第五夜┊四「愛色の狐」
「もう。何やってるの?」
「うう、すみません、あるじさま……」
新校舎の校庭は、旧校舎の日本庭園とは打って変わって洋風な作りだ。
春と秋には数々のバラが咲き誇る薔薇園でもあるが、夏が近付いてきたせいで、ほとんどの株は花を切り落とされてしまっている。
中央に大きな噴水広場が設置された庭園は、もう少し過ごしやすい季節であれば昼休みも放課後も人の絶えない人気のスポットだが、今は暑さのせいで人影もまばらだった。
愛色恋依は木陰に辿り着くと、日傘を畳みながら傍らの黄金色をたしなめる。
叱られた管狐はしゅんと項垂れて、いつもよりさらに小さく見えた。
「ラブレターってなに? あなたが書いたの?」
「はい。三百通ほどしたためました」
「三百!? す、すごいねー……、まさか全部手書きで?」
「ここ数日、あるじさまがお休みになられておられる間に、わたくしめが夜鍋を……」
三百通の手書きと聞いて、愛色恋依は額に手をやる。想像するだけで目眩がしそうだ。そんなところに労力を割かないで、夜は一緒に寝て欲しかった。
「申し訳ありません。喜んでいただけるかと思ったのですが」
「はあ……。事情はわかったけど、今朝の話を聞いたでしょ? 小手鞠君、特に恋人とか求めてないって言ってたし。私はもうフラれちゃったんだから、これ以上、小手鞠君に迷惑をかけるのはダメだよ」
それまで萎れていた管狐が、「なんという不遜! こんなにお優しく美しいあるじさまを振るだなんて! 節穴にもほどがある!」と怒りでみるみる真っ赤になっていく。
対する愛色恋依は、「はいはい、そうだね。コンちゃんがそう思ってくれるならそれで十分だよー」と慰めとも同情ともつかない言葉で雑に宥めていた。
「はあ、やっぱりか」
これ以上の盗み聞きは不要と判断したのだろう。
星蓮が薔薇の生け垣から姿を見せると、黄金色のモフモフが飛び上がって逃げようとする。
その首を容赦なく引っ掴むと、星蓮の手に吊し上げられたモフモフが「キュウ……」と哀れな鳴き声を上げた。
「その子は……、狐?」
星蓮が掴んでいるモフモフを指して尋ねる。見た目は狐っぽいが、それにしてはやや小さく細長い。胴体の長いチワワのようだ。
「管狐。昔から人間に使役されている怪異だ。式神に近い。主人の願いを叶えたら隷属から解放されると言われている」
「じゃあ、愛色さんから離れたくて、願いを叶えようとしてたの?」
「たわけ! なんてことを言うんだ! 私はあるじさまに喜んで欲しいだけだ!」
それまで呆然と僕らを見守っていた愛色さんが、驚いたように「ふたりとも、コンちゃんが見えるの……?」と声を上げた。
これまで何を問われてものらりくらりだった愛色さんが、口元を両手で覆って、殺人現場でも見たような表情でこちらを見ている。
最近は星蓮や雛遊先生、若宮さんと、視える人たちにばかり囲まれて生活していたせいで、そういえばそもそも怪異は普通の人には視えないものだということを失念していた。
「まあ諸事情で。秘密にしてくれると助かる」
「そう、なんだ……。コンちゃんと会話まで出来るなんて、驚いちゃった」
愛色さんはよろめきながらも、「うん、わかった、秘密にするね」と殊勝に頷く。さすがにその姿を見かねたのか、星蓮が管狐を離してやると、コンちゃんと呼ばれた怪異はすぐさま主に向かって飛んでいって、その腕にしがみつくように巻きついた。
「あるじさま、こいつらは野蛮でいけません」
「コンちゃんが迷惑をかけたから怒られてるんだよー、ちゃんとごめんなさいしないと。……ところで、どうしてコンちゃんのことがわかったの? 私の単独犯だとは思わなかった?」
そういえば星蓮は「愛色が巻き込まれているだけなのか、主犯なのかが判らない」とは言っていたが、最初から単独犯であることは疑っていないようだった。
「寮生とはいえ、異性の寮の部屋番号なんて知ってるはずがないんだよな。ましてやあの量の手紙を抱えて人間がポストに押し込んでたら、警備員がすっ飛んでくるだろ」
星蓮に解説されて、「確かに」と頷く。
ラブレターは集合ポストに入れられていたが、集合ポストには部屋番号しか掲載されていない。
どれが誰のポストかなんて、男子寮の部外者には判るはずがないのだ。
