第十夜┊七「理想の姿見」
「もういっそ、何したら元に戻れるんだって、コレに聞いた方が早いんじゃねーか?」
「面白い発想ですね、鏡が口を利くとでも?」
星蓮が指し示した姿見を振り返ろうともせず、若宮さんが返す。
雛遊先生の喉からからそんな冷たい声が出るのかとびっくりするくらい、皮肉めいた物言いだった。
怪異をよく知る若宮さんが、鏡がしゃべる程度のことを意外に思うはずはない。
怪異とコミュニケーションなど取れるものかと、そう言っているのだ。
確かに、星蓮や向日葵さんのおかげで麻痺してしまっていたけれど、話が通じる怪異の方が珍しい。
若宮さんのリアクションの方が、きっと普通なんだろう。
そこまで考えて、時折こちらを窺う若宮さんの視線に、嫌悪感が混じっていることに気付く。
今日の若宮さんは、僕を見る目が随分と冷めているとは思っていたけれど、雛遊先生の姿だからいつもと違って見えるだけか、あるいは急にこんなことに巻き込まれてしまったから、機嫌が悪いだけだろうと思っていた。
だけどそれが、僕——もとい『卯ノ花さん』という怪異に向ける目なのだと理解してしまって、ぞわりと悪寒が背筋を駆け上がる。
怪異が嫌いだと聞いてはいたけれど、僕を祓うつもりなのだろうか。
いつの間にか、雛遊先生の手には抜き身の刀が握られていた。
「おい、いつの間に抜き取ったんだ。俺を脅してまで呼び付けたのは、もしかしてその刀が必要だったからか!?」
「当然でしょう。こんな怪異だらけの場所に、突然丸腰で放り込まれた私の身にもなってください。その場で札を書けるあなたと違って、私は武器がないと戦えないんですよ」
悪びれもせず返す雛遊先生(の姿の若宮さん)に、若宮さん(の姿の雛遊先生)が無言で額を抑える。体調が悪化したのか、眉間の皺が深まっていた。
「……帯刀まではギリギリ許可するが、次に校内で抜刀したらつまみ出す」
「難しいことを言う。抜かなきゃ斬れませんよ」
「誰かに見られでもしてみろ、すぐに通報されるぞ」
「なるほど、それは確かに困りますね」
若宮さんに止められると、雛遊先生は仕方なくやれやれと腕を下ろす。慣れた仕草で納刀しようとして、そこに鞘がないことに気が付いたらしく、「ああ、本当に不便ですねえ」と若宮さんに刀を返していた。
「命拾いしたな。カルタに刀を向けてたら、おまえを丸ごと呑み込んでたぞ」
「おや、惜しいことをしましたね。一日に二体も大型怪異を仕留められるならば、今からでもやり直しますよ」
一触即発の星蓮と雛遊先生だが、「騒々しい!」と一喝されて、今にも掴みかからんばかりだった二人の動きが止まる。
二人はそのまま若宮さんを見て、それから僕に視線をスライドさせたけれど、僕らは何も喋っていない。
「我らは諍いが嫌いだ。争うならば他所へ行け」
再び女性の声が聞こえて、みんなの視線が一点に注がれる。気付けば姿見の中に、一人の女が腰掛けていた。
「我ら……?」
複数形ということは、他にもいるのだろうか。
僕の素朴な疑問を華麗に無視すると、鏡の女はそっぽを向いた。
「ほら見ろ、やっぱりこいつ喋れるじゃねーか」
「ではどうぞ、元に戻る方法でも聞いてみてください」
若宮さんは、鏡が素直に答えるとは露ほども考えていないようだったが、星蓮にそのまま尋ねられると、鏡は簡単に口を開いた。
「我らは、心を移し替える祟り具である。元に戻りたいのならば、『相互理解』を深めることだ」
「理解じゃなくて『相互理解』? 聞いたことのない条件ですね」
「随分素直に口を割るんだな」
「我らは元々、『仲良くなる』ことを目的に作られた鏡。心を移し替えることは目的ではなく手段。主らが条件を達成し、元の姿に戻ることこそ本懐だ。それゆえ条件もまた然り」
