第四夜┊二「花房の揺り籠」
「若宮さんはお仕事ですか?」
「ええ、まあそんなところです。経営陣は以前からこの校舎を改築しようと試みていたようなのですが、何度か不幸な事故が重なったようで。ごく最近工事を再開することにしたものの、作業員が怯えるので、一度見て回って欲しいと……」
そういえば、日中にここを取り壊すような騒音が聞こえていたことを思い出す。
工事が入るなら、来年にはもうあの藤は見られないのかもしれない。やはり今日来ておいて正解だった。
納得もできたことだし、そそくさとその場から逃げ出そうとする僕らの背に、「それで、君たちの目当ては階段の怪異ですか?」と若宮さんが声で追い掛ける。
「知りません、わかりません、なんのことですか」
「はは、面白い惚け方をするんですね。肇さんとは夜の餓者髑髏ツアーをされたのでしょう? 私とは遊んでいただけないのですか?」
肇さんというのは、雛遊先生のことだろうか。
「なんで知っているんですか」と固い声音で返すと、「肇さんとは古くからお付き合いがあるんです」と返される。
……僕はこういう、「付き合いがあるとは言ったが、友人とも知人とも言ってない」みたいな回りくどい予防線を張る人間を、あんまり信用していない。
「おまえとは嫌だってさ。大人しく一人で見回りしてろよ」
「初対面だというのに、なかなか酷いことを言いますね」
若宮さんの言葉に、そういえば彼らは初対面だったのかと思い出す。
星蓮は若宮神社に足を踏み入れなかったから、面識がないのだ。
「おまえのことくらい、俺だって知っている。『若宮サン』については知らないが」
「困りましたね、その話は少々都合が悪そうだ。……そう邪険にしないでください。噂話を確かめにきたのでしょう? 今なら私が絶対安全を保証しますから、存分に鑑賞していただいて結構ですよ」
にこやかに指し示しながら、「さあ、お目当ての階段です。どうぞ登ってみてください」と告げられて僕は動揺する。
この人、ナチュラルに僕を囮にしようとしてないか。
ちら、と横目で確認した星蓮は、怒りを通り越してうっすら笑っている。
一触即発の空気に、僕は「まずい」と直感で理解した。
「ええっと、専門家がいるならお任せしたいんですが……」
「大丈夫ですよ。怪我一つ負わせることはありませんから」
暗に「なんで僕が」と伝えたつもりだったのだが、軽やかにスルーされて「さあどうぞ」と階段に案内される。
「おまえが登れよ。こいつに何かあったらどうしてくれる」
「どうもしませんよ。君と私がついていて、彼に何か起こることはありません。……そんなに睨まないでください。私には加護がありまして、小物では触れることもできないのですよ」
なるほど。それでは若宮さんが階段を登っても、例の怪異は現れないだろう。
星蓮も人間ではないので、その違いを見分けられる怪異だったら難しいかもしれない。
僕は仕方なく覚悟を決めて階段に足を踏み出した。背後で「何かあったら只じゃおかないからな」「何もさせやしませんよ」「俺はおまえみたいな奴が慢心で身を滅ぼす姿をごまんとみてきたぞ」「おや、自己紹介ですか?」と刺々しい言葉の応酬が繰り広げられていた。
一段目、二段目、三段目……と登りながら数えていく。星蓮ではないけれど、正直足首を掴まれるくらいは良いかなと思う気持ちもあったし、僕はあんまりこの噂を信じていなかった。だから七段目を踏んだ瞬間、階段の隙間から本当に手首が現れて、僕はギョッと固まった。
ふ、と頬に微かな風を感じて、同時に耳を劈くような悲鳴が響き渡る。
悲鳴の主は、僕でも、背後の二人でもなかった。
「やはり小物ですね。もう降りてきて大丈夫ですよ」
手招きしている若宮さんの隣で、星蓮は物言いたげな視線を向けている。
僕は自分の足元を見て、……先ほど聞いたばかりの悲鳴を、今度こそ僕が上げそうになった。
階段には、手首が落ちていた。
切り落とされた手首は、断末魔を体現するようにぐねぐねと薄気味悪く動き回って、やがてぱったりと力なく崩れていく。
「ひ……」
「大丈夫だ、怖くない。気にしなくて良い」
星蓮がすぐさま僕と同じ段まで駆け上がって、僕の手を掴む。
その温かさにほっとしたのも束の間、若宮さんを見下ろす星蓮から怒りの声が滲み出していた。
「おまえ……」
「触れさせやしないと言ったでしょう。まさかそれにすら同情するのですか? ただの植物ですよ」
若宮さんの呆れたような声音に、恐る恐るもう一度足元に視線をやると、落ちていたのは木の枝だった。
溢れていく血のように見えた箇所には、いくつか紫の花びらが散っている。
「外にあった藤の蔓ですね。外壁のヒビから中に入ってきているのでしょう。この手の者は、人を脅かしたいだけで大した実害はありませんから、不幸が降りかかるという噂の後半は嘘でしょう。——外の藤を燃やしてしまえば解決します」
「え、燃やすって……」
あの、立派な藤を?
