第五夜┊二「愛色の狐」
学生寮の入り口には、多くのマンションと変わらず郵便受けが付属している。
部屋番号でラベリングされた集合ポストは、毎朝の習慣で覗くことにしているものの、僕も彼も私的な郵便物が届くような続柄の相手はいないので、そこにあるのは大抵ただのチラシだった。
「あれ、開かない……?」
「ん? ああ、詰め込まれ過ぎるとたまに開かなくなるよな」
「おかしいな。昨日の朝は空だったはずだけど……」
カタカタと安っぽい作りのダイヤルを回す。ややあって、郵便受けが重々しく口を開けた。
途端、雪崩のように色とりどりの手紙がバサバサと溢れ出してくる。この集合ポストにそんな積載能力があったのかと驚くほどの量だ。
僕が雪崩に飲み込まれている間に、星蓮がそのうちの一つを手に取る。「小手鞠カルタ様」と宛てられた文字に星空を模した瞳を細めると、容赦なく封を切った。
「ラブレターだな」
「えっ……」
星蓮は中身をいくつか検めると、元のように封筒の中へと折りたたんで「ほら」と僕に渡してくる。
親愛なる小手鞠様。大好きな小手鞠様。愛しの小手鞠様——。
微妙にニュアンスは異なるものの、開封された全ての手紙は、等しく僕への愛を訴えるものだった。そして結びの文字の後には、同じ名前が記されている。
——愛色こより。
その名前には覚えがあった。
名簿に羅列されていた文字。出席番号三番、クラスメイトの愛色恋依だ。
なんで? という疑問と同時に、これはもしかしてまずいのでは? と慌てて隣の執念深い友人に目を向ける。
が、星蓮は意外にも「愛色恋依、クラスメイトだな。良かったじゃないか」と残りの手紙を拾い集めながら祝福してくれた。
「その、怒らないのか?」
「ん? どうして俺が?」
「いや、いつも怒るじゃないか……。向日葵さんとか、藤の木とか……」
「それは相手が怪異だからだろ。俺は、おまえが人間と仲良くするのを邪魔するつもりはない」
呆れたように嘆息しながら、集めたラブレターの束を僕が抱える手紙の山に乗せていく。前が見えなくなりそうな量だった。
「おまえだって、いつか恋人を作ったり、婚姻を結んだりするだろう。おまえが幸せになれるなら、俺は何も言わないよ」
「何も、言ってくれないのか?」
やけに殊勝なことを言う星蓮に、僕はなんだか不安になって、訳のわからない食い下がり方をする。
星蓮が手紙の山の向こうで「じゃあ」と苦笑する音がした。
「おめでとうって、祝福するよ」
まるで、泡になって消えてしまいそうな儚い声で、彼が答える。
その時の星蓮が、どんな顔をしていたのか。
目の前の手紙の山が邪魔で、僕には見えなかった。
✤
「愛色」
最左列、前から三番目の席に座る女の子は、一見おとなしそうな少女だった。
もっとも、限界まで脱色を繰り返したシルバーアッシュの髪に、ピンクのメッシュカラーを入れるような女が、本当におとなしければの話だが。
名前を呼ばれた少女は、同じクラスとはいえ今日まで話すこともなかった面子に、不思議そうに小首を傾げる。
「おはよー。星蓮君と小手鞠君、だよね」
「おはよう。急にごめんね、あの……」
「悪いけど、こいつは今は誰とも付き合う気がないってさ」
ポストに詰め込まれていたラブレターの一つを彼女の机の上に出して、星蓮が詰め寄る。その隣で僕は声にならない悲鳴を上げた。
確かに、返事をどうするのか聞いてきた星蓮に、一言一句違わず僕がそう言ったんだけれども!