「つまり、おまえと仲良くなれば元に戻るのか?」
詰め寄る星蓮に、鏡はそれ以上何も答えない。「仲良くする気ゼロじゃねーか」と星蓮が苛立ちまぎれに鏡を揺らす。
「ひいぃ」
「あっ、こらこら、乱暴はいけませんよ。君の力で揺さぶったら、こんな鏡なんてすぐに割れてしまいます」
それまで具合悪そうに俯いていた若宮さんだが、ガタガタと音を立てる姿見を見て、慌てて止めに入る。幸い星蓮はとても手加減していたようで、鏡はなんとか無事だった。
「俺が叩き割る前に、洗いざらい吐け」
「綾取さんみたいなことを言わないでください。それにしても、『仲良くなる』ですか……。二通りの考え方ができますね」
「この鏡と仲良くなるか、それとも入れ替わった者同士が仲良くなるか……ですか? おぞましいことを言わないでください。後者ならもう元に戻ることはありませんよ」
雛遊先生(の姿の若宮さん)が冷え切った笑顔で返す。
なんだかんだ交流のある二人だから、仲はいいのかと思っていたけれど、どうやらそうでもないようだ。
それに、『入れ替わった者同士が仲良くなる』ことが元に戻るための条件なら、僕と卯ノ花さんも和解しなくてはいけなくなる。
僕は別に卯ノ花さんのことを嫌ってはいないけれど、向こうに言わせれば『嫌いなものだけを盛り合わせたフルーツタルトみたい』だそうだから、僕らが仲良くなるのも一筋縄ではいかないだろう。
「我らと仲良くしてどうする……。人には人の、道具には道具としての道があり、それらが交わることはない。我らは、人々の親交を深めるために作られたもの。ゆえに元に戻りたければ、主らが入れ替わった相手への理解を示し、親交を深めることだ」
「だってよ。残念だったな、へっぽこ宮司」
からかうような星蓮を一瞥して、雛遊先生が鏡の端を掴む。「ひいっ」と鏡の中の女が声を上げた。
「言葉が通じるというのなら話は早い。鏡よ、今すぐ私たちを元の姿に戻しなさい、さもなければ叩き割ります」
「わ、我らは祟り具、そのような脅しは通用せぬ。それにそう悲観せずとも、そちらの男は既に条件を満たしている」
鏡の女が震えながら指差した先では、若宮さんの姿をした雛遊先生が、具合悪そうに腰掛けている。
「……『仲良くする』というのは双方向のコミュニケーションでしょう。片方だけが条件を達成しているなど有り得るのですか?」
「条件は『相互理解』だと言ったはずだ。親交を深めるとは、すなわち相手の心を深く理解し寄り添うこと。その男は条件を満たしている。相手を理解していないのはお前だけだ」
「肇さんが、私を理解していると? 正気ですか?」
薄ら笑いを浮かべて鏡を掴む雛遊先生の顔は、心なしか引きつっている。
至近距離で覗き込まれた鏡の女は、雛遊先生の視線から逃れるように顔を背けていたけれど、顔を覆う指の隙間から、今度は僕を見た。
「お前たちは、互いに理解が進んでいないな。しかし、相手を理解しようという意思はある」
「この場にいないのに、卯ノ花さんのこともわかるんですか?」
「無論。……彼女は悩んでいるな。とても苦しんでいる。立場の異なるお前たちが向き合うのは難しかろう。だが、我らは人々が諍い、争うのは嫌いだ」
子供に言い聞かせるように、鏡の女が僕を諭す。女の顔の部分だけ、鏡が曇ったようによく見えなかったけれど、どこか聞き覚えのある落ち着いた声だった。
「記憶の整理を手伝ってあげよう。お前が先に理解を深め、手を差し伸べてあげるといい」
鏡の女が、僕を向いて手を伸ばす。
おいで、こっちにおいで——と、思い出の中で誰かが呼ぶ声がした。