鞠カルタであっても、そんな偽装に騙されたりはしなかっただろうが。
✤
「ギャアアァァッァアアアアオ!!」
突如、嬰児のような甲高い悲鳴が、曇った夜空を切り裂くように響き渡った。
反射的に肩が跳ねる。僕は思わず、耳を覆ってその場にうずくまった。
「うわっ……、びっくりした。なんの声だろう」
「さっきの火車だな。あのノーコンへっぽこ宮司が祓ったんだろ」
いつの間にか、羅列される悪口が増えている。
一声で鳴り止んだ断末魔に、僕は落ち着きを取り戻しながらも「本当に仲が悪いなあ」と苦笑いしていると、星蓮の言葉を聞き咎めたらしい雛遊先生が「ノーコン?」と目を丸くして僕らを振り返った。
「綾取さんが、矢を外したんですか?」
「あの、ちゃんと前足には当たってましたよ。何か青いものが溢れていました」
フォローするように横から口を挟みながら、「綾取さん?」と、雛遊先生の言葉を復唱して、首を傾ける。
そういえば、来たときも若宮さんのことをそう呼んでいたような。彼は「若宮神社の若宮さん」ではなかったのだろうか。
「彼は綾取襲。祓い屋名家御三家、綾取家の当主候補ですよ。若宮というのは、彼がその当主候補から降りるために言い張っているだけの通称です」
どうりで、と星蓮が平べったい目を山上に向ける。
そう言えば彼は、若宮さんのことを最初から知っている風だった。
『おまえのことくらい、俺だって知っている。『若宮サン』については知らないが』
階段の怪異の時に、確かに星蓮はそう言っていた。
彼は最初から、あの人が若宮なんて名前ではないことを知っていたのだろう。
「若……、綾取さんって有名なの?」
「悪い意味でな」
星蓮が短く返す。
彼が多くを語らないときは、大体僕に言うべき言葉を選んでいるか、言う必要がないかのどちらかだ。
どうやら今回は前者だったらしく、少し悩んでから付け足してくれる。
「代々ずーっと同じことをしてる人間っていうのは、歴史が長い分、俺たち怪異にも名が知れる。怪異祓いなんてものを生業にしてれば尚更だ。中でも『綾取』は性質が悪すぎる。存在自体が最悪だと言ってもいい」
「そんなに……?」
悪口のオンパレードを通り越して、もはや大洪水だ。
星蓮の説明を聞きながら、ぼんやりとあの貼り付けた笑顔を思い返す。
信頼できるかと言われると怪しいが、かといってそこまで怖い人だとも思えない。
藤の花の怪異も、今回の九尾の狐も、無茶を言って見逃してもらっているし。