第五夜┊三「愛色の狐」
快晴、もとい炎天下の長距離走は、なかなか地獄だった。
みんながどうしてそんなに嫌がるのか、僕はいまいち分かっていなかったけれど、グラウンドに立ってようやく思い知った。熱されたタータントラックの上に立つだけで汗が吹き出る。こんなところで走り回っていたら、授業が終わる頃にはミディアム・レアだ。
そして、どうやら「僕」は長距離走が苦手らしい、ということを理解したのは、一周四百メートルのトラックの三周目に差し掛かった時だった。
「せ、星蓮……、先、行って、いいよ」
僕に合わせてゆるゆると走りながら「大丈夫か?」と声を掛けてくる彼に、息も絶え絶えそう返す。喋る気力もなかった。
体力測定は千五百メートルだ。まだ半分近く残っていると思うと気が遠くなる。
「行かないよ。おまえ、目を離したら倒れそうだし」
「気に、しないで……。正しく、測らないと、体力テストの意味、ないし」
「正しく測ったら体重の時点で測定不能だろうな」
もう折り返したからあともうちょい頑張れ、と励まされ、半ば意地でなんとかゴールを迎える。僕の足はもうガタガタだった。
「おつかれー。タイム記入するからゴールで伝えられた時間を申告してねー」
早めに終わった女子の一部が記録係を兼ねているらしく、愛色さんがこっちを向いて手を振っている。急かされはしなかったが、僕らが男子の最後尾であったことは間違いない。彼女たちは僕らの記録待ちなのだろう。
正直ゴールした瞬間のタイムなんて全く耳に入っていなかったけれど、頼もしいルームメイトがその聡明な頭に刻んでくれているはずだ。
星蓮に丸投げするつもりで、僕は子鹿のような両足を叱咤すると、記録係の愛色さんに歩み寄った。
「え」
「わっ……、小手鞠君!?」
途中、足が何かに引っかかって、僕はバランスを崩す。つんのめった先には、愛色さんのピンク色の髪が見えた。
全てがスローモーションのように見え始めたが、もつれた足と疲弊しきった体では、踏ん張ることも避けることもできない。
「……大丈夫か?」
あわや愛色さんを巻き込む形で転倒しかけた僕の襟首を、星蓮が片手で掴んでうしろに引き戻す。かろうじて愛色さんには接触することなく踏みとどまった。
「あ、ありがとう。助かった。愛色さんもごめんね」
「いいよー、なんともなかったし。男子は千五百だもんね、疲れるよねー」
愛色さんは間延びした声で緩やかに頷いて同情すると、「はい、頑張ったで賞のタオルー」と僕らにタオルを渡してくれた。
「星蓮君って、意外と力強いんだねー」
「こいつよりはな」
「そうなんだー、じゃあ、握力測定が楽しみだねー」
二人は歓談しつつ、僕の分のタイムも記録してくれている。
ところでさっき、僕は何に躓いたんだろうか。
二人の後ろで振り返ってみたが、地面には何も落ちていなかった。
✤
「疲れた……。もう一歩も動けない」
「お疲れ、ほら」
その後の僕は自販機にすら辿り着けず、情けなくも星蓮に頼んで買ってきてもらったスポーツドリンクをありがたく受け取る。
体育が六限で本当に良かった。今日は七限がないので、あとは帰って休むだけだ。
「でも俺ら、今週は掃除当番なんだよな」
「うわあぁぁ……」
地獄の宣告に頭を抱える。すっかり忘れていた。僕らの通う高校は、高めの授業費を徴収することで金銭的にも潤っており、教室以外の箇所は基本的に清掃会社を入れていた。だが、教室の清掃だけは教育の一環ということで、未だに当番制になっている。
今週は出席番号十三、十四。僕らが掃除の担当だった。
「休んでていいぞ、俺がやっておく」
「そういうわけには……」
「いや、歩くのもままならないやつに机なんて運ばせられないだろ」
ごもっとも過ぎて、ぐうの音も出ない。
粗方教室から人がはけ、机を運ぼうと星蓮が椅子を机に乗せ始めたあたりで、扉を開く音と同時に「あれー?」と本日何度目かの声が響いた。
「愛色か。今からここ掃除するから、長居は禁止な」
「星蓮君。小手鞠君の代理?」
「代理っていうか、俺も掃除当番だし」
星蓮の言葉に、愛色さんはもう一度「あれー」と呟きながら、黒板を指差す。
「掃除当番、私と小手鞠君のはずだけど」
愛色さんに促されて、黒板に視線をやる。桃色のネイルに指差された先には、確かに「掃除当番:愛色・小手鞠」の文字があった。
「出席番号順だろ? おまえとこいつがペアになることはないはずだ」
「うーん、でも書いてあったし」
「誰かが書き換えたんじゃないのか。俺が直しとくから帰っていいぞ」
愛色さんは、「えー」と少し悩む素振りを見せたが、「うん、じゃあそうする。ありがとー」と頷くと、自分のスクールバッグを背負い直した。
「……悪戯かなあ」
愛色さんが出て行ったのを確認して、僕は星蓮に向き直る。「確信犯だろうな」と黒板の名前を直しながら星蓮が返した。
「ラブレターと掃除当番は許すけど、トラックでおまえの足を引っ掛けたのは許せない」
「えっ、あれもそうだったのか」
どうりで、地面には何も落ちてなかったわけだ。
星蓮は「確証はないが十中八九そうだろうな」と肩を竦めた。
「ただ、愛色も巻き込まれてる側なのか、あいつが主犯なのか判らないんだよな。問い詰めるには決め手に欠ける。……追ってみるか」
「ええ、今から?」
「愛色は少なくとも俺らが掃除を終えるまで外に出ないと思ってる。万に一つでもあいつが主犯だったら、次の手を打つ絶好の機会だろう」
掃除はまた明日な、と星蓮が自分の鞄を引っ掴んで、俊敏に教室から駆け出していく。
さっきあんなに走ったあとなのにすごいな、と感心しながら、僕もよたよたと力無くその後を追った。