第四夜┊三「花房の揺り籠」
——私を植えたのは、人の子だった。
ここが普通の校舎として成立していた頃、人の子たちが私を植えた。
幼木であった私にせっせと水をやり、肥料をまき、陽に当て、時には傘を差し出して、彼らは私の成長を日がな一日眺めていた。
そのように毎日私を眺めても、私の成長は人の子たちほど早くはない。
私の花を待ち望む子供たちの卒業までに、私の開花は間に合わないであろう。
無意味に失望されるのが嫌で、私は人の子らから顔を隠すように、小ぢんまりと育った。
三年が経ち、私を植えた子らは巣立って行った。
辛うじて彼らの背丈ほどには伸びたが、枝葉もまばらで花も咲かない、貧相な姿の私を、彼らは最後の日まで喜んで世話をし、ともに写真を撮って行った。
彼らは最後まで、私に失望することはなかった。
……こんなことならば、もう少し堂々と枝葉を広げておけばよかった。
彼らの写真に映る私の姿は惨めで恥ずかしく、私は再びこの校舎の裏側で一人、小さくなっていた。
彼らが卒業し、もう私に見向く者もいないだろうと思っていたが、どうやら私の世話を託されたらしい彼らの後輩が、また同じように私を取り囲んでは世話を始めた。
私に慣れていない後輩たちは、肥料を撒きすぎたり、水を与えすぎたりとたびたび私を苦しめたが、私はもう後悔したくなくて、意地で枝葉を伸ばし続けた。
一年後、結局また花は咲かなかったが、巣立っていく彼らと共に撮った写真は、以前よりまともな姿になっていた。
そうして彼らは、私を世話しては次の世代に託していくことを繰り返した。
花も咲かぬ藤の何が面白いのか。雨の日も、風の日も、彼らは献身的に私の世話をした。
私には、彼らの心が全く理解できなかった。
明くる年、私は遂に最初の花を咲かせた。
植えられた当初は、私がこんなにも大きくなるとは思っていなかったのだろう。階段脇の小さな花壇では藤棚を建てることはできず、私は不恰好に校舎の壁面を這い、外壁の一部を紫に彩っていた。
その代の子供らは大層喜び、私の足元で花見を開いた。
……ほら、やはり花が見たかったのではないか。
はしゃぐ子供らに対して誇らしげに思うと同時に、あれほど世話をしてくれたのに花を見せてやれなかった、昨年までの人の子たちのことを思うとやりきれない。
項垂れる私の花は、紫に枝垂れたままその春の花びらを散らせた。
——長い年月が経った。
私はすっかり成長し、見事な花を咲かせるようになった。
しかし、もう私の花を喜ぶ者はいない。
いつの間にかこの校舎で人の声を聞くことはなくなり、鬱陶しいほど世話を焼いてきた人の子たちは、ぱったりと姿を見せなくなった。
私は結局、彼らが世話をしてくれていた時期の大半を枝葉だけで過ごし、藤のくせに大して花を見せてやることも出来なかったのだ。
今ではもう、咲き誇っても散るばかり。
つまらぬ日々に、私は目を閉じた。
独りにも慣れたある春の日、一羽の小さなメジロが私の枝に巣を作り始めた。
……不敬な鳥め、この私を宿代わりとは。
どうせすぐに出て行くだろうと思っていたが、そのメジロは片足が不自由らしく、うまく飛べないようだった。
「ふん。小鳥のくせに、満足に空も飛べないでどうする」
吐いた悪態は、藤のくせに花も咲かせられなかった時の自分を思い起こさせて、余計に腹立たしくなった。
メジロは必死に私の枝に巣を張ったが、空高く飛べないメジロの巣の位置は低く、あまりに頼りない。
そんなところに巣を作っても、すぐに狐や蛇に食われてしまうだろう。
呆れる私に構わず、メジロは卵を産み、痩せこけた体で温め続けた。
私はその小さな体を外敵から覆い隠してやろうと、枝を伸ばし、巣を囲った。
小鳥や卵を狙うものが、目を光らせたことは一度や二度ではなかったが、網目のように囲う枝を前に、やがて諦めて帰って行った。
私は、いつの間にか小鳥を守ることに必死になっていた。
何をしてもつまらないと感じていた私が、こんなにも一つの生に執着したのは初めてだった。
藤でありながら花さえ咲かせられなかった私に、「元気でいてさえくれればいいよ」と声を掛けてくれた人の子らの気持ちを、今になって理解した。
私と違い、わずかな時間しか生きられない小さな命。それでも懸命に生きようとする姿に、私は心を動かされていった。
……空など飛べずともよい。ただ元気でいてさえくれれば。
この私を揺り籠に選んだおまえたちを、私が守ってやろう。
やがて卵がかえり、雛が生まれた。
不自由な体で餌を運び、雛を育てるメジロの姿に、私は何かをしてやりたかった。
風が強い日、私は寒気が入らぬようにと枝を敷き詰めて巣を覆い、雨の日には葉を広げて雨滴から彼らを守った。
少しずつ、少しずつ、私は自分の役割を見出していった。
そんなある日、私は人間たちの会話を耳にした。この階段を改築し、邪魔な枝を切り払うという。
私は初めて恐怖を知った。
自分の身が切り払われることへの恐怖ではない。守るべき小さな命を失うことへの恐怖だった。
「私がいなくなれば、この子らは……」
雛はまだ小さく、巣立つには早い。
母鳥は餌付けで精一杯。雛を連れてここを離れることなど出来ないだろう。
私は決意した。どんなことがあろうとも、この小さな命を守り抜くと。
かつて花も咲かせぬ私が、彼らにそうしてもらったように。
人間たちが斧を持ってやってきた日、私は必死に枝を絡ませ、葉を広げた。切り払われては、また伸びる。何度も何度も。
私の必死の抵抗に、人間たちは諦めて帰っていった。しかし、私の体から多くの枝は切り落とされ、葉は散り、幹にも深い傷がついた。
それでも、小鳥の巣だけは無事だった。
メジロが私の傷ついた幹に寄り添うように止まり、小さな声でさえずった時、私は温かいものが込み上げるのを感じた。
「ああ、これが幸せなのだな……」
長い年月を経て初めて、私は生きる喜びを知った。
花も咲かせぬ、小さな幼木であった私を、人の子らがどれだけ温かい眼差しで見守ってくれていたのかを思い知った。
私はただ、この身に芽生えた想いを守りたかった。
……それだけだったのだ。