それはなんというか、あまりにも勿体無い。
口を開きかけた僕を遮って、「やめろ!」と知らない女の声が耳を突き破り、北階段にわんわんと反響した。
「ほう。ただの悪戯好きな植物かと思っていましたが、果敢なのか無謀なのか……。私の前に出る勇気があるとはなかなかですね」
階段の上に、いつの間にか長い髪を携えた女が立っていた。
片手で押さえている左手首から先はなく、はらはらと紫の花弁を散らしている。
よく見れば、それ以外にも彼女はあちこち傷だらけで、少し前までの包帯だらけの星蓮を彷彿とさせた。
「火など付けてみろ、私はおまえを絶対に許さない。必ず後悔させてやる!」
「主張ばかりで具体性のない……。嫌になりますね。どう後悔させてくれるおつもりです? その前にあなたの首が飛びますよ」
脇差の鞘に手を添えて、若宮さんが女を見上げる。
しかし女は怯えた様子もなく、健気に若宮さんを睨み返していた。
飛び掛かりたい気持ちを辛うじて抑えているのは、絶対に敵わないとわかっているからだろうか。
「彼女は……」
「あの藤の化身でしょう。自我の薄い植物と違い、長く生きて人の形を取る者は、恐怖心なども人一倍強い。一部でも切り落とされれば、二度とあのような真似は出来ないと踏んでいたのですが」
「ほら見ろ、慢心じゃないか」
横から蔑む星蓮に、若宮さんは冷えた笑顔を貼り付けている。
そんな二人を通り越して、僕はじっと彼女を見つめていた。
藤の精、だからだろうか。
あの焼け跡で出会った首輪の女性に、どこか雰囲気が似ている。
胸に飾られた折り紙の花に手をやって、僕を庇うように片腕を広げている星蓮の影から彼女を見上げると、若宮さんだけを見ていた女が、こちらを向いて「人の子……」とわずかにたじろいだ。
「おまえたちは引っ込んでいろ、子供がこんなところに来るものではない」
追い払うような仕草を見せる藤の女に、どこか違和感を覚える。
だって、旧校舎といえど、ここは学校なのだ。
その階段でこんな悪事を繰り返すものが、子供を巻き込むまいとするのは不自然ではないだろうか。
「あの、どうしてこんな悪戯をするんですか」
「悪戯なものか。おまえたちこそ、どうしてこんなところにいる。ここはもう捨てられた場所なのだろう。寄り付く必要はないはずだ」
ここが旧校舎であることを自覚しているのか。
藤の女は、僕たちを追い払おうとがなり立てるが、その様子は若宮さんに向けるものとは少し違って見えた。
女は「どうしてこんなところに」、と問う。
僕には彼女が向ける怒りの理由も、焦燥の理由もわからないけれど、その質問になら簡単に答えてやれる。
もう人が通うことのない旧校舎に、それでも今日、僕たちが足を運んだのは……。
「ただ、藤の花がきれいだったから」
僕の言葉に藤の女は瞠目して、狼狽するように一歩下がる。
女が背をつけた階段の踊り場では、大きなガラス越しに見事な藤がその蕾を綻ばせていた。
しばらくの間を空けると、聞こえるか聞こえないかわからないほどの声量で、女は「そうか……」と呟く。
……もう、誰の目にも留まらぬと思っていた花を。
間に合わなかった花を。
変わらず見てくれる人の子が、まだいたのだな。