第十夜┊六「理想の姿見」
「薬湯、そんなに嫌ですか? よく効きますよ」と雛遊先生が釈然としない顔を向ける。
日頃から体調が優れないらしい若宮さんは、千鶴さんの薬湯を飲み慣れているのだろうか。
「あの見た目と味に慣れてるお前が怖えよ」
「良薬口に苦しと言うでしょう」
「千鶴の薬湯を飲んでてこの体調なのか?」
相変わらず具合が悪いらしい若宮さん(の姿の雛遊先生)に尋ねられると、「さて、なんの話でしたっけ」と雛遊先生(の姿の若宮さん)が涼しい笑顔であさっての方角を見る。
……この反応を見るに、若宮さんもきちんと薬湯を飲んでいるわけではなさそうだ。
「それで? 俺を強引に呼び戻してまで、試したかったことは試せたのか?」
「そうですね。結果は芳しくありませんでしたが」
コンコン、と雛遊先生が確かめるように鏡を手の甲で叩く。
姿見には、踊り場に座り込む若宮さんと、それを見下ろす雛遊先生の姿が映し出されていた。
「ふむ、やはり戻りませんか。……『入れ替わった者を同時に鏡に映す』は条件ではなかったということですね」
「条件?」
すかさず問い掛ける星蓮に、「この手の怪異や祟り具は、大抵『条件』を満たせば解呪できます。問題は、その『条件』が全くのノーヒントということですね」と、口角だけで笑顔を形作った雛遊先生が答えてくれる。
「確かに、『対象を同時に鏡に映す』はありそうな条件だな。これで元に戻れたら手っ取り早かったんだが」
「違ったのですから仕方ありません。他の条件を考えましょう」
雛遊先生が、考え込むように顎に手を当てる。
笑っていない目元は、中身が若宮さんだといつもより少し冷たく見えて、以前の総司さんを彷彿とさせた。
「『鏡を壊す』は条件じゃないのか?」
「もちろん、壊すことが条件のケースもありますよ。しかしその場合は入れ替わりなどではなく、もっと深刻な問題をもたらすでしょう。『壊す』ことが解呪条件なら、その祟り具は一度きりしか使えません。そういう制約のあるものは、効果が非常に強いんです」
「こういう事象や概念に影響を与えるタイプの怪異や祟り具は、その仕組みを解明してやれば、あっさり解放されることも多いんですけどね」
「ああ、『理解』が条件のケースですね」
若宮さん——の姿をした雛遊先生は、そこまで説明してから「そういえば」と隣に立つ自分の顔を見上げた。
「千鶴の燭台も、影踏の祟り具だよな」
「目聡いですねぇ……。これだから肇さんとは、あまり引き合わせないようにしていたのですが。近くで見たこともないのによくお気付きで」
「遠目でもわかる。あの特徴的な銀細工……。あれは最後の影踏、『銀細工師』が作ったものだろう」
若宮さんが姿見の銀細工を指で辿る。
そういえば、この姿見にも精巧な銀細工が施されていた。一部が変色してしまってはいるけれど、とても目を引く意匠だ。
丁寧に、丁寧に作り込まれた藤の花の銀細工は、どこか温かい輝きを放っている。
「人形とか掛け軸ならわかりますけど、銀細工だとあんまり呪いの道具っぽくないですね」
「鋭いですね、実際そうなんですよ。代々職人気質の影踏は、時代によって刀工だったり鍛治師だったりと何かを作ることに特化していましたが、歴代最後の影踏が作る銀細工は、それまでの祟り具とは系統が異なるものでした」
にこやかな笑顔を貼り付けながらも、冷たい目をした雛遊先生が説明してくれる。怪異にまつわる話だからだろうか。雛遊先生の姿をもってしても、隠しきれない怪異への嫌悪感が滲み出ていた。
「影踏は怪異が大嫌いでね、その点で綾取とも仲が良かった。対抗する手段を持たないのに、視えるせいで被害にだけは遭うのだから無理もありませんが……。怪異を許さない、いつか絶対に一矢報いて見せる。そんな並々ならぬ思いを込めて作られるのが、影踏の祟り具です。ゆえに多くの祟り具は使い捨て。壊れることが解呪の条件。壊れるまで、一体でも多くの怪異を封じ込める。そんな妄執に取り憑かれた道具でした」
「その銀細工師とやらは、そうじゃなかったのか」
「ええ。歴代最後の影踏は、随分と心の広い方だったようでね。心が広いというか、物怖じしないというか……。怪異に付きまとわれはしても、怪異を憎むことはなかったようですよ。それ以上に別のものに執着していたとも言えますが」
なにかを含んだような物言いだったけれど、僕はそれよりも、聞き覚えのあるその苗字の方が気になった。
