幕間「忘れ去られた、とある朝食の風景」
とっとっと軽やかな音を立てて、ビーカーに牛乳が注ぎ入れられる。
なんでもないその様子を、淡い藤色の瞳がじっと見つめていた。
きっちり200ml。カルシウムにして約220mg。
なみなみと満たされたビーカーを目の前に置いてやると、小さな手が丁寧にそれを持ち上げて口元に運ぶ。
ついばむ程度に口をつけて、「おいしいです、お父様」と嫋やかな微笑みを向ける少女を、俺はなんとなく見下ろしていた。
「これはなんという飲み物でしょうか」
「牛乳。哺乳綱鯨偶蹄目ウシ科、ホルスタイン種の母乳に該当する」
「あら、ならばこれは牛さんの赤ちゃんにあげるものですよね。私は牛さんだったのでしょうか」
「牛乳は栄養価が高いため、成長期の子供にも投与が好ましいとされている」
「ええと、つまり?」
「好きなだけ飲んで、好きなように育て」
名のない少女は嬉しそうな表情を浮かべて、今度は遠慮なくビーカーに口をつける。
机に広げられた育児本には、成長期の子供のカルシウム不足を訴える内容が長々と書き連ねられていた。
カルシウムについてはこれで多少なりとも補えたはずだが、しかし目の前の少女は同年代の子供たちに比べて随分と細く小さい。
見た目にそぐわず、口調と態度ばかりが日々大人びていくのは俺の影響か、それとも鶴夜の影響か。
俺は少しばかり静かになった隙に、数少ない調理器具であるスキレットへ卵を割り入れて火を通した。
ステンレストレーに乗ったハムエッグとサラダ、焼き立ての食パン、そしてシャーレの上の苺へと、淡紫色の視線が順序よく辿っていく。
「まあ大変、ごちそうです」
「これは一般的な朝食だ。雛遊の御膳ならこの三倍は並ぶだろう。女中はこれまで君に一体何を与えていた」
「そうですね……、木の皮のようなもの、ねずみの死骸、あとは……」
「判った。これまで君の周囲にいた者はみな排除しよう。どのみち必要のない人間だ」
間髪入れずに決定を下す。
愚かな連中だ。大方、この子を虐げることで鶴夜の機嫌でも取っていたのだろう。
能のない人間など生かしておく義理はない。鶴夜の代わりに土地神の餌にでもくれてやる。
少女は恐る恐る半熟のハムエッグをつつきながら、「そんなことをしては、お母様に怒られてしまいますよ」と俺を見た。
「鶴夜は俺を叱らないし、君は少し栄養が足りていない。これから君の世話は俺が見る」
「お父様は……、私が怖くないのですか?」
腫れ上がった頬に手をやって、少女が俯く。
鶴夜が彼女を「恐ろしい化け物」「人の姿を借りた怪異」と称し、手を上げるようになったのはここ最近の話ではない。
鶴夜の言葉を疑う気はなかったが、そもそも俺には生物と怪異の見分けがつかないのだ。
祓い屋の血を引く者は、生まれながらにして怪異が視える者が多い。名家御三家に名を連ねる雛遊の下に生まれた俺も例外ではなかった。
だが、どうやら他の人間たちは、視るだけで人と怪異の区別がついているらしいと気付いたのは、物心がついてしばらく経ってからだった。
俺の目にも、怪異ははっきりと映る。だがそれが、実在する生物なのか、はたまた怪異なのか、俺にはまったく区別がつかなかった。
まだ俺が、雛遊の姓を背負っていた頃。
雨に打たれていた子兎を拾って帰った俺に、兄は顔をしかめて「捨ててこい」と言い放った。
「なぜ」
「それは怪異だ。災いをもたらす」
「どうしてわかる」
「……見たらわかるだろう。目が三つもあるというのに」
そう言われても、俺にはピンとこなかった。
複眼や多指症は自然界にも存在する。症例として論文もあり、世界に認められている。
