第五夜┊五「愛色の狐」
「今日はびっくりすることが沢山あったねー」
寮に帰り着いてから、頭上にくっついているコンちゃんに語り掛ける。
コンちゃんはちょっとうっかりさんだけれど、長く一緒にいる私の機微にはよく気付いてくれるから、家についても私にくっついたままだった。
そんなに心配しなくても、私はもうどこかに行ったりしないのに。
星蓮君に掛けられた言葉の味が、まだ舌に残っている。
甘い甘い、金平糖のような言葉だった。
「あんな人がクラスにいるのなら、高等部も楽しくなるかもね」
舌先を撫でる私に、コンちゃんは力なく「キュウ」と鳴いた。
——私がその感覚に目覚めたのは、五つの時だった。
きっかけがなんだったのかなんて、私は知らない。離婚を決めた両親が、ある日突然そう打ち明けて、どちらに付いていきたいのかを代わる代わる私に尋ねた。
私はどちらも大好きだったから、離婚もして欲しくなかったし、どちらとも決めきれずにいた。
二人はそれぞれ、根気強く私と話した。
『恋依はとってもしっかりしているから、お父さんと一緒にいても大丈夫よね。これからもあの人を支えてあげてね』
『お母さんは寂しがり屋だから、恋依がいなくなったらきっと寂しくて毎日泣いてしまうぞ。お母さんのそばにいてあげてくれるな』
彼らの言葉が鼓膜を揺さぶるたびに、苦い、苦い味がした。
私は、それが彼らの嘘であることを、その強烈な苦味で思い知った。
彼らは、私を愛してなどいなかった。
引き取るのが面倒で、相手に押し付けたい一心を、甘い言葉にくるんでは私に投げ付ける。
彼らが大事なのは自分たちだけで、私のことなど少しも見ていなかった。
私は結局、どちらも選ばなかった。
二ヶ月もすれば、私は小学生になる。エスカレーター式のこの学校では高等部から全寮制になるが、一部希望者ややむを得ない事情がある者は、初等部からでも寮に入ることができる。
私は両親の前で、「一人暮らしに憧れるワガママな子供」を演じた。
二人は安心しきった様子で、喜んで寮費を払ってくれた。
だが、苦味は彼らから離れても、尽きることはなかった。
どちらにも引き取られなかった私を「可哀想に」と憐れむ親戚たち。
身寄りのない女児を獲物と見て、「困ったらいつでも相談してね」と擦り寄ってくる男たち。
優しげな言葉とは裏腹に、彼らの目は冷たく光り、その瞳に映る私は、ただの利用価値のある道具でしかなかった。
偽りの温もりに包まれた言葉の数々が、鋭い刃となって私の心を深く抉っていく。口から発せられる慈愛の言葉と、心の奥底から漏れ出る醜い本音との落差に、私は激しい吐き気を覚えた。
十になる頃には、私の心はすっかり擦り切れてしまっていた。
信じられる人間などいない。頼る相手のいない女児の、なんと立場の弱いことか。
どれだけ強がったところで、社会は子供一人で生きていけるようには出来ていない。
学費の振り込みが滞り始める頃には、もう両親のどちらとも連絡がつかなくなっていた。
小学生ではまだバイトもできない。ここを追い出されたら行く当てもない。
私は必死に謝り、学校の手伝いをなんでも引き受け、かろうじて寮にしがみついていた。
一日一食。支払いは滞っているものの、昼に与えられる給食だけが私の命綱だった。
給食費を支払っていない私が啜るスープは、ひどい罪悪感の味がした。
まともな手段でお金を稼ぐことができない私にとって、金に換えられる自分の価値など、その身一つしかなかった。
初めて自分の性を売ったのは、小学五年生になった秋だった。
二次性徴期にさしかかり、ほんの少しだけ女性らしい特徴の見え始めた私を買いたがる人間は、掃いて捨てるほどいた。
最初に私に手を付けたのは、昔近所に住んでいたおじさんだった。
彼が私に大人ぶった口ぶりで「いつでも頼って」だの「心配している」だのと説きながら、彼の視線が私を値踏みしていたことに気付いていて、私から声をかけた。
私の処女は、しわくちゃの五千円札一枚に換えられた。
給食費用にして一ヶ月分。それを安いと取るか高いと取るかは、環境によって変わるだろう。
私にとっては、屈辱の沼に身を投じてても、喉から手が出るほど欲しかった五千円だった。
一年が経ち、私は小学六年生になった。
積み立てに参加できず、一度も行ったことがない修学旅行に、「最後の思い出だから」と担任が誘ってくれた。
行き先は山梨県だった。紅葉の綺麗な時期に、富士の麓に宿泊した。
その頃には身売りにも慣れ、寮費とまではいかなくとも、給食費用をはじめとする雑多な請求には応じられるようになっていた。
以前よりもずっと暮らしやすくなって、給食も罪悪感の味はしなくなったはずなのに、私の心は相変わらず壊れたままだった。
日中は笑顔でみんなとはしゃぎまわり、連れ出してくれた先生を心底安心させるように大喜びで何度もお礼を言って、夜みんなが寝静まった頃に一人で外に出た。
富士山麓の青木ケ原樹海は、「一度入ったら出られない」と宿泊先でも評判だった。皆が恐れるその口上が、私にはこの上なく魅力的な誘い文句に聞こえた時点で、きっととっくにおかしくなっていたのだろう。
私は、調べるという行為が得意だった。入念な準備と事前知識がなくては、交渉のテーブルにもつけない。
図書館では無料でインターネットが使える。私が初等部の時分には、今ほど規制も厳しくなかったから、首を括って死ぬための準備というものも、簡単に調べることができた。
縄は細過ぎれば気道に食い込んで苦しく、太過ぎれば上手く動脈を圧迫できない。
