第三夜┊一「彷徨う白骨」
てん、てん、と何かが弾む音がする。
……誰かが、鞠をついている。
霧の向こうで、幾つもの小さな人影が、手鞠をついて遊んでいる。
近づいては遠ざかる、小波のような子供たちの歌声が、やけに耳についた。
——綾取の糸は切れ、檻紙は既に燃え尽きた。
——雛遊はいつもひとりぼっち。
くすくす、くすくす。
子供特有の甲高い笑い声は、決して和やかなそれではない。
こちらを嘲るような含み笑いは、輪唱のように響き渡って、だんだんと声量を増していく。
くすくす、くすくす。
笑い声の奥で、ひそめられた声がいつしか悪辣な本性を垣間見せ始める。
やがて大きくなっていく罵声の数々は、かつて確かに、彼女に向かって投げ掛けられていたもの。
「……五月蝿ぇな」
雛遊肇は、目を覚ました。
目が覚めたら、不老不死になっていた。
いつも僕より早く起きては意気揚々と朝食の準備をしていたはずの星蓮は、なぜかクローゼットに閉じこもってそっと隙間からこちらを伺っており、向日葵さんも普段腰掛けている椅子の陰に身を潜ませている。
ふたりとも、僕が暴れ狂うとでも思っていたのだろうか。
だとしたら、期待を裏切ってしまって申し訳ない。
事の顛末を聞いた僕の返答は、「そうなんだ」の一言に尽きた。
星蓮は、僕を勝手に不老不死にしてしまったことを随分と気にしているようで、今朝から僕の背後をうろついては、
「な、何か、欲しいものとか……ないか……?」
「ほ、ほら、エンゼルフィッシュだ! おまえ、こういうヒラヒラしたサカナ好きだっただろ……?」
「そ、そうだ、宿題! 俺が代わりにやってやるよ!」
……なんて言い出す有り様だ。
起こってしまったことは仕方がないし、むしろ助けてもらって感謝している。とはいえ思い返してみれば、彼は毎日のように、僕に謎の肉を食べさせようとしていたような。
これまで平然と差し出されてきた、ステーキだの串焼きだのハンバーグだのといった肉料理が、鶏でも牛でも豚でもなかったことを知ったときの方が血の気が引いた。
うっかり僕が食べてしまっていたらどうするつもりだったのかと尋ねると、「だっておまえ、面白いくらい俺の肉に手を付けないし」と返される。
美味しそうだっただろ? なんてのたまう彼に、「もし食べてたらどうしたんだよ」と僕は青ざめながらも繰り返した。
「そうしたら、もっと早くおまえを不老不死にできたのにな」
そう言って、少しも悪びれることなく笑う彼は、やはり本物の怪異なのだろう。
彼にとっては僕に怒られるかどうかが重要なのであって、僕が不老不死になってしまったことについてはむしろ好ましく思っているようだった。
✤
僕が星蓮、もとい「大きなさかな」と初めて出会ったのは、「僕」が六歳になる年だった。
彼の時間感覚では一瞬の出来事だったのだろうが、彼が鰭を失い、足を手に入れるまでに、ゆうに十年の歳月が経過していた。
十五になっていた僕が、姿も形も違う彼をさすがに一目見ただけで思い出せなかったのは許して欲しい。
「とにかく、わかっただろ。俺はおまえより大きくて強いんだから、もう絶対に俺を庇うようなことはするなよ」
先程までしおらしく僕の機嫌を取ろうとしていた彼だったが、この点においてだけは毅然とした態度で僕に念を押した。
僕も彼さえ無事なら、無意味に自己犠牲精神を披露したいわけではないので、おとなしく頷く。
最近、学校でも寮でもやたらアレルギーが出るなと思っていたが、蓋を開けてみれば彼が隣にいたからなのだった。
人に扮していてもアレルギーが出るあたり、彼は本当に強い怪異なのだろう。
彼の肉を食べたせいか、今はそれもおさまって、彼に対してはアレルギーも反応しなくなっていた。
「不老不死でも怪異アレルギーは治らないのか……」
「どんなにやばい奴に遭遇しても、アレルギーで死ぬことはなくなったけどな」
肩を落とす僕に、「おまえって、特殊な生まれだったりするのか?」と星蓮が尋ねる。
「永く生きてる方だけど、怪異アレルギーなんて見たことも聞いたこともないぞ。由来がわかれば治してやりようもあるけど……」
僕のリクエストで卵焼きとトーストになった朝食を目の前に置かれながら、彼の質問を反芻する。
……特殊な生まれ。
特殊とは、なんだろうか。
普通の生まれとは、どのようなものなのだろうか。
「……人間同士が交配して、母体の腹に宿った命は、君が言う『特殊な生まれ』に入るだろうか」
「入らないな」
「じゃあ、僕は普通なのかも」
トーストに齧り付く星蓮に倣って、僕も両手でトーストを持ち上げる。
普通。なんだか素敵な響きだ。
まるで、自分がみんなと変わらない存在になったみたいで。
少し気分が良くなった僕の皿は、すっかり空になっていた。