「最後の影踏ってことは、もう影踏さんはこの世にいないんですか?」
「そうなりますね。……ああ、そう悲しむような話ではありませんよ。最後の影踏は人妻に恋をしたそうで、彼は単純にその後独身を貫いたというだけです」
僕の表情に気付いてか、雛遊先生が補足してくれる。随分と拍子抜けする理由だった。
最後の影踏というからには、僕のクラスにいる彼は、同姓なだけで無関係の別人なのだろう。
出席番号七番——影踏とかげの姿を思い浮かべながら、僕はほっと胸を撫で下ろした。
なんとなく、彼にはあまり怪異に関わって欲しくない。
「ですから銀細工の祟り具は、怪異への復讐心から作られたわけではない分、その効果も解呪の条件も複雑怪奇。何が起こるか分かりません。一説では、彼の銀細工は心に作用するものだとも言われていますが……」
「心……ですか?」
ズキ、と頭の端が痛む。
何かを思い出しそうな、警鐘のような、そんな痛みだった。
「心ねえ……。精神に作用する道具という意味であれば、ますます解決が面倒そうだ」
「おい、へっぽこ宮司。義姉さんの燭台も同じ作者のものなんだろ? 実際あれはどういう用途のものなんだ」
星蓮に尋ねられて、雛遊先生(の姿をした若宮さん)は少し回答を迷うような素振りをみせたが、その質問はもっともだと判断したのだろう。気が進まない様子ながらも口を開いた。
「君たちは人議で千鶴さんから直接話を聞いたのでしょう。あれは感情を封じる祟り具。……もっといえば、感情とともに、それに結びつく記憶を封じるものです」
「記憶を?」
若宮さんに言われて、仰々しく千鶴さんにまとわりつく鎖と、四つの燭台を思い出す。
怒り、悲しみ、憎悪、罪悪感。
その四つの感情を封じ込められた千鶴さんは、何かに怒り悲しむことも、何かを憎むこともない。
そこまで考えて、昔教授に言われた言葉が脳裏によぎる。
——魂がどこにあるか知っているか。
——頭部? 心臓? いや違う。
——魂とは、記憶だ。
「記憶……」
答えに近い説明を受けた気がするのに、肝心のその先が思い出せない。
思い出そうと集中すればするほど、関係ない記憶がぐるぐると頭の中に渦巻いた。
こんな時、卯ノ花さんなら、ぱっと思い出せるキッカケが降って湧くんだろうな、と少し羨ましい気持ちになる。
福兎の権能を持つ卯ノ花兎楽々は、自分にも他人にも幸福をもたらす。
授業ではめったに当てられることはないし、学食の日替わりランチは卯ノ花さんが食べたいと思ったメニューが並ぶ。
こんな風に思い悩んでいれば、すぐに『幸運』が助けてくれるだろう。
第一被験体である僕は、卯ノ花さんみたいにおしゃれで便利な能力は持っていない。
以前、「うらやましいな」と口に出して言った時は、卯ノ花さんはなぜかすごく怒っていたけれど。
当時の僕はまだ情緒が発達していなくて、人の心というものに疎かった。
何気ない僕の一言が、卯ノ花さんを怒らせてしまったのだろう。
そういえば、僕らの仲が悪化したのも、その一件からだったような気がしてくる。
✤
『うらやましい? うらやましいですって? よくもそんなことが言えたわね!』
『あたしに言わせれば、アンタの方が羨ましいわ。他人に何も背負わせない、何も取り立てたりしない、他人の記憶を盗み見るだけのお気楽で特別な第一被験体』
『あたしが一体、どんな思いで毎日を過ごしてると思って……っ!』
『うらやましいなら、代わってよ! あたしになって、あたしの代わりに過ごしてよ! アンタにはそれができるんだから!!』
✤
ズキリ、ズキリと頭が痛む。
……よく考えてみたら、今日の僕はとてもツイている。
なりゆきではあったけれど、大嫌いな生物の授業に出なくて済んだし、さして苦労することなく、こうして目当ての姿見を見つけることもできた。偶然雛遊先生と若宮さんが巻き込まれてしまったおかげで、プロの二人が解決策を考えてくれている。
じきに、この入れ替わり問題は解決するだろう。
「卯ノ花さんの体だから、僕も無意識のうちに福兎の能力を使ってたのかな……」
霞がかっていた景色が晴れていくように、思い出がだんだんと鮮明になっていく。
記憶の中で、僕に向かって激昂する卯ノ花兎楽々は、幼いその身に真っ黒のワンピースを纏っていた。
泣きながら、怒りながら、着慣れない喪服に身を包んだ彼女は、その腕に大きな遺影を抱えていた。
——福兎の幸運は、本人には厄介な形で現れる。
教授が隣でそう言っていたのを、僕は思い出した。