けれど首に合ったほどよい太さの縄であれば、苦しさで窒息する前に血流阻害で意識を失えるらしい。
適切な長さと縄の径をメモし、その通りのものを購入した私は、修学旅行の鞄にそれを入れていた。
——そう、あの時の私は、死ぬために樹海に入ったのだ。
けれど、どうしてこんなことになったのか。
気付けば私は、大きなトラバサミに掛かった狐を助けていた。
しゃらん、と鈴の鳴る音がして振り返った先。青白い狐火を灯して私を呼び込もうとするその狐が、この世のものでないことはわかっていた。
今から死のうというのに、樹海の狐が一匹罠に掛かったことなんて、取るに足らない些事のはずだった。
けれど、その子を見た瞬間に、私はどうしてもその子に近寄り、触れたくなったのだ。
トラバサミの仕組みと開閉について、幸いにして私は過去に調べて知っていた。
「苦しくない死に方」を選ぶためには、「苦しい死に方」も知る必要がある。
過去の判例や世界史にまで遡り、あらゆる拷問器具などまで調査していた中に、トラバサミの派生もあった。
そもそも現代日本では禁止されているはずだが、樹海は治外法権ということだろうか。
「あなたも、どうしてこんなところで、こんなものに掛かってしまうかな……」
トラバサミはサイドにつけられている棒状のペダルを踏めば開口するが、ペダルは硬く、標準体重をはるかに下回る私では相当に苦戦した。狐を助け出す頃にはすっかり空も白み始めていて、「今日の自殺は無理だな」と頭の片隅で思う。
助け出された狐は、私を見て「本当にありがとう、あなたは命の恩人だ!」と喋った。
狐が、喋っていた。
そのうっかりさんな狐は、元はとある神社の神使だったそうで、「縁結びで有名なのだ!」と胸を張った。助けたお礼に好きな人との縁を結んでくれると豪語されたが、結んで欲しい縁などない。
そもそも現世そのものから縁を断ち切ろうとしていたのだから、願うべくもなかった。
けれど狐は、「あるじさまの願いを叶えるまで、おそばでお仕えします!」と私に取り憑いてしまった。
「ほどよい径と長さの縄」は狐の止血と包帯がわりに使ってしまったし、一泊二日の修学旅行では次の夜はない。樹海での自殺は諦めるしかなくて、私はあっさりと自殺の予定を頭から捨てた。
朝帰りした私を、先生はひどく心配していたけれど、「朝焼けがきれいだったのでー」と子供っぽく誤魔化すとようやく安堵してくれた。私はこういう時に、上手に嘘をつくことに慣れた人間だった。
人間はみんな嘘つきだ。管狐よりもよほど醜悪で、陰湿で、狡猾な生き物。
苦い言葉を吐き散らしながら生きている彼らと、結びたい縁なんてない。
けれど狐は私に願い事をせがむので、仕方なくクラスで一番人気のある男子の名前を挙げた。
狐はとっても喜んで、全身全霊でくっつけて見せると息巻いた。
狐は、本当に鈍臭かった。
他人には見えないらしいその狐が、何か私の知らない特別な能力を使って、例の男子を心変わりさせてしまったらどうしようと不安に思っていたが、そんなことは起きなかった。
最終日、周囲から浮かない程度に風景にカメラを向けていた私に、狐が「あるじさま、あるじさま!」と切羽詰まった呼び声を出す。振り返ると、狐が例の男子にまとわりついていた。
「今です! シャッターチャンスです!」
狐がやたら迫真めいてそんなことを言うものだから、私は思わず彼に向けてシャッターを切った。
驚いた男子たちに、私は慌てて「ごめんね、格好良かったから、つい」と誤魔化すはめになったけれど。
そうして修学旅行を終えて現像した写真には、ドアップの管狐が写っていた。
「……」
「……」
「あなたって、写真には映るんだ……」
他人には見えない彼だから、写真にも映らないかと思っていたのに。
これからは、うっかり他人に写真を撮られないようにしないとな、と思う横で「申し訳ありません、あるじさま……」とバツが悪そうに管狐が謝る。
何を言っているのだろう。
こんなにも、素敵な写真が撮れたのに。
✤
「あるじさまは、あの男のどこが好きなのです?」
「小手鞠君? んー……、髪が金色なところかな」
適当なことを答えると、「あるじさまは金色が好きなのですか?」と尋ねてくる。
「そうだよー、コンちゃん。私は金色が大好き」
黄金色の管狐を自分の腕に招き入れると、みんなが好いてくれる顔でゆったりと微笑んだ。
部屋中に貼られた写真には、いずれも自分と——、愛する管狐が写っている。背景の有象無象など知る由もない。
学校の至る所で撮られたツーショットは、どれも大切な思い出だ。
「あるじさま。今度こそあるじさまの願いが叶うように頑張ります!」
「そうだねー、頑張ろうね」
大好きな管狐は、私の愛が自分自身に向けられていることなど露知らず、見当違いな私の想い人を探し出しては、縁を結ぼうと努力してくれる。
それでいい。管狐は願いを叶えたら、いなくなってしまうから。
「ずっと一緒にいようね、コンちゃん」
夜鍋に疲れ、隣で眠りに就くコンちゃんを慈しむように撫でて、明かりを消す。
闇の中で、寝ぼけた管狐の尻尾がくすぐるように私の手に触れた。私に寄り添って眠るその温もりが、私に這い寄る不安も、気色の悪い過去も、苦い言葉の味も、全てを優しく溶かしていく。
明日も、明後日も、きっと素敵な日々が私たちを待っているはずだ。
この幸せな時間が永遠に続くことを願いながら、私は静かに目を閉じた。
怪異に愛された少年と、怪異を愛する少女のお話。
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