第五夜┊一「愛色の狐」
寮室の中には、常軌を逸した光景が広がっていた。
壁という壁は無数の写真で覆い尽くされ、もはや本来の色すら窺い知れない。一面に貼られた写真には、一様に同じ少女の姿が映り込んでいる。
特徴的な私立校の制服に身を包んだ少女は、こちらに向かって、恋色に染まった笑顔を向けていた。
その笑顔の海の中で、背景に映り込んでいる別の生徒の姿がやけに目に付く。写真の中で微かな横顔しか見えない蜂蜜色の少年は、こちらに全く気付いていない様子だった。
「ふふ、可愛い」
少女はうっとりと写真を撫でて、その隣に現像したばかりの新しい写真を丁寧に貼り付けていく。
少女が指先で撫でている写真には、満面の笑顔の少女のすぐうしろで、友人と語り合う小手鞠カルタの後ろ姿が写っていた。
その少年の後頭部付近には、対象を振り向かせようと奮闘する、彼女の小さな手下も映り込んでいる。
さらにその隣に貼られた写真は、先程の写真の直後だろうか。驚いた顔で振り向いた少年と、笑顔の少女の顔が、丁度ツーショットのように並んでいる。ただ残念なことに、少年の顔には逃げ遅れたらしき彼女の手下——管狐の姿が、ばっちり被ってしまっていた。
「申し訳ありません、あるじさま……」
「いいんだよ、とっても素敵な写真」
少女は朗らかに笑って、管狐の姿で九割は隠れてしまっている少年の顔にキスをする。
出席番号三番、愛色恋依は満足そうに微笑むと、次はどんな写真を撮ろうかと想いを馳せながら、羽毛の布団に身を包んだ。
やけに目覚めのいい朝だった。
陽光が優しく差し込む窓からは、新しい一日の始まりを感じる。寮の廊下から聞こえてくる靴音が徐々にその数を増やし、活気を帯びていった。
机の上では、昨夜書き終えた日記が開いたまま放置されている。ベッドから身を起こして、僕はカーテンを開けた。
「おはよう、星蓮」
カウンターキッチンの向こうで鯖をくわえているルームメイトに声を掛けると、片手を上げて応じてくれる。
今日の朝食は和食御膳らしい。ところで、クジラも鯖を食べるんだろうか。
「口の中に入ってくるものは大体食べる。魚もイカもオキアミも」
「へえ、意外と肉食なんだな」
ご飯、お味噌汁、焼き魚と大根おろし。付け合わせに胡瓜の浅漬け。
目の前に並べられていく食事は、いつの間にやらすっかり僕の好みに調整されていた。
胃袋を掴まれるってこういうことなのかな、と思いながらこんがり焼かれた鯖の切り身に箸を入れる。箸の先からほっこりと白い湯気が立ち昇った。
「おいしい。いつもありがとう」
「どういたしまして。それにしても、おまえはあんまり肉を食わないんだな」
たくさん食べないと大きくなれないぞ、と二匹目の鯖に手を付けながら星蓮が僕を見る。
言っていることはもっともなのだが、元の姿では一日に10t以上もの食事量を誇る彼の基準の「たくさん」は、僕にはついていけそうにない。
「善処するよ」と答えて、しじみのお味噌汁に口をつける。出汁が効いた優しい味わいだ。
ダイニングの棚には、付箋だらけの料理本が山積みになっている。星屑を呑み込んで生きてきた彼は、僕の味覚に合わせるために日々勉強してくれているのだろう。
「……明日は僕が作るよ」
「なんだ、鯖は好きじゃなかったか?」
「いや、そういえば君に任せきりだったなって思って。気付くのが遅くなってごめん」
「俺が好きでやってるだけだよ。でもおまえが気にするなら、明日だけおまえに作ってもらおうかな」
何が出てくるのか楽しみだ、と悪戯っぽく笑う彼に、「あんまりハードルを上げないでくれよ」と念を押す。
料理の経験はないが、星蓮の本を借りつつ、食材を切って焼いて煮ればなんとかなるだろう。
僕は楽観的に考えて、食べ終えた食事に手を合わせた。
翌朝、僕の『目玉焼き』によってキッチンが再起不能なまでに破壊されるなんて、この時の僕らは少しも想像していなかった。