第十夜┊五「理想の姿見」
「影踏の作る道具には怪奇現象が宿ります。君たちも聞いたことはあるでしょう? 髪が伸びる日本人形だとか、夜中に動く掛け軸だとか。何の役にも立たない失敗作も多いですが、それらも含めて影踏の作る祟り具は本物です」
「その鏡を作った奴については理解したが、それで? 俺たちは何をすればこいつをもとに戻せるんだ?」
結論を急かす星蓮に、「せっかちはモテませんよ」と雛遊先生が笑顔で毒付く。そのまま星蓮を無視して、「怪異には大きく二種類の存在がいましてね」といって、両手の人さし指を立てた。
「首を落とせばいいものと、そうではないものです」
「これは『そうじゃないやつ』ってことか」
「ええ。特に今回の鏡のように、事象や概念に影響を与えるような祟り具相手では、慎重にならざるを得ません。そもそも鏡に首はありませんしね」
雛遊先生が、にこやかに鏡に視線を送る。中身は若宮さんなのだが、一人称も口調もほぼ同じなので違和感はない。……はずなのに、なんだかやっぱり若宮さんらしい、貼り付けたような笑顔に見えるのだから不思議だ。
対する鏡は、値踏みするような雛遊先生の視線から顔を背けるように、ガタリと音を立てて傾いた。
「俺やおまえがこの鏡を真っ二つにしても、こいつらをもとには戻せないのか?」
「可能性の一つではありますね。しかし例えばこの鏡が、『自分に与えられた傷を相手にも移す』能力を持っていたらどうなると思います? この鏡を真っ二つにした瞬間、私と肇さん、そして彼とその女の子まで全員真っ二つですよ」
ひぃ、と喉の奥から声が漏れる。
若宮さんが、怪異と見るや否や斬りつけるタイプの人じゃなくて本当に良かった。
姿見も、雛遊先生のうしろでガタガタと小刻みに震えている。
「そして困ったことに、祓い屋にも二種類の人間がいましてね」と雛遊先生が二本指を立てた。
貼り付けた笑顔でピースしている雛遊先生を見て、画面の向こうの若宮さんが片手で顔を覆う。どちらもなかなか見かけない仕草だ。
「他人の身体でもさして変わらず動ける者と、己の身体でないと本領を発揮できない者です」
雛遊先生は、「言わずもがな、私は刀さえ握れれば、怪異の首を落とすことは可能です」と続けて、刀を抜くような動作を見せた。
「むしろ普段よりも調子がいい。上背と体力のある身体は良いですねえ、快適です。私は一生このままでも構いませんよ」
『俺が構う』と画面の向こうから若宮さんが声を上げる。その顔はいつもよりも青白く、微かに浮かんだ額の汗を必死に拭っていた。
「見ての通り、肇さんは己の体でないと、祓力がうまくコントロールできないタイプでしてね。そのくせ、こういうものにあっさり引っ掛かるのだから手に負えない」
画面の中で、若宮さんが気まずそうに目を伏せる。返す言葉もないらしい。
この口振りからすると、以前にもこういう怪奇現象に巻き込まれたことがあるのだろうか。だとするなら、若宮さんのこの順応性の高さも、滲み出す呆れと怒りにも納得だ。
『全くコントロールできないってわけじゃない。やりにくいだけだ……。くそ、頭がくらくらする。お前、この体でよく動けるな……』
「コツは下を向かないことです。常に上を向いていれば、吐き気なんておさまりますよ」
こんなにもネガティブな理由でポジティブな発言を聞いたのは初めてだった。もしかして意外と病弱なのだろうか、と思いながらスマートフォンの中の若宮さんを見やる。
翁面のように貼り付けられていた、いつもの笑顔は影も形もない。血の気の失せた顔を片手で覆って、時折冷や汗を拭いながら荒い息を吐いていた。
九尾さんになんとか身体を支えられているようだが、今にも倒れ込みそうだ。
「若宮さん、風邪……ですか?」
「そんな大層なものじゃありませんよ。ほら肇さん、いつまでそうしているつもりですか。シャキッとしてください」
『全身が痛ぇ、吐き気がする……』
「それでもマシな方ですよ。いいから立ちなさい。私の体であまり情けない姿を晒さないで貰えますか」
呆れたように雛遊先生が肩を落として、九尾さんに一言二言指示を送る。
九尾さんは頷いて、うずくまり続ける若宮さんを立ち上がらせようとしたようだが、若宮さんは『おい、やめろ揺らすな、吐く』と弱々しく抗議の声を上げただけだった。
「小手鞠君たちの都合もあるようですし、私も用事があるのでね。さっさと戻って仕事をしたい。肇さん、せめて札だけでも書いて寄越せませんか」
