第十夜┊一「理想の姿見」
「ねえねえ聞いた? 旧校舎にある《魔法の鏡》」
「北階段の踊り場に」
「深夜になると現れる」
「それは大きな魔法の姿見」
「もしもあなたが願うなら」
「あなたはなりたいあの人へ」
「けれど半端な願いなら」
「たちまち鏡に呑み込まれ」
「一生外には出られない!」
「「ああ、恐ろしや恐ろしや」」
✤
血塗れ白衣は無事に祓われ、雛遊先生も総司さんとの確執が少しばかり取り除かれたらしく、以前よりも表情が明るくなった。
一方で、保健室に置き去りにされた星蓮はややおかんむりで、明日の朝は早めに起きて彼の機嫌を取らないと……。
なんて思いながら眠りに就いたはずなのに。
——目が覚めたら、僕は女の子になっていた。
「……え?」
動揺のあまりこぼれた声は、聞き慣れた自分のものではなく、少女特有の高らかなテノール。
サラリと肩を伝う長い髪と、胸元のわずかな膨らみに、僕は今度こそ「うわ……っ」と小さく叫んで口元を覆った。
見慣れない天井と、整頓されたデスク。
風にはためくレースのカーテンに、白とピンクで揃えられた小物たち。
なにより、室内に漂うフローラルな香りは、明らかに男子寮のものではない。
「兎楽々ちゃん、そろそろ行かないと遅刻しちゃうよー」
ノックと同時に掛けられた声に、思わず肩が跳ねる。
うっかり返事をしなくてよかった、と心の底から思いながら、僕は慌てて頭まで布団をかぶった。
掛けられた声は、聞き覚えのあるクラスメイトのもの。
女子寮の、ましてや人気者の彼女たちの部屋に侵入したなんて知られたら、僕のこれからの学校生活は平穏無事では済まないだろう。
「……大丈夫ー? 体調よくない日? お休みするなら伝えておくよー?」
心配そうな愛色さんの声に、僕は本当のことを言うべきか否か、ちょっと迷った。
他人の嘘を見抜ける愛色さんなら、朝起きたらこんなことになっていた、なんていう荒唐無稽な話も信じてくれるかもしれない。
だけど、この体の持ち主——出席番号四番、卯ノ花兎楽々は、愛色恋依をこんなよくわからない騒動に巻き込むことを快く思わないだろう。
というか、バレたら絶対に酷い目に遭わされる。
卯ノ花さんは怪異にしろ神にしろ、人外の存在を毛嫌いしていた。
次点で彼女は男が嫌いで、さらに僕のような意見のはっきりしない人間も嫌いらしい。
僕と彼女は少しばかり縁があるのだけれど、男であり、意見のはっきりしない性格であり、そしてやたらと怪異を引き寄せる体質の僕は、彼女にとって「嫌いなものだけを盛り合わせたフルーツタルトみたい」だそうで、さらにはつい最近まで彼女のことをきれいさっぱり忘れ去っていた僕に呆れ果て、虫でも見るような目を向けていた。
というわけで、クラスメイトでありながら僕らの関係は良好とは言いがたく、そんな僕が卯ノ花さんの体で、卯ノ花さんの部屋らしき場所で目を覚ましたというだけで、頭を抱えるには十分だろう。
もうなんだかいっぱいいっぱいで、いっそ愛色さんに助けを求めようかなと布団から這い出たところで、ベッドサイドテーブルに置かれていたスマートフォンから可愛らしいオルゴール音が流れてくる。
——着信だ。
発信者は未登録らしく、無機質な番号だけが表示されていた。
それはほとんど友人のいない僕でも知っている、……僕自身の電話番号。
僕は恐る恐るその端末に手を伸ばして、通話ボタンを押した。
「も、もしもし」
『その体に触れたら殺す。説明するからこよりに替わって』
開口一番、自分の声に殺害予告されながら、僕は「よかった……」とへたりこんだ。
僕に対する強火な態度と、愛色さんを名前で呼び捨てる人物。
電話の主は、卯ノ花兎楽々だった。
✤
「それで? 何がどうしてそうなったんだ」
午前の授業をなんとか切り抜けた僕らは、昼休みに集まって、食堂の隅っこに陣取っていた。
星蓮に問われる横で、僕の体を借りた卯ノ花さんが人参ジュースをストローで啜る。
対面に座る愛色さんは持参した小さなお弁当を広げていて、僕の前にはコンビニで買ったサラダがひとつ置いてあった。
「起きたらこうなってた」
「どうやって着替えたんだ? 制服で寝てたわけじゃないよな」
訝しげに僕を見つめる星蓮に、「私が手伝ったんだよー」と愛色さんがフォローを入れてくれる。
「さすがに小手鞠君がひとりでお着替えするのは大変だろうし、兎楽々ちゃんのクローゼットは私も見慣れてるからねー。お着替えしてもらう間、小手鞠君には目を瞑っててもらったのー」
「ナイス愛色」
親指を立てる星蓮に、愛色さんが「えへへー」とまんざらでもなさそうな笑顔を向けた。
八方美人に見えてその実、人間が嫌いな愛色さんだけど、コンちゃんの一件以降、星蓮への態度はやや他の人に向けるそれとは違ってみえる。
もしかして、愛色さんは星蓮が人じゃないことに気付いているのだろうか。
「それにしても、『中身が入れ替わった』なんてよく信じたわね。いくらこよりが嘘を見抜ける体質でも、朝の短時間じゃろくに会話もできなかったでしょ?」