「ってことは、朝にポスト開けた時点で愛色さんじゃないって判ってたのか、すごいな」
「単独犯じゃないってことはな。仲の良い男子生徒がいたなら預けた可能性もあるだろうと思って今日一日見ていたけど、親しい交友関係は卯ノ花くらいだろ」
「よく見てるね。私、結構いろんな人とお話してるはずなんだけどなー」
「交流があるのと親しいのはまた別だろ。それにおまえ、どちらかと言うと人間が嫌い……」
紡ぎかけていた星蓮の言葉は、愛色さんが立てた人差し指によって阻まれた。
いつもの緩さからは想像できないほど圧のある微笑みに、星蓮は「……わかった」と一言返して、口を噤む。
「なんてことを言う! あるじさまはお前たちと違ってフトコロが深く、愛情深いお方なのだぞ!」
「俺達のことはさておいて、おまえはなんでこいつが見えるんだ? 他の怪異は見えてないだろ」
「無視するな! そしてあるじさまに向かって『おまえ』とは何事だ!」
視界の端で駆けて行った三尾のネズミを無意識に目で追う僕に対して、微動だにしない愛色さんに星蓮が尋ねる。
愛色さんは「うん、私はコンちゃんしか見えないよ」と答えて、腕に巻き付いている管狐を抱き上げた。
「こいつに迷惑を掛けられるのは、今日が初めてでもないだろう。困ってるなら、おまえからそいつを引き剥がしてやるけど」
「あはは、ありがとう。優しいんだねー星蓮君。でもコンちゃんとは仲良しだから大丈夫だよ」
腕の中の管狐に頬擦りしながら愛色さんが答えて、管狐が感激したように「あるじさまー!」としがみつく。
そんな二人の様子を、星蓮は冷めた瞳で見つめていた。
「怪異は、おまえが思っているほどいいものじゃない。管狐は狡猾で陰湿だ。自分の望みを叶えるためなら手段を選ばない傾向もある。おまえがそれを可愛いと思っていたとしても、ぬいぐるみやペットとは本質的に異なる存在だ」
冷え切った言葉は、彼の厚意の裏返しであることを知っているだけに、胃がキリキリと痛んだ。
星蓮はただ愛色さんを心配しているだけだろう。けれど、怪異に誑かされている人間に、生易しい説得は通じない。
ましてや、「コンちゃん」以外の怪異を知らない彼女では、その恐ろしさを体感する機会もなかっただろう。
いきなり現れた僕らが「その怪異は危ないかも」と伝えても、きっと理解は示されない。
……そう思っていたのだが、愛色さんの表情は驚くほど凪いでいた。
「ちょっとびっくり。星蓮君って本当に優しいんだね。ちゃんと会話したの、今日が初めてなのに。そんなに真剣に私の心配してくれるんだ」
「……おまえが俺の言葉を正しく受け取ってくれて、俺も驚いてるよ」
困ったように星蓮が笑う。
嫌われ役を買ってでたつもりが、その真意をあっさり汲み取られてしまって、照れくさいようだった。
「校内でもたくさんの人とお話するけど、こんな風に真剣に私の身を案じて叱ってくれるのは、兎楽々ちゃんと星蓮君くらいかも。……うん、嬉しい」
愛色さんは胸に手を当てる。そこに染み込む言葉を触って確かめるように。
彼女はもしかしたら、人の言葉が本心から来るものなのかどうかが判る人なのかも知れない。
日々、数多くの人間と接し、にこやかに応対しておきながら、人間が嫌いだと称された彼女は、嘘や建前で粉飾された言葉に飽き飽きしているのではないだろうか。
僕も、星蓮の真っ直ぐな言葉に何度も救われてきたから、判る。彼の言葉はいつも疑いようのない真っ直ぐさで、だから信じるのも怖くない。
「コンちゃんの他にも怪異が見える二人なら、きっと私の知らない色んな危険を知ってるんだろうね。忠告はありがたく受け取っておくよ。……でもごめんね、コンちゃんは大切なお友達なの。誰に何を言われても、絶対に離れる気はないよ」
毅然とした口調に、いつもの間延びした気配は微塵も感じられない。普段の姿が、人間嫌いな愛色さんの処世術だとするならば、これが彼女の本来の姿なのだろう。
星蓮は「そうか」と頷いて、下ろしていた鞄を再び背負い直した。
「けど、それなら気を付けた方が良いぞ。人間と怪異の交流なんて、一ミリも認めないっていう怖い大人たちが其処彼処にいる。その管狐を取り上げられたくないのなら、今日みたいに迂闊に外で話し掛けたりするのは控えた方が良い」
「わかった。気を付けるね」
愛色さんは素直に頷いて、僕らに手を振った。