星蓮の言葉に、先程まで賑やかだったはずのクラスが一斉に静まり返って、僕らの動向を注視する。
一方の愛色さんは、相変わらず不思議そうにその手紙を手に取って、中身を読み始めた。
「こ、こより、小手鞠君に告白したの!?」
後ろの席から身を乗り出して、小声で耳打ちしているのは、出席番号四番、卯ノ花兎楽々だ。
背が低く、ツインテールに髪を結んだ姿は名前と印象が合致している。
卯ノ花さんに肩を叩かれて、愛色さんは「まだ読んでる途中ー」と返していたが、やがて最後まで目を通し終えたらしい。
「覚えがないけど、確かに私の字に似てる……。誰かの悪戯かなー」
ごめんねー、と間延びした声音で軽い謝罪を述べると、読み終えた手紙を僕に返してきた。
「おまえじゃないのか?」
「うーん、多分? 夢遊病とかだったりするかもしれないから、その辺りの可能性も含めて、ごめんねーって」
愛色さんのゆるいリアクションに、固唾を呑んで見守っていたクラスメイトたちも呼吸を思い出したようで、散り散りにざわめきを取り戻していく。
起立していた卯ノ花さんも、「なぁーんだ」とつまらなさそうに着席した。
残された星蓮は納得行かないといった顔でしばらく愛色さんを見下ろしていたが、鳴り響いた予鈴に、仕方なく自分の席へと戻っていった。
「あいつ、気を付けた方がいい」
「あいつって、愛色さん?」
六限の体育に向かうため、更衣室で指定のジャージに着替えている僕に、星蓮が声を潜めて話し掛ける。
遅めの体力測定が開始され、今日は持久力項目の長距離走だった。心なしか、みんなの口数はいつもより少なく、着替えの手も鈍い。僕らが隅っこで駄弁っていても、男子生徒諸君に気にする元気はないようだった。
「俺はおまえが人間と仲良くする分には邪魔しないけど、相手が人間じゃなければ話は別だ」
「え、愛色さんって人間じゃないの?」
ぎょっとする僕に、「いや」と星蓮が言葉を濁す。
「よほど隠れるのが巧いやつでない限り、あいつ自身は人間に見える。ただなんとなく、あいつの周りは妙に騒がしい。……誤解してほしくないから言うけど、俺には怪異と人間の見分けなんて雑感でしか掴めないからな。おまえのアレルギーの方がよほど役に立つ」
「今朝、愛色さんの席に寄ったときは、なんともなかったけど……」
「なら、野良じゃないのかもしれないな」
「ノラ?」
外にいる怪異のことだろうか。
だとしたら、野良じゃない怪異も存在するのか。
クエスチョンマークを浮かべる僕に、「雛遊の兎を見ただろ。あれは使役された怪異。飼い怪異だよ」と星蓮が補足してくれる。しかし僕は『飼い怪異』の語感の悪さが気になって、それどころじゃなかった。
「愛色は怪異を飼っているのかもしれない。封印や使役された怪異には、おまえのアレルギーも反応しなかっただろ」
確かに、絵の中に閉じ込められている向日葵さんとは毎晩のように深夜トークをする仲だが、特に問題が起きたことはない。
何とはなしに答えた僕の言葉を受けて、星蓮の眉間に皺が寄った。
「待て、深夜トークがなんだって?」
「え」
ラブレターはセーフだったのに、妙なところで地雷を踏んでしまった。
星蓮は早く寝て早く起きる、規則正しい朝型タイプだったから、同じ寮室内でも夜型の僕が向日葵さんと毎晩語り明かしていることなど知る由もない。
「なんでおまえは寝てないんだよ……。一体何の話をしてるんだ。あの女じゃなきゃダメな話なのか?」
「星蓮は興味がない話だと思うよ」
「おまえの話ならなんでも興味がある」
「ありがとう。でも、僕の話じゃないから……」
間髪入れずに詰め寄る星蓮に、両手を挙げて丁寧に固辞する。向日葵さんが語る話題といえば、もっぱら雛遊さんの話だ。
彼女がどれだけ素晴らしい人だったか、どれだけ努力家でストイックだったか、彼女の描く絵がいかに素晴らしいか、エトセトラ、エトセトラ……。
僕に詰め寄っていた星蓮の目が段々細められていって、「確かに、興味ないな」と返した。
「おまえはそれ、面白いのか?」
「面白いっていうか……」
……僕と話す向日葵さんは、とても楽しそうで。
僕が雛遊さんにとても似ているのもあってか、向日葵さんは「こうしていると、あの夕日の時間に戻ったようです」と幸せそうに話してくれる。
ああも喜んでくれると、僕としても悪い気はしない。
「俺だって、おまえと話したら喜ぶぞ!」
「星蓮は寝るのが早いから」
「……だって、たくさん食べてたくさん寝ないと、大きくなれない」
バツが悪そうに星蓮が口ごもる。
……気にしなくていいのに。彼が大きくなろうとするのは僕のためだということを、僕もよく知っている。
『おまえだって、いつか恋人を作ったり、婚姻を結んだりするだろう』と星蓮は言うけれど。
婚姻なんて、するはずもない。
——だって僕は、十八になったら土地神様のものになるのだから。
星蓮だって知っているはずなのに、彼は当たり前のように僕の未来を口にする。
本気で、土地神様に抗うつもりでいる。
たくさん食べてたくさん寝て、とても大きくなったとしても、土地神様には敵わないのに。
僕の願いは、「大きなさかなと友達になること」だ。
彼が土地神様に食べられてしまったら、僕の願いは叶わなくなってしまう。
「……星蓮が起きている間は、君と一番話をするよ」
僕は悩んだ末にそう答えて、星蓮とともにロッカールームを後にした。