『何の札だ。勘違いしているようだが、祟り具は祓うものじゃない。そもそもが人間のために造られた道具だ。壊せば壊れるが、その危険性はさっきお前が説明した通り』
「つまりどうしろと」
『せっかちはモテないぞ』
先ほどの星蓮への言葉を、今度は若宮さんが返されて、笑顔を貼り付けたままの雛遊先生の目尻にぴしりと青筋が浮かぶ。
「……私が鏡を叩き割る前に、解決策が思いつくといいですね」
『念を押すが、それだけはやめておけ。戻れなくなるぞ』
「私は構わないと言ったでしょう」
「僕が構うのでやめてください!!」
半ば悲鳴交じりで二人の会話に口を挟む。この先ずっと卯ノ花さんの姿のままだなんてとんでもない。
意識しないようにしていたけれど、僕だって年頃の男子なのだ。女子の制服を着ているというだけでちょっと恥ずかしいのに。
「俺はまあ、おまえがどんな姿でも気にしないぞ。けど、女子寮に移動されるのは確かに困るな」
「そんなところで器の広さを見せないでくれ、僕は嫌だよ!」
遠慮がちに寛容さを披露してくる星蓮に、頭を抱えて叫ぶ。星蓮は「だってよ」と言って、誰かに話しかけるように斜め上を向いた。
「……? 誰と話してるの?」
「誰とって……、何言ってるんだ?」
不思議そうに僕に返してから、何もないところに向かって首を振ったり、返事をしたりする星蓮に、やっぱり星蓮も鏡の影響を受けているのだろうかとうっすら背筋が寒くなる。
そんな僕らのことなど端から眼中にないようで、雛遊先生は呆れたようにため息をこぼすと、再び姿見に向き直った。
まじまじと鏡を覗き込む雛遊先生の前で、心なしか姿見が後ずさった気がする。
「……変な顔ですねえ」
『おい、悪口だぞ』
「肇さんは戻ってこないようですし……。こうなってしまったのも何かの縁。ただ立っているだけでは面白くありませんね」
先ほどまで機嫌悪そうに腕を組んでいた雛遊先生だが、鏡に向かってにこやかに手を振ると、名案を思いついたとばかりにスマートフォンを振り返る。
一方の若宮さんは、すごく嫌そうにその笑顔を見返した。
『……嫌な予感しかしないんだが』
「周知の通り、私という人間は嫌われていましてね。あらゆるところが立ち入り禁止なのですが……、肇さんの姿なら顔パスでしょう」
『おい待て、どこに行く気だ!?』
「手始めに、雛遊の書庫でも見に行きましょうか。総司さんにお会いしたら、かわいい息子を演じておくのでご心配なく。それから綾取の離宮もいいですね。いろはさんがどんな顔をするのか楽しみだ。ああ、肇さんは神社でゆっくり休んでいるといい。じきに千鶴さんが目を覚まします。よく効く薬を煎じてくれるでしょう」
それまで具合悪そうにうずくまっていた若宮さんだったが、雛遊先生の言葉でみるみる真っ青になると、そばに用意されていた筆と矩形の半紙をひったくる。
そのまま床に這い蹲うと、ものすごい勢いで文字を書き連ねていった。
『其に命ずる。五行より水、流れ出でて我が道となれ。五行より金、空間を切り裂き門戸を開け。転移——』
若宮さんが札を束ねて早口の詠唱をとなえると、ぽん、と栓を抜くような軽快な音が踊り場に響き渡った。
「わっ……」
急に目の前に無数の紙が舞い散って、思わず僕は目を覆う。紙で顔を切らないようにか、僕を庇うように雛遊先生が前に立って、踊り場の中央を譲った。
「素晴らしい。私の体でも移送の術が使えるんですね。ぜひ今度やり方を教えてください」
からからと雛遊先生が乾いた声で手を叩く。いつの間にか、踊り場の中央には若宮さんが立っていた。
「絶ッッ対に教えるか! はあ……、お前のせいで無駄に消耗した……」
「では、どれが一番効いたのかだけでも教えてくれませんか。今後の参考にするので」
悪戯っぽい笑顔を浮かべる自分の顔を睥睨しながら、若宮さんが呆れたように返す。
「書庫は見たければ見るといい。父ならその姿を見れば何が起きたか察するだろう。いろはだってさすがに中身がお前じゃ騙されねえよ」
「おや、それでは千鶴さんが嫌で逃げてきたんですか? そんなに仲が悪かったとは知りませんでした」
本当に意外だったらしい。心底不思議そうに首を傾ける雛遊先生を、若宮さんが忌々しげに見上げた。
「薬を煎じるってお前が言ったんだろうが。……あいつの薬湯を飲むくらいなら、俺は一生寝たきりでいい」