第十夜┊四「理想の姿見」
呆然とする僕らの前で、雛遊先生は電話の相手といくらかやり取りをしていたけれど、やがて諦めたようにスマートフォンを手すりに立て掛ける。
ビデオ通話に切り替えたらしい。
最新機種の大きな画面には、壁にもたれかかる若宮さんと、困ったように眉をよせながら、その背をさする九尾さんが映っていた。
『……宮司殿、どうやら動けそうにないらしい』
「そんなはずはないでしょう。現に私は、さっきまでそこに立ってあなたと会話していたのですから。情けは無用ですので、そこの阿呆に紙と筆だけ渡してください。あとは本人に何とかさせます」
雛遊先生の指示で、九尾さんはおろおろと視線をさまよわせながらも硯で墨をすって筆を渡したが、若宮さんは受け取ろうとしない。
口元を覆いながら、スマートフォン越しにこちらを見上げる若宮さんは、ひどく顔色が悪かった。
「いいわけがあるなら一言でどうぞ」
『……悪い。祟り具をうっかり覗き込んだ』
「うっかりで『雛遊』が祟り具に取り込まれるとは、末代までの恥ですよ」
雛遊先生は相変わらず貼り付けたような微笑みを携えているが、その声には静かな怒気が滲んでいる。
初めて聞くような雛遊先生の声に怯えながらも、僕はいちかばちか声を掛けた。
「えっと……、もしかして、若宮さんですか?」
雛遊先生を向いて尋ねると、「おや、君も不思議な姿をしていますね」と返される。間違いなく若宮さんだ。
「パニックじゃねーか。どうするんだよこれ」
「苦情は肇さんにどうぞ。私は巻き込まれただけです」
雛遊先生——の姿をした若宮さんが憮然と返す。確かに、今回に限っては若宮さんは何も悪くない。
どちらの名前で呼べばいいのか混乱してきたので、話しかける時以外は、一旦見たままの光景を受け入れることにした。
「それで? これは『殺したいほど憎い相手と入れ替わる鏡』ですか?」
『おい、子供たちの学び舎で物騒なことを言うな』
「『なりたい相手になれる鏡』です」
「……なりたい相手に?」
割って入った僕の返答に、雛遊先生が驚いたようにスマートフォンを向いて、反射的にスマートフォンの向こうの若宮さんがさっと視線をそらす。
「そんなまさか。やはりこれは、殺したいほど憎い相手と入れ替わる鏡でしょう」
『生徒にあまり変なことを吹き込むな……。はぁ、小手鞠君の説明で合ってる。どうやら、なりたい相手と入れ替われる鏡みたいだな』
「いや……、そんなはずは」
画面の向こうで気だるそうに答える若宮さんに対して、雛遊先生の方が明らかに狼狽していた。中身は若宮さんなのだが、狼狽える動作は本物の雛遊先生によく似ていて、こちらは違和感なく見える。
『何をそんなに驚いている』
「驚きもするでしょう……。自分が何を言ってるか分かってます? 入れ替わったときに頭も打ちましたか?」
『打ってねーよ。お前にだって長所の一つや二つあるだろうが。お前のことは嫌いだが、尊敬するところがないわけじゃ……』
「その体でまだそんなことが言えるとは驚きです」
雛遊先生の皮肉でまた具合が悪いことを思い出したらしく、画面の向こうで若宮さんがえずく。
一向に進まない状況にしびれをきらして、星蓮が「おい」と雛遊先生を睨み上げた。
「へっぽこ宮司。おまえらはどうでもいいが、こっちは日が暮れるまでに元に戻らないとまずいんだよ」
「随分と横柄な物の頼み方ですねえ」
「すみません。僕たち、できるだけ早くもとの姿に戻らないといけなくて。若宮さんならなんとかできませんか?」
縋る僕を見下ろして、雛遊先生が目を細める。レアな表情だ。
不測の事態が起きたことは確かだけれど、雛遊先生も若宮さんも祓い屋だ。姿が入れ替わってしまっていても、きっとなんとかしてくれるだろう。
星蓮に代わって平身低頭して助けを乞う僕に、雛遊先生は「そうですねえ」と姿見を振り返った。
「一度入れ替わったものには反応しないようですね。……肇さん、これの正体に見当はついていますか?」
『影踏の祟り具。先代の檻紙さんが、ドレッサー代わりに鏡を一つ引き取ったと聞いたことがある』
「焼け落ちる前に持ち出されたものですかね。ああ、藪蛇でした。厳重保管品をこんなところで見つけただなんて、何枚書類を書かされることか……」
雛遊先生の笑顔に濃い影が落ちる。そういえば若宮さんは、書類仕事が大嫌いなんだったか。
「絶対に手伝いませんから、自分で何とかしてくださいね」と雛遊先生がスマートフォンに向かって念を押した。
「あの、祟り具ってなんですか? さっきは説明の途中で雛遊先生がいなくなってしまって」
そっと口を挟む僕を、雛遊先生がじろりと一瞥して「怪異ですよ」とにべもなく返す。
「あれ、でもさっき、雛遊先生は似て非なるものだって」
「綾取と雛遊では区別の仕方が違うんです。雛遊はやたらと細かく分類したがりますが、私に言わせれば人間と動物以外はみな怪異ですよ」
『綾取さんの説明を真に受けないでください。彼に言わせれば、燃えないゴミだって『燃やせるゴミ』ですから。……鏡の右下に、鬼灯の家紋が掘られているでしょう。『祟られ屋が作った封具』、略して祟り具。影踏という職人の手で作られたものです』
「なんだか、格好いいような良くないような……、ですね」
「祓い屋」ではなく「祟られ屋」ということは、僕と似たような引き寄せ体質だったのだろうか。訝しむ僕に、「大体そんな感じですよ」と雛遊先生が適当に頷く。
「影踏は、雛遊と檻紙、双方の血を引く遠縁です。遠縁といっても遠すぎて、海に一滴の血を垂らしたくらいの薄さですが。しかし、わずかでも檻紙の血が混ざっていれば、怪異にとってはご馳走です。骨まで舐りつくされたっておかしくはありません」
『おい、あまり怖がらせるようなことを言うな』
「ただの事実ですよ。……ああ、そういえば桜子さんも、もとは檻紙の遠縁でしたね。学生時代はさぞ苦労されたことでしょう」
雛遊先生の言葉に、画面の向こうの若宮さんが苦い顔で押し黙る。
「すみません、労ったつもりだったのですが」と、雛遊先生は少し焦ったように失言を訂正した。
「さておいて、影踏は君や千鶴さんのように、昔から怪異を引き寄せる体質でした。けれど雛遊の血も引く影踏は、怪異への対抗心を『道具に宿す』ことができた」
——祟られ屋が作った封具、略して祟り具。
それはきっと、怪異に脅かされる側から、怪異を脅かす側に回った瞬間だ。