第十夜┊八「理想の姿見」
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生まれたとき、僕はものを食べなかった。
食べるという行為を、知らなかった。
意思を持たず、言葉を持たず、人格を持たなかった。
封具として作られた僕は、誰かの記憶を入れるための、ただの器。
人でない僕は、人の輪に入れるはずもなく。
怪異でない僕は、怪異に紛れることもできず。
ただずっと、変わりゆく景色を眺めていた。
僕は、失敗したプロジェクトのリサイクル品だった。
元は雛遊カルタに贈られるはずだった、一つの奇跡。
事故と誤算が重なって、潰えた命のなれのはて。
行き場を失った姪の遺体を、教授はあろうことか、己の目的を果たすための封具にした。
祓い屋になりたがっていた彼女の遺志を汲み、巨悪を滅ぼす栄誉と機会を与えようと。
——教授は僕に言った。
魂がどこにあるか知っているか。
頭部? 心臓? いや違う。
魂とは、記憶だ。
喩えば貴様の友人が、全ての記憶を失い、
別の人間の記憶を保持していたらどうなる?
魂が入れ替わったと、そう思うだろう。
記憶を積み重ねることで、その者の人格が、
魂が形成されていく。
ゆえに記憶を失うことは、死と同義である。
身体が生きていようと、意識が残っていようと、
記憶を永久に失ってしまえばそれは消滅なのだ。
さあ。
神の殺し方が判っただろう?
「はい、教授」
それが、僕が初めて発した言葉だった。
教授は、僕をファーストプランと呼んだ。
土地神様を殺せる確率が最も高い、第一優先プラン。
至上の存在を殺すため、土地神様から魂を奪う記憶喰い。
——第一被検体、空白の記憶。
その権能は、他人の記憶を覗き見、喰らい尽くす。
それが僕に与えられた、最初の名前と役割だった。
✤
僕はそれから、『医局』と呼ばれる実験棟で時を過ごした。
医局には、いろんなものが保管されていた。
枯れた桜の枝。死に損ないの怪異。死産した胎児。
いくつもの培養槽に囲まれながら、中でも一際目を引いたのは、銀細工の装飾が施された、とても大きな姿見だった。
教授の亡き妻、檻紙鶴夜が残した遺品の一つ。
僕を作るために研究され尽くした、いわば前身。
記憶を移し替える力を持った、影踏の祟り具。
その鏡は、教授の前では何も映さないただの姿見だったけれど、夜になるといつも僕を呼んだ。
——おいで。こちらにおいで。
その時の僕は意思を持たず、言葉を持たず、人格を持たなかったから、夜ごと僕を呼び続ける姿見を、ただずっと見ているだけだった。
——おいで。どうかこちらに。こちらにおいで。
「呼んでるじゃない。どうして無視するの?」
そう言って僕の手を引いたのが、卯ノ花兎楽々だった。
彼女に他意はないだろう。たまたま、呼ぶ者と呼ばれる者が同じ研究室の中にいたから、声を掛けただけだ。
けれど彼女の「幸運」が、僕らを引き合わせた。
心を入れるための器に、心などあるわけがない。
それでもその時の僕は、「何か」になりたかった。
窓の外で談笑する彼らのように、名を呼ばれる「誰か」になりたかった。
空っぽの器を、何かで満たしたいと願っていた。
僕は、——飢えていた。
手を引かれて近寄った僕に、姿見の中の女は告げた。
「お前が心を求めるのなら、我らはお前にこれを渡そう。己が身より大切な預かりものだが、我らに『保管』の力はない。これ以上は抱えていられぬ。これ以上は壊れてしまう。けれど心を入れるために作られたお前なら、きっと受け入れられるだろう。どうか大切にしておくれ」
姿見はそう言って、僕にひとつの「記憶」を食べさせた。
それは一度としてこの世に生を受けたことのない、ひどく曖昧で不明瞭な、胎児の記憶。
生まれる前に亡くなった、檻紙の第二子の心。
その記憶が、生まれて初めて口にした僕の食事だった。
「僕」の思い出は、とてもとても甘い味がした。
——その日から、「僕」は意思を持ち、言葉を持ち、人格を持った。
怪異が怖いものだと知った。
水が冷たいものだと知った。
人の手が温かいものだと知った。
夜は眠たくなった。睡眠が必要だと知った。
しばらくするとお腹が鳴った。食事が必要だと知った。
眠る前に、思い出を振り返るのが日課になった。
