第三夜┊六「彷徨う白骨」
夜の若宮神社は、朝とは異なる表情を見せていた。
早朝の清々しい空気は消え、静寂が境内を包んでいる。風が吹くたびに、境内の木々がざわめき、葉が擦れ合う音が静かに響いていた。
本殿へと続く参道では、わずかな月明かりが石畳を照らし出し、石のひび割れが陰影を帯びる。参道脇に並ぶ灯籠は、長年ここを守り続けてきた存在のような貫禄を醸し出していた。
静まり返った境内の空気に溶け込むように、かすかな鈴の音が聞こえる。どこからともなく響くその音は、神秘的でありながら、どこか不安を掻き立てるものがあった。影が深まるごとに、境内全体が微かに息づいているような錯覚を覚える。
白く眩かった本堂はすっかり宵闇に呑まれ、中に眠るものの異様さを引き立てていた。
夜更けにじゃりじゃりと玉石を踏む耳慣れた足音に、宮司の男は顔を上げる。
「綾取さん」
「若宮です」
間髪入れずに訂正されて、雛遊肇は顔をしかめた。
「お疲れ様でした。さっさと封じてしまえばよかったのに、あなたも妙なところで律儀ですね」
「見ていたんですか」
不愉快をそのまま顔に出すと、そいつは何がおかしいのかくすくすと笑う。
「隣人を頼られよ。……七十二番にもそう書いてあったはずなんですけどね。どうして皆さん、無茶を通したがるのでしょう。蛇の道は蛇に、餅は餅屋に。世の中には適材適所というものがあるというのに」
非効率ですよね、と微笑みかけるこいつは、あの餓者髑髏の「核だけを射抜ける人」、そのものだった。
こいつがいれば、有るかも判らない石碑を探すなどという非効率な手順を踏まずとも、あの死霊たちを解放できただろう。
そう思うと腹立たしくて、ついつい被っていた猫もどこかへ逃げ去り、口調が荒くなる。
「出来ないことは出来ないと言ってくださればいいのに」
「お前がそういう奴だから、頼られないんだろう」
「初志貫徹していただけるならそれもまた結構。……しかしどうせ、最後は綾取が後始末をする羽目になるのだから、せめて面倒なことになる前に依頼してくれればいいものを」
昔馴染みの縁からか、普段よりいくらか砕けた言葉で不服をこぼす男に、「死んでもお前には頼らない」と返して背を向ける。
「それはよくない。死んでしまったら元も子もありませんよ」
「お前に助けて貰う必要はないと言っているんだ」
「人は一人では生きていけないのです。あなたもよくご存知でしょう」
ギリ、と噛み締められた歯が叫ぶ。平然と正論を吐く目の前の男が憎たらしくて、羨ましくてたまらない。
——そういうお前は、一人で生きているじゃないか。
「そんなに顔をしかめてないで、空でも見上げたらどうです? ほら、今夜は月が綺麗ですよ」
「結構。本題に入る気がないのであれば、『私』はもう帰ります」
「本題とは?」
はて、と小首を傾げるそいつの眼前に、『人議に来られたし。日時は尋ねられよ』と書かれた七番籤を突き付ける。
「お前が『日時を尋ねろ』って送って寄越したんだろうが!」
「おや、これは失礼しました。日時は私も知らされていないので、誰かに訊いて欲しいという意味で書いたのですが……。まさかあなたが、私に人議の日時を尋ねるために、こうして足を運んでくださるとは思ってもみなかったものですから」
サラリと返されて、顔に血が昇る。
確かに。主要な出席者とはいえ、嫌われ者のこいつが人議の日時など知らされるはずもない。主催代理と俺は顔見知りなのだから、そちらに訊くと思ったのだろう。
俺の勘違いではあったのだが、しかし口元を押さえて肩を震わせているこいつを見ると、八つ当たりも致し方ない気がしてくる。
「……私の勘違いがそんなに面白いですか」
「いえ。——少し見ない間に、一人称まで変わってしまったのですね。本当に主体性のない人だ」
くすくす。
呆れたようなこいつの笑い声が、今朝の夢の中の嘲笑と被って、苛々とはらわたが煮え繰り返る。
