第十夜┊三「理想の姿見」
ゾワッと悪寒が駆け抜けて、僕は今来たばかりの道を振り返る。
六限が始まってしばらく経つけれど、卯ノ花さんは大丈夫だろうか。
「生物、任せちゃって悪かったかな。教授に絡まれてないといいけど……」
「あいつなら上手くやるだろ」
軽く返された言葉に、僕も少しほっとする。星蓮の言葉は、ただの気休めではないからだ。
教授に目をつけられている僕は、生物の授業で指名されることが多い。というか、ほとんど僕しか当てられない。
そんな授業に僕の姿で放り込まれるなんて、絶体絶命の大ピンチ。普通の人ならきっと頭を抱えて叫び出すだろう。
けれど卯ノ花さんなら、教授の出す無理難題にも堂々と答えられるはずだ。
「生物学」学年ランキング二位、——卯ノ花兎楽々。
明らかに出題範囲を逸脱している生物学のテストは、並外れた勉強意欲を誇る特進科のS組を含めても、学年平均45点。
そんなありさまの生物学で、十分な成績を収めているのは僕らのクラスに二人だけ。
前述した卯ノ花兎楽々と、もう一人は確か……——。
「へぇ、これが例の姿見か」
星蓮の呟きで我に返る。いつの間にか、僕らは旧校舎の北階段に立っていた。
目の前には噂話の通り、大きな姿見が鎮座している。
「深夜にならないと現れないって話だったけど、昼でも普通にあるんだな」
「うーん、そんなことないと思う。これって実は、かなりイレギュラーな事態なんじゃないかな……」
鏡に映らないよう、慎重に画角の外から姿見を検めている星蓮に答える。
なにせ僕は、この姿見が「極度の人見知り」であることを知っている。人を映すための鏡でありながら、人と目を合わせるのが苦手なのだ。
どこから盗ってきたのかはさておいて、この姿見は教授の持ち物だったはずだけど。
ここにあるということは、あの実験棟から逃げ出してきたのだろう。
そんな姿見が、人気のない旧校舎とはいえ、こんな真っ昼間に姿を現すはずがない。
これは恐らく、卯ノ花兎楽々……福兎の権能だ。
卯ノ花さんが望んだ事柄は、大体その通りになる。
そもそも、夜にしか現れないはずの鏡を見つけに行こうと言い出したのも彼女だ。卯ノ花さんなりに勝算があったからだろう。
けれど、福兎が他人に授けられる幸運は、一度に一つまで。
鏡の顕現に幸運を使ってしまったのなら、これ以上の幸運は望めない。
「なら、元の姿に戻れるかどうかは、おまえの運次第ってことか」
「困ったなぁ、僕あんまりツイてないんだよね」
元に戻るどころか、唯一の安全装置を使い果たしてしまった今、何が起きてもおかしくはない。
肩を落としながら、僕らは揃って鏡を向いた。
姿見は古めかしく、楕円を縁取る銀細工は一部が変色してしまっている。しかし、曇りなく踊り場を映す静謐な佇まいは、旧校舎の薄暗さと相まって、願いを叶える力があってもおかしくない雰囲気を漂わせていた。
「……で、ここからどうしよう」
「とりあえず、おまえだけ鏡の前に立って、元の姿に戻りたいって願ってみたら良いんじゃないか?」
「『けれど半端な願いなら、たちまち鏡に呑み込まれ』……でしょ、大丈夫かなぁ。僕が鏡に閉じ込められたら助けてくれる?」
「全身全霊で努力する」
力強く頷かれて、僕も仕方なく前に出る。
少なくとも星蓮なら、僕が鏡に閉じ込められても見捨てることはないだろう。
星蓮が踊り場から数段降りて、姿見には僕——もとい、卯ノ花さんだけが映し出される。
きらきらと輝く、手入れの行き届いた花蜜色の長い髪。
女子用の制服に身を包んだ、僕よりも一回り小さな少女の姿。
……あらためて向き合うと、ものすごい違和感だ。
「……今までよく、こんな僕と普通に会話してたね」
「まあ、少し変な感じはしたけどな。おまえはおまえだし」
今さら何を、と言わんばかりに星蓮が苦笑する。
星蓮が返してくれた言葉は、確かに僕が求めていたものだったはずなのに。
なぜか魚の小骨のように、僕の心に引っかかった。
おまえはおまえ。
——じゃあ、「僕」ってなんだろうか。
髪の先から足の爪先まで卯ノ花さんで構成された、この体のどこに、僕がいるのだろうか。