目が三つあるからといって、この兎が怪異だとは言い切れないはずだ。
そう言うと、兄は説明に窮して「言葉で表すのは難しいが、それは怪異だ」とだけ繰り返した。
分解して構造を調べれば、中身まで正確に模倣しているわけではない怪異は俺にも区別がつく。しかし、切って開いて腹の中身を図鑑と見比べなければ俺には違いがわからないし、周囲はそんな俺を心底気味悪がった。
ゆえに、ありふれた朝食に目を輝かせている、こんな小さな娘が怪異だったとして、人と見分けもつかぬようなものをわざわざ恐れる気持ちもない。
「鶴夜には未来を視る力がある。彼女の言葉通りなら、君が怪異になるのはまだ先だ」
「怪異になってしまったら……、こんな風にお父様と話すこともできなくなるのでしょうか」
「君が怪異になったところで、俺にとっては何の違いもない。気にするだけ無駄だ。俺も昔から『人の心がない』『人ならざるもの』だと言われ続けてきた」
「お父様は人間ですよ」
少女は不思議そうに首を傾けてそう答える。
檻紙の血を引く彼女の目には、人と怪異の違いがしっかりと映っているのだろう。
生物と怪異の区別もつかぬ俺の特性を、この娘が引き継がなかったのは僥倖だ。
「お父様はこんなにも優しいのに、『人の心がない』だなんて。みなさんには見る目がありませんね」
「食べ物を与えただけの人間を『優しい』と断定するのは浅はかだ。邪なものほど、他人を懐柔する方法を心得ている」
「お父様は、桜子様を助けようとしていただけなのに」
少女の言葉に、苺をつまんでいた手が止まる。
兄嫁、雛遊桜子が逝去したのは、この少女が生まれ落ちるより三年も前のことだ。彼女たちに面識はない。
「どこで小耳に挟んだのかはしらないが、人の噂など取るに足らぬ妄言ばかりだ」
「燕の子安貝は、強力な子守りと安産祈願の証。こんな貴重な宝玉を貸してまで、お父様は桜子様の出産を祝ってさしあげたというのに」
「……その宝玉が結果として呪いをもたらしたことに変わりはない。桜子の母体を守ろうとする酒呑童子の契約と、胎児を守ろうとする燕の子安貝は互いに反発した。元々、どちらかしか助からなかったのだ。俺もあの鬼子もそれを理解せぬまま、あの女に祝福をもたらそうとした。そして相反する祝福は、内側からあの女を苦しめる呪いとなった」
少女は長い睫毛を伏せて、「不幸な事故でした」と声を落とした。
「大国主様はその事実に気付いていらっしゃいました。子安貝を取り上げれば、桜子様は助かるけれど、子は流れてしまうということを。なにより桜子様ご自身も、そんな結末はお望みではなかった。——由岐神社は子授けの社です。大国主様は正しく願いを受け取って、鴉取様の両翼を贄に、祝福同士の反発を和らげてくださいました。しかし、和らげられた祈りでは、桜子様の死の運命を回避することはできなくなった」
少女の言葉は、一言一句違わず事実だった。
しかしその事実を知るものは、大国主を除いて一柱しかいない。
「……土地神からの神託か」
「はい。土地神様は、私にたくさんお話してくださいます。お父様のことも、お母様のことも、そのご友人のことも」
「君にある程度の自由を与えることには賛成だが、親しくする相手は選びたまえ。土地神は君や鶴夜を喰らおうとする存在だ。言っただろう、邪なものほど、他人を懐柔するすべを心得ている。土地神は君の孤独に付け込んでいるだけだ」
「いいえ、お寂しいのは土地神様の方です。あの方は私たちとお話がしたいだけなのですよ」
従順な娘ではあるが、こと土地神に関しては頑として譲らなかった。喰われることを恐れ、土地神を憎む鶴夜とはこういうところでもたびたび衝突が起きる。
