第十夜┊二「理想の姿見」
「……このように、家族性高コレステロール血症は常染色体優性遺伝形式をとり、LDL受容体遺伝子の変異で発症する」
カツカツと小気味のいい音を立てて、チョークが黒板を叩く。
羅列され続ける呪文のような単語は、黒板をとうに隅まで覆い尽くしていた。
午後の授業でもっとも人気のない科目を尋ねたら、クラス中の全員が口を揃えて「生物」と答えるだろう。
専門家を名乗るだけあって、「教授」と呼ばれる男がぼそぼそと語る生物学は、確かに水準が高い。高すぎて、ランチを終えたばかりの高校生には、風変わりな子守唄にしか聞こえなかった。
生徒の大半がうとうとと船を漕いでいることなど気にも留めず、バイス教授は独り言のような授業を続ける。しかし、もう黒板に書き込むスペースが残されていないことに気付くと、チョークを持ったまま突如として教室を振り返った。
それまで夢見心地だった生徒たちだが、振り向く教授に合わせて弾かれたように背筋を伸ばすと、神妙な面持ちで目の前の教科書を覗き込み、うんうんと頷きながら謎の文字列をノートに写し始める。
一気に緊張に包まれた教室の中で、中央最前列に座る「僕」と、ペストマスクの目が合った。
「小手鞠、日本におけるFHヘテロ接合体の患者数を推定しろ」
「日本の人口を一億二千万人と仮定した場合、二十四万人です」
クラスメイトたちが固唾を呑んで見守る中、顔色を変えることなく小手鞠カルタ——の姿になったあたしが立ち上がる。
間髪いれない回答に、ペストマスクの男は満足そうに頷いた。
「結構。続けて問三、移植免疫における急性拒絶反応の主要な機序を答えろ」
「はい。急性拒絶は移植片のMHC抗原に対し、宿主のT細胞が反応することで起こります。主にCD8陽性の細胞障害性T細胞が標的を攻撃し、そこにCD4陽性T細胞も補助的に関わります。IL-2やIFN-γといったサイトカインが分泌され、炎症反応が強くなり、組織の傷害が進みます」
高等部どころか医師免許レベルの問題に、「こんなの当てられても答えられるわけがない」とクラス中の生徒が教卓から目をそらし、ガタガタを肩を震わせているのを肌で感じる。
普段なら小手鞠カルタも震える側だけど、今日の「僕」はまっすぐにペストマスクを見上げていた。
——おかしい。「幸運」が効いていない。
福兎の加護を受けたあたしは、望んでいない時に授業で当てられることはない。
注目を避けたいこのタイミングで、こんなに教授の目に留まるはずがないのだけれど。
教室の隅を、赤い目をした三尾のネズミが駆け抜けていく。
見慣れたそれらは、あたしと同じく教授の手で創られた実験体だ。けれど今日は彼らが走り抜けるたびに、皮膚を刺すような痒みが襲った。
「これが怪異アレルギー……。嫌な体質ね」
誰にも聞こえないような小声で吐き捨てて、着席する。
小手鞠と星蓮君は、もう鏡を見つけただろうか。
姿を入れ替える鏡——。単純な怪奇現象だと思っていたけれど、あたしの推測が正しければ、事態は思ったより深刻だ。
恐らくこれは、入れ替わりなんかじゃない。
小手鞠のアレルギー体質は「体」に基づくものだから、入れ替わったあたしにその症状が出てもおかしくはない。
けれど「福兎」の権能は、本来あたしから切り離すことのできないもの。
もし今、その権能を持っているのが小手鞠なら……。
「では小手鞠、問四だ」
教授に再度指し示されて、思考が中断される。
こっちはそれどころじゃないんだけど、教授が小手鞠ばかり当てるのはいつものことだ。
仕方なくもう一度立ち上がろうとしたあたしより早く、後方で椅子を引く音がした。
「教授、移植免疫は高等部の教育範囲じゃありませーん」
「貴様には訊いていない。手を下ろして着席しろ、桐崎」
「特定個人を当て続けるのは良くないと思うなぁ。みんなにも平等に、学ぶ機会を与えるべきじゃない?」
出席番号十番、桐崎さつきの提言に、クラス中が「余計なことを言うな!」と言わんばかりの目で桐崎さんを見る。「僕」もみんなに習って、斜め後ろに位置する桐崎さんを振り返ると、ぱっちりとしたウィンクが飛んできた。
……かばってくれたのだろうか。
あからさますぎて余計な反感を買わないか、そちらのほうが心配だったけれど、存外素直な教授は「ふむ」と頷いてチョークを置いた。
「そうか。では出席番号十四番、問四を答えろ」
「あ、星蓮君は、頭痛と腹痛と吐き気と手足の痺れと大量出血で保健室で休んでまーす」
平然と並べ立てられるあからさまな仮病に、視界の端で恋依がわずかに髪を揺らす。しかしそれ以上の反応はない。
必要以上にこちらを窺うこともせず、恋依は不自然なほどに自然な振る舞いを続けていた。
何も知らないはずの桐崎さんが、星蓮君の不在をかばったことを、内心ではきっと驚き、訝しみ、動揺していたはずなのに。
そんなあたしたちの胸中をよそに、教授は「頭痛、腹痛、吐き気、末端の麻痺、大量出血……」と症状を復唱する。
まずい。いくらなんでも、さすがに盛りすぎだったんじゃ……。
「ふむ、播種性血管内凝固症候群が疑われるな。なんらかの感染症、あるいは毒物を摂取した可能性が高い。保健室の備品では治療が難しいだろう。桐崎、患者を実験棟に運んでおけ。あとで俺が診る」
「ええ……っとぉ、はーい。じゃあ私は星蓮君を迎えに行ってくるね。小手鞠、友達でしょ? 手伝ってくれない?」
「え、僕ですか?」
「そうそう。保健委員の兎楽々ちゃんも欠席みたいだからさ。私一人で男の子を運ぶのは大変でしょ?」
というわけだからと押し切られて、「僕」と桐崎さんは揃って教室の外に出る。
後ろ手に閉じた扉の向こうでは、念仏のような授業が再開されていた。
正直、アレルギーで授業どころじゃなかったから、真意はどうあれ、桐崎さんに強引に連れ出してもらえて助かった。
「あの、ありがとうございます。桐崎さん」と声を掛けると、「いいのいいの。退屈な授業をサボれる口実があるなら、たとえ蜘蛛の糸でも掴むでしょー?」と笑顔を向けられる。
「……溺れる者の藁ならともかく、蜘蛛の糸なら掴んじゃ駄目では? 救いの糸だと思って握りしめても、途中で切られちゃうやつですよ、それ」
「うーん、そうだねえ。この場合、蜘蛛の糸を掴んじゃったのはきみの方かなぁ、兎楽々ちゃん」
あたしが何かを返すより早く、首筋にチクリと鋭い痛みが走る。
意識を失う間際に見上げた桐崎さつきは、その手に空の注射器を握っていた。