目も開いていない「僕」の記憶は、胎内で感じた温度と音声だけだったけれど。
未だ見ぬ母の声が好きだった。
未だ見ぬ姉のことが心配だった。
「檻紙……」
おりがみ、おりがみ、と何度も「僕」の姓を口に出す。
既に焼け落ちてしまった家の名に、誇りを持った。
もういない母の声を思い出し、会ったことのない姉に想いを馳せた。
ただそこに在るだけだった僕が、自らの意思で動き回り、話すようになり、少しずつ世界への理解を深めていく様子を、教授は何も言わずに見つめていた。
✤
当時、初等部だった卯ノ花さんは、頻繁に医局を訪れては、ここで放課後を過ごしていた。
僕はてっきり、卯ノ花さんのご両親が多忙であまり帰ってこないから、寂しくて医局に入り浸っているのだと思っていたのだけれど。
兎楽々、と声を掛けようとして、思わず口元を押さえる。
……そうだ。この頃の僕は、彼女をそう呼んでいた。
どうして忘れていたんだろう。僕らはずっと前から友達だったのに。
「帰らなくて大丈夫?」と尋ねる僕の隣で、兎楽々がいつものように重箱を開ける。その中身を慣れた手つきで取り分けながら、小皿と箸を僕に渡した。
「こうやって見張ってないと、教授もアンタも食事をとらないじゃない」
……なるほど。彼女の世話を焼いているというのは僕らの驕りで、その実、世話を焼かれているのは僕らの方だったらしい。
教授は生活能力がないわけではないが、自分というものの優先順位が極端に低い。仕事や実験に追われると真っ先に食事を抜き、何日でも夜を徹した。
食事の大切さを訴えたところで、「くだらん」と一蹴してしまう教授だったけれど、そこは【生物学】学年二位を誇る才女の卯ノ花兎楽々。
初等部二年生のわずかな語彙力と知識をもって、生物学の天才に「効率」という言葉を教え込んだ。
「俺は不老不死だ。飢えと不眠ごときで死ぬことはない」
「食事と睡眠は、なにも生命活動の維持だけに必要なものじゃないのよ。睡眠は記憶の引き出しを整理する時間。怠れば、頭の中の引き出しがどんどん開かなくなっていくんですって。教授の大事な思い出も、そのうち思い出せなくなっちゃうわよ」
「……ならば睡眠時間だけは確保しよう」
大事な思い出、という言葉に思うところがあったのだろう。兎楽々の言葉に、教授は観念して頷いたけれど、兎楽々は「まだ話は終わってないわ」とさらに続けた。
「食事だって、ただの補給じゃない。栄養は細胞を治す道具。長く生きるならなおさら、壊れたところはきちんと治していかないと、効率が悪いでしょ?」
ぐうの音も出ないスピーチだった。
兎楽々に説き伏せられて、教授の生活習慣は劇的に改善することになる。
そして彼女の言う通り、適切な食事と睡眠は、かえって教授の実験効率を上げることに成功した。
……それがいいことだったのか、それともよくないことだったのか、僕には今でもわからない。
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当時の兎楽々は、怪異も視えないごく普通の人間だった。
正義感が強く、人を疑うことを知らない少女は、教授が不老不死だと説明すれば頷いたし、喋る鏡を目の当たりにしても動じなかった。
そんな彼女は、なぜかいつも頭に兎を乗せていたけれど、怪異であるその兎の存在に、兎楽々自身は気が付いていないみたいだった。
「ねえ教授、兎楽々の頭に乗ってる兎って……」
「あれは福兎。幸運を呼ぶ」
帰路に着く兎楽々の背を見送りながら、教授は一言、そう返した。
「ふうん。じゃあ、いい怪異なんだね」
僕の言葉に、教授は何も言わない。
僕はその無言を肯定と受け取って、いい気分でその日の夜を迎えた。
——卯ノ花兎楽々は友達だ。友達にいい怪異が憑いているなら、僕も嬉しい。
言われてみれば確かに、兎楽々が授業で当てられているのを見たことがない。
最近は兎楽々と一緒に初等部に通うことを許された僕だけど、くじ運が悪く、いつも最前列常連の僕と違って、兎楽々はいつも窓際の最後列だし、兎楽々と外を歩く時はいつも晴れた。
幸運を呼ぶ怪異に好かれるなんてすごいなあ、と思いながら目を閉じる。
当時の僕はまだ、世の中にいい怪異も存在するのだと信じていた。