俺自身は土地神を見たことも語り掛けられたこともないが、鶴夜を喰らおうとする存在を容認できるはずもない。
「土地神は、俺について何か言っていたか」
「『ちょっと嫌い』だと」
「なるほど。次に君に話しかけたら、その首を落とすと土地神に伝えておけ」
いけませんよお父様、と言い募る少女の口に苺を押し付ける。
言葉を奪われた少女はもごもごと抗議の意を示していたが、一口かじると目を輝かせ、文句も忘れて咀嚼に夢中になっていた。
「お父様はお母様のことが好きなのに、私によくしてくださるのですね」
「鶴夜は君を愛せないことを誰よりも嘆き、自責の念に駆られている。彼女が君を大切にできない分、俺が君に接しよう」
「ありがとうございます。私は、お父様もお母様も大好きです」
のちに檻紙千鶴と呼ばれる少女は、そう言って俺に変わらぬ微笑みを向けた。
✤
「あら、珍しい。今日はいつもより顔色がいいわ。なにかいい夢でも見たの? 教授」
「……」
容赦なく研究棟のカーテンを開け放つ卯ノ花に、無言で遺憾の意を示す。途端に差し込む、真昼の強烈な陽光が寝起きの目を焼いた。
「日曜日だからって、こんな時間まで寝てたら体に悪いわよ」
「……睡眠不足は死亡リスクを高める」
「睡眠不足よりも、長時間睡眠の方が死亡リスクを高めるって知ってるでしょ?」
呆れたような顔で腰に手を当てている卯ノ花兎楽々に、俺は渋々上体を起こして、いまだ開ききらない目を向けた。
「俺に死亡リスクを語るとは、なんの冗談だ」
「寝ぼけてるみたいだけど、先に死亡リスク云々を持ち出したのは教授だからね。早く顔を洗って服を整えて。第一被検体が今のアンタを見たら卒倒するわ」
卯ノ花に指摘されて、ほぼ素肌にシーツを被っただけの自分の身を見下ろす。
ここ数日は学会の準備と期末テストの用意に追われていたのもあり、昨晩はシャワーを浴びたあたりから記憶がない。
手近にあった適当なシャツを羽織りながら、「小手鞠は俺の格好ごときで一々倒れたりしないだろう」と答える。
卯ノ花は大げさに肩をすくめると、「寝起きのアンタは目の毒だからね。まあ寝起きじゃなくても、あのふざけたペストマスクを被ってる時以外は大差ないんだけど」と返した。
「ふむ、倒れるのならば捕獲に使えるな。小手鞠は俺を見かけるとすぐに逃げる」
「あーあ、余計なこと言っちゃったわね。小手鞠、貸しの一つはこれでチャラにしといてあげるわ」
めいめい宙を仰いで、この場にいない人間を思い浮かべる。
——小手鞠カルタ。
名が欲しいとねだるので、材料から適当に付けてやったが、もう少し考えてつけてやれば良かったと今では思う。
姓で呼んでも名で呼んでも、違う人間が脳裏をよぎるのだから。
雑に衣服を纏って、低血圧由来の目眩に耐えながらなんとか起き上がる。
だが卯ノ花は、三角フラスコに珈琲をドリップしはじめた俺を見咎めると、「実験器具を食器代わりにするの、いい加減やめなさいよ」とたしなめてきた。
「強化ガラスは食器にも使われている」
「たとえ材質が同じでも、気分ってものがあるでしょう」
「わずかな形状の差でしかないというのに、人の気分というのは度し難いものだな」
あの娘なら、ビーカーに注がれた牛乳も、シャーレに乗せられた苺も、喜んで口にしただろうに。
そう思いながら珈琲を淹れる俺の横顔を、卯ノ花はちらと見てから口元を綻ばせた。
「なんだ、本当にいい夢を見たのね。……久し振りに眠れたみたいで良かったわ」
卯ノ花の言葉に、俺は何も返さなかった。
カフェインの摂取で少しずつ覚醒する脳が、かすかな夢の気配を掻き散らしていく。
識者——檻紙御門の名を知るものは、そのほとんどがもうこの世にいない。