俺の怒りを知ってか知らずか、こいつは轟々と燃え盛る俺の怒りに、ひたすら油を撒いて、薪を焚べ続けた。
「あなたがそんな風に縛られて生きることを、カルタさんも望んではいないでしょうに」
一線を軽々と飛び越えられて、思わず白練の着物の胸ぐらを掴む。
——雛遊カルタは、優秀な人間だった。
描いた絵の中に怪異を閉じ込める、雛遊の長女。
生きていれば優秀な祓い屋になれただろうに。彼女は十八になった年に、噂話だけを遺してこの世を去った。
曰く、「雛遊カルタは、人間に殺されたらしい」と——。
若宮かさねは俺に首元を掴まれながらも、「髪、随分伸びましたね」と明後日の感想を向けてくる。
「なんだ。『まるで女みたい』か?」
聞き慣れた陰口に辟易しながら代弁してやると、そいつは意外にも「いいえ」と首を振った。
「じゃあなんだ」
「いえ、まるで——。私みたいだな、と」
思ってもみなかった言葉の衝撃に、一瞬思考が停止する。
言われてみれば、伸ばしかけた髪も、柔らかな口調も、笑顔の奥に本心を包み隠す姿も……。言い逃れできないほど、全て目の前のこいつに似通っていた。
俺達の間柄を知る者が見れば、まるで俺がこいつに憧れているようにも映るだろう。
——違う。ふざけるな、誰がおまえなんかに。
言ってやりたい文句が一気に溢れすぎて言葉に詰まる俺に、若宮は「勿論、わかっていますよ」といつも通りの笑顔で歩み寄った。
「あなたが本当は誰になりたかったのかなんて、そんなことは言わずもがな……」
「五月蝿い。余計な世話だ」
努めて冷静になろうと息を吐き、掴んでいた手を離す。
しかし若宮かさねは臆することも、その口を閉ざすこともしなかった。
「ええ、余計な世話でしょう。しかし誰も言ってくれる人がいないようなので私が言ってさしあげます。その鬱陶しい髪をさっさと切って、自分の人生を生きなさい。——あなたが本当に、カルタさんのことを想うのならば」
冷たい指が伸ばされて、俺は思わず目をつむる。
その手が俺自身を害したことこそないが、俺の式神の首を刎ねたあの夜の光景が、冷たい目で俺を見下ろし、「次」と吐き捨てた声が、未だに忘れられない。
肩を強張らせる俺を小さく笑うと、そいつは俺の髪から葉を払った。
「勇気が出ないのならば、私が切ってさしあげますよ」
「触るな!」
思わず払いのけてしまって、乾いた音が夜中の境内に響き渡る。
見れば彼の日に焼けない手の甲が赤く染まっていて、意図せず暴力を振るってしまったことに気付いた俺も我に返る。
しかし慌てて続けようとした謝罪は、変わらず向けられる微笑みに圧倒されて言葉にならなかった。
若宮かさねは、笑っていた。
払いのけられ、叩かれた手を赤く染めて、いつもと変わらず悠然と微笑んでいた。
心から世界を笑い、他人を笑い、自分を笑う。
反発されることに慣れ、拒絶されることに慣れ。
嫌悪され、忌避され、侮蔑されることに慣れてしまっている。
……本当は、誰よりも賞賛されるべき立場にありながら。
そこまで身を落としても、彼女の心を知るには、きっと全然足りないのだろう。
俺が未だ、姉の死に囚われているように。
「次の人議でお披露目をするつもりなんです。よろしければあなたもいかがですか。面白いものが見られるかもしれませんよ」
そいつの言葉に呼応するように、本堂の中でガタリと何かが動く音がした。
——それを外に連れ出せば、彼の立場はますます悪くなるだろう。
けれど、彼はどうせ自分の忠告になど耳を貸さない。
それに俺も、その扉の先で眠るものを、早く外に出してやりたいと願っているから。
「……考えておく」
それだけを答えて、俺は若宮神社を後にした。
【読者様へのお願い】
「良かった」「続きを読みたい」と思っていただけましたら、フォローやブックマーク、広告の下にある「☆☆☆☆☆」を「★★★★★」にして応援いただけると大変励みになります。
皆様の暖かい応援に日々救われています。
よろしくお願いいたします!