「……君は、どうやって『僕』を認識してるの? 『僕』の体はいま生物の授業を受けてるけど、あっちが『僕』だとは思わないの?」
「なんだ? 急に難しい話するなよ。あっちは卯ノ花だろ」
「どうして? 『僕』の体は君と同じ寮に住んでいて、いつもと同じように今朝目を覚ましただろ? なんで僕の姿をしてる方が卯ノ花さんで、こっちが『僕』だと思うの?」
「言語化しろって言われたら難しいけど……、おまえだって、あっちが卯ノ花だってわかってるだろ?」
わかっている。
僕も、あれが卯ノ花さんだと思っている。
けれど、だって、この鏡には、姿を入れ替える能力なんてないはずなのに——。
「あれ……、じゃあ、この鏡って……、何ができるんだっけ……」
何かを思い出しそうな気がしたけれど、急激な眠気に襲われて、僕はその場に膝をつく。
「おい、大丈夫か!?」と星蓮が叫ぶ声が、だんだんと遠くなっていって……——。
「危ないですよ。こういう類のものの前では、自我をしっかり保たないと」
不意に誰かが僕の手を掴んで、踊り場から引き上げる。
それまでまとわりついていた眠気が途端に吹き飛んで、視界がクリアになった。
「雛遊先生!」
「大丈夫ですか? ああいうものに呑み込まれるとあとが大変なので、気を付けてくださいね」
呆れ半分、心配半分の顔で僕の手を掴みながら、「小手鞠君で合っていますか?」と雛遊先生が尋ねてくる。
「はい、合っています。よく僕だってわかりましたね」
「何度も言いますが、旧校舎に入ろうとするのは君たちくらいですからね。確かに最初は、随分珍しい組み合わせだなと思いましたが」
「俺たちを尾けてたのか」
「人聞きが悪いですね、私のほうが先ですよ。君たちがあとから入ってきたんです」
雛遊先生は星蓮の言葉に額を揉みながらも、「1-Bは授業中でしょう。早くクラスに戻りなさい」ともっともな苦言を呈した。
「ちょっとしたトラブルでな、見逃してくれないか」
「……そのようですね。それで、一体どうしてそんなことに?」
「朝起きたら卯ノ花さんになってて……」
「あとはわかるだろ。こいつを女子寮に帰すわけにはいかないんだよ」
星蓮に補足されて、雛遊先生は「ああ……はい、そうですね……」と薄暗い天井を仰いだ。
「なんというか、名探偵がいるところに事件は起きるものですね……」
「おい、俺を疫病神みたいに言うな」
「いえ、私が言っているのは君ではなく……。はあ、こんな事を言っていても仕方ないですね。それで、元に戻りたくて、噂の姿見を使おうとこんなところまで?」
おおむね僕らの意図を把握したらしく、雛遊先生が横目で姿見を見やる。
「発想が危険すぎますよ。写真や鏡など、姿を映すものは古くから魂を抜き取ると云われているでしょう」
「この姿見は怪異なのか?」
「似て非なるものです。これは『祟り具』。ほら、ここに鬼灯のマークがあるでしょう。これは『影踏』が作った証で……」
雛遊先生が踊り場に降りて、説明しながら鏡の枠を指し示す。
姿見にはしっかりと、雛遊先生の蜂蜜色が映し出されていた。
「おい、降りていいのかよ」
「あ」
雛遊先生が顔を上げて、鏡と向き合った瞬間。
薄暗かった踊り場が、目も眩むような閃光に包まれた。
「……っ!」
——数秒の静寂ののち、おそるおそる目を開ける。
一見して、僕らの目の前の状況は何も変わっていないように思えた。
星蓮は相変わらず、踊り場の数段下からこちらを見上げていたし、雛遊先生も鏡と向き合ったまま微動だにしていない。
けれど、その背中が、雰囲気が、もう僕の知る雛遊先生のそれではなかった。
雛遊先生は数秒の間、鏡と向き合ったまま立ち尽くしていたが、おもむろに自分のジャケットやスラックスを漁ってスマホを見つけ出すと、誰かに電話を掛け始めた。
「……もしもし。九尾、私です。そこにいる男の襟首を引っ掴んで、今すぐこの場に送ってください」
聞いたことのないような低い声で、雛遊先生が誰かに語り掛ける。
姿見越しに目が合った雛遊先生は、貼り付けたような笑顔を浮かべていた。