卯ノ花さん(in僕)に尋ねられて、愛色さんは「んー」と唇に指を当てる。
「兎楽々ちゃんは絶対にそんな嘘をつかないから、特に疑ったりはしなかったかなー。兎楽々ちゃんの日頃の行いが良かったおかげだねー」
「こより……!」
卯ノ花さんは感極まった表情でがっしりと愛色さんの両手を握りしめたけど、その体が僕のものであるということを忘れないでほしい。
案の定、食堂で愛色さんと団欒するばかりか、突然手を握り始めた僕(の姿をした卯ノ花さん)にあちこちから悲鳴が上がった。
「不便極まりないな。早く元に戻る方法を探さないと、おまえの体がぎったぎたにされるぞ」
「僕もそう思う」
敵意の視線に晒されている自分の体を眺めながら、サラダを口に運ぶ。
自分の体を第三者の視点で眺めるなんて、不思議な感覚だ。
僕らの会話に、愛色さんも「そうだねー」と頷く。
「夜までに戻るといいんだけど」
「なんで夜?」
「だってお互い、お風呂は困っちゃうでしょー?」
愛色さんの言葉に、それ以外の三人がピシリと固まった。
それは確かにまずい。
というか、その問題に焦点を当てるなら……。
「お手洗いの時点で問題があるわね」
「おい、今すぐそのジュースを飲むのをやめろ、卯ノ花」
「一日水分抜きにしろって? 小手鞠の体がどうにかなっちゃうわよ」
「女子トイレは私がお手伝いできるけど……、男子トイレは星蓮君が脱がすわけにもいかないしねー」
「卯ノ花さん! やっぱりその人参ジュースやめて!」
めいめい小声で叫んだり頭を抱えたりする横で、星蓮が「おまえ、なんか知ってるだろ」と卯ノ花さんに目を向けた。
「パニックになってるこいつと違って、おまえはやけに落ち着いてるし」
「騒いだってしょうがないでしょ、こんな体で悪目立ちしたくないだけよ」
「言い訳はそれだけか? 好きでもない同級生の男が自分の体に宿ってるのを、そんな冷静に見られる奴なんていねーよ。——旧校舎の姿見、おまえが使ったんじゃないのか」
「えっ」
星蓮の言葉に、僕の方が驚く。
それは最近囁かれ始めた、新しい噂話。
なんでも真夜中に旧校舎の鏡を覗くと、なりたい人になれるという……。
「いや、仮に卯ノ花さんがその鏡を使ったとしても、僕にはならないだろ」
「人魚の噂を忘れたか? 噂話がいつも正しいとは限らないだろ。実際は『嫌いなやつと入れ替わる鏡』だったのかもしれない」
「それはそれで傷つく……」
「人魚の噂ってなになに? あれって嘘だったのー?」
「こより、脱線するから一回ストップ」
卯ノ花さんは愛色さんをなだめてから、「旧校舎の姿見、確かめに行ってもいいかもしれないわね。もし、なりたい姿になれるという噂が本当なら、元に戻れるかもしれないし」と席を立った。
「今から行くのか? 鏡は夜にならないと現れないんだろ」
「夜までお手洗いに行かないつもり? あたしは御免よ」
「うんうん。みんなで力を合わせれば、きっとなんとかなるよー」
頷いて一緒に立ち上がる愛色さんに、「ダメ、こよりはお留守番」と卯ノ花さんがあっさり手のひらを返す。
「えっ、なんで!?」
「こよりに授業をサボらせるわけにいかないし、そもそも老朽化した旧校舎なんて、本来立ち入り禁止なの。危ないから絶対にダメ」
「えー、私も魔法の姿見、見てみたかったなー」
肩を落とす愛色さんに、「写真撮ってくるからそれで我慢して」と卯ノ花さんが声を掛ける。
友人同士の微笑ましい姿に水を差すようで気が引けるけれど、「いや、卯ノ花さんも留守番だよ」と僕が口を挟んだ。
「は? どうして?」
「だって次の授業、生物だし。教授の授業なんて、一回でも休んだら一ヶ月くらい補習にされる」
理系三科目を担当する奇人変人ことバイス教授は、いつもあれやこれやと口実を作っては僕を補講に呼びつける。
もしかすると、僕以外のクラスメイトは理系科目で当てられたことがないんじゃないかと疑うくらい、僕はあからさまにバイス教授に目を付けられていた。
そんな教授の授業をサボるなんて、鴨がネギと豆腐と出汁を背負って鍋に入るようなものだ。
「卯ノ花さんは僕のふりして授業に出てよ。姿見は僕と星蓮で調べてくるから」
「はぁ……。随分と利己的な理由だけど、任せていいなら助かるわ。それじゃ、くれぐれも鏡を割らないようにね。幸運を祈ってる」
卯ノ花さんが軽く僕の肩を叩く。
げ、と思ったけど顔には出さなかった。
福兎の高利貸し。
彼女の祈りは九尾の狐や神獣・白沢のように強い幸運をもたらすけれど、前述の二体と違って福兎の幸運はあとで必ず代償を払わされる。
僕はもともとあまりツイてないのに、この幸運の代償を払わされたらどうなってしまうんだろうか。
予鈴に合わせて僕らは席を立ち、卯ノ花さんと愛色さんは教室へ、僕らは旧校舎へと向かう。
幸運の効果が切れたら、鉄骨が降ってくるかもしれないな、と思いながら僕は古い校舎を見上げて息を吐いた。