第三夜┊二「彷徨う白骨」
小綺麗な境内は、澄み渡る早朝の空気に満たされていた。
整然と並ぶ敷石に、人の足跡はない。手水舎では新鮮な水が絶えず湧き溢れ、静まり返った境内に爽やかな水音を響かせている。
正面の本殿は白い木材で建てられていて、境内の緑の中にその存在を淡く示していた。
境内は本殿をはじめ、社務所も敷石も軒並み白っぽく、朝の日差しを眩く反射している。
……僕の生家は黒一色の漆塗りだったそうだから、こことはまるで正反対なのに。白い本殿を眺めていると、どこかノスタルジックな気持ちが芽生えてきた。
この若宮神社は、僕が物心ついた頃とさほど変わらない時期に建てられたものだ。
近所の小宮にしてはなんだかとても居心地がよくて、僕はたびたび朝に寄っては、ここでお参りをしてから登校することにしている。
星蓮は参道の手前まではついてきたものの、白い鳥居を見上げると「すごいなここ。俺は入らない方が良さそうだ」と珍しく同行を辞退した。
「ここで待ってるから、行ってこいよ。この中なら危ない目に遭うこともないだろう」
「ここってそんなに凄い神社なのか?」
「まあ、そこらの妖なら、鳥居の中に放り込んだ瞬間に蒸発するだろうな」
というわけで、立派な怪異である友人からのお墨付きも得られたことだし、今朝の僕は自信を持ってお参りにきていた。
ぱん、ぱん、と二回手を合わせて、深々と一礼する。
「今日こそ、怪異アレルギーが治りますように」
そしてあわよくば、不老不死も治りますように。
しっかりお願いしてから、さて帰ろうかと振り返ると、拝殿の階段の下から男の人がこちらを見上げていて、思わず足が止まった。
「精が出ますね」
にこ、と微笑まれて、つられて僕もへらりと愛想笑いを浮かべる。十年近く通っているが、この神社で他人と会ったのは今日が初めてだった。
魔除けの一種だろうか。男の目元には、朱色の隅取りが施されている。
控えめに彩られた目元は、女性だったならメイクと勘違いしただろう。
じっと目元を凝視する僕に気付くと、男は「おや」と自分の目元に手をやった。
「これが視えますか」
「あ、すみません。ついジロジロと……」
「ああ、気にしないでください。この若宮神社は名の通り、歴史の浅い宮でして。熱心な参拝者はあなたくらいのものなのです」
ですからいつも感謝しているのですよと男は続けて、はたと何かに気付いたように、今度は男がこちらをじっと見つめてきた。
自分もさっきやってしまったばかりなので、数秒は見つめられるがままじっとしていたが、だんだん沈黙が苦しくなってきて、男に声を掛ける。
「あの、穴が開きそうなんですが……」
「これは失礼。知人の若い頃にそっくりだったもので。——私は若宮かさね。この神社の宮司を務めています」
人好きのする微笑みを浮かべて自己紹介する男に、「きれいな名前ですね」と答える。随分と女性的な響きのする名前だ。風に音と書いて風音さんだろうか。
「襲う、と書いて『襲』と読みます」
思ったより物騒な名前だった。
笑顔で語られて、僕も愛想笑いのまま固まる。「へえ、かっこいい名前ですね」となんとか感想をひねり出した。
今度は僕の紹介を促すように視線を向けられるが、黙っている僕にしびれを切らしたのか、「失礼ですが、お名前は?」と男がストレートに尋ねる。
「名乗るほどのものでは……」
神社と同じ姓を名乗る男に、僕は言い淀んで口を閉ざした。
ほいほい怪異に絡まれる僕は信用がないようで、『知らない人に簡単に名前や住所を教えてはいけない』と、星蓮や向日葵さんに口が酸っぱくなるほど教え込まれている。
神社で出会った初対面の男に名前を教えたなんて知られたら、あとで怒られてしまうだろう。
僕のなけなしの防犯意識に、男は「そうですか」と特に気にした様子もなく頷いて、右手の社務所を指し示した。
「日頃のお礼に、御神籤でも引いていきませんか。サービスしますよ」
占いに興味があるわけではないが、くれるというなら貰っておいても損はない。
「ありがとうございます」と言って御籤箱を振ろうと手に取ると、「振る必要はありません」と制止の声がかかった。
「え?」
「今日の君は七十二番ですから」
引いていいと言われたそばから止められるとは思わなくて、御籤箱から棒が転がり落ちる。
その棒の先には「七十二」と刻まれていた。
「……この箱って七十二番しか入ってないんですか?」
「はは、だとしたら数人連れのお客様には直ぐにバレてしまうでしょうね。全員が七十二番を引くわけですから」
宮司はからからと乾いた笑い声を上げて、「疑わしければもう一度引いてみても構いませんよ」と箱を指す。
「……つぎは何番が出るんですか?」
「おや、意地悪ですね。また当ててしまったら、君は今度こそ御籤を信用してくれなくなりそうだ。参拝者は少ないですが、ここの御籤はそこそこ評判なんですよ」
「一応、言うだけ言ってみてもらえませんか」
「そうですねえ」
男は柘榴石のように爛々と輝く瞳で僕を見る。
からだの中にあるものを射抜くような鋭い視線に、背筋をぞわりとしたものが駆け下りた。
「今日の君は、七という数字に縁があるようだ」
男の言葉を聞いてから、再度御籤箱を振る。
出てきた棒は、七番だった。
「……あなたが凄腕の詐欺師か、凄腕の宮司さんのどちらかであることはわかりました」
「五分五分で信用していただけたようでなによりです」
「これ、どちらの御神籤を引くべきでしょうか?」
七十二番と七番の御籤棒を宮司に渡すと、男はそれらを見下ろして「両方を」と答えた。
「どちらも君に縁があったのでしょう。うちの御籤は一問一答式ですから、両方引いても問題ありませんよ。ですが、そうですね……。君は七十二番ですから、七番の方は、君がこのあと最初に出会った人にでも渡すと良いでしょう」
それでは、良い一日を。
男はそう言って、結果を見ることなく立ち去っていく。
あとに残された僕は言われるがまま、七十二番と七番の籤が入った箱を開いた。
「七十二番:凶。西に困難来り。隣人を頼られよ。打開の道が拓かれよう」
印刷されたような精巧な文字は、しかしよく見ると墨の反射具合で手書きの筆文字だと分かった。これを書いた人はすさまじく神経質か、写経の達人に違いない。
というか、もしかして一番から百番まで、すべて手書きなのだろうか。だとしたらとんでもない労力だ。