第九夜┊二十四「血染めの白衣」
「……」
「……」
全く会話の弾まへん食卓を囲んで、朝食に箸を伸ばす。
だらしなく頬杖をついとる俺とは対照的に、もくもくと食事を進めとる総司を眺めながら、「キレイな食べ方やなぁ」なんてぼんやりと現実から逃避しとった。
かつてはカルタ嬢ちゃんや桜子のおかげで賑々しかった食卓も、今やすっかり人気を失って、俺と総司の二人きり。
酒吞ちゃんはもともと食事の場には出てこぉへんし、肇坊っちゃんは居心地の悪い雛遊を出て寮生になっとった。
「……蜜鬼はどうしている」
「あー、まあ、しばらくはそっとしといたってや。こんなことになってもうて、アンタに合わせる顔がないんよ」
きっとそのうち元気に、なんて言おうとして箸が止まる。
俺が口にする「いつか」「そのうち」は、いつやって現実にはならへんかった。
けど、ここで俺まで暗くなっとったら、それこそ食卓の空気が冷え切ってまう。
俺は、浮かない顔で吸い物に口をつけとる総司に「ほらほら、そない沈んだ顔しとらんとこっち見てみぃ。今ならこの俺を独り占めできるチャンスやよ」と両腕を広げた。
「他に人もおらんのやし、吐き出してもうたら? 俺が話聞いたるよ」
「お前と改まって何の話をしろと」
「色々や色々。アンタがその肩に背負っとる重たいものぜーんぶ、一回言葉にしてみぃ。少しは軽くなるかもしれへんよ」
「結構だ。何も話すことはない」
カタン、と箸を置いて総司が立ち上がる。いつの間にか、茶碗には米粒一つ残っとらんかった。
「え、ちょぉ待ってや、俺と話すのも嫌なん? このままじゃ、アンタ本当に壊れてまうよ」
「俺に配慮は必要ない」
「俺らがアンタに配慮せんで誰に配慮するんよ。……なぁ、待ってって。外ではともかく、家の中でまでそない気ぃ張らんでもええやん」
「……人が死ぬのはもう慣れた。お前たちが気にする必要はない」
そういって後ろ手で障子を閉める総司に、ぽつんと取り残される。
あ、ダメや、とその時ようやく気が付いた。
俺や酒吞ちゃんがこんな風に後悔しとったら、総司はちっとも悲しまれへん。
一番つらくて悲しいんは総司やのに、俺らが気にせぇへんように、総司が気を使ってしもうとる。
俺らじゃ総司を支えてあげられへん。支えてもらうばっかりや。
総司が心を許して、弱さを見せられたのは、桜子の前だけやったんや。
桜子はそれをようわかっとった。
だから、総司が一人にならへんように俺に託したんや。
『あの人は確かに強いけれど、一人で戦えるほど強くはないのよ』
『ねえ鴉取。私がいなくなったら、総司さんに綺麗な女の人を紹介してあげて。私の影をいつまでも追わなくていいように……——』
桜子の言葉を思い出して、ぐっと拳を握りしめる。
いまさら、総司に怒られるくらいなんともなかった。
俺は、総司をからかった。
花街に誘って、女を勧めた。
茶化しながら、巫山戯ながら、俺は本気やった。
はよう総司が泣ける場所を作らんと。心を許せる相手を見つけんと。
総司だって人や、限界がある。
張り詰めとった糸が、今にもちぎれそうな細い糸が、ずっとずっと引き伸ばされ続けとるのを感じる。
誰だって、家族や友人が死んだら悲しむもんや。
やのに、人の上に立ち続ける総司には、これまで一滴の涙も許されへんかった。
このままじゃ、いつか総司の心は壊れてまう。
けど、俺らじゃ桜子の代わりになんてなれへんから。
俺が早う、桜子の代わりを見つけてやらんと。
……それがどれだけ、総司にとって疎ましい行為やったとしても。
✤
「桜子の代わりなんておるわけない。総司に余計な負担をかけんといてや」
正気の時の酒吞ちゃんは、俺の行動を非難した。
閉ざされた座敷の中には、空になった精神安定剤の瓶やシートが大量に散らばっとる。薬の切れた身体は動かんようで、酒吞ちゃんはろくに焦点も合わん目をこっちに向けた。
その身体は自傷の痕跡だらけで、雑に巻かれた包帯からは血が滴っとる。
大江山の酒呑童子が、ただの病弱な少女みたいになっとった。
「けどこのままやったら、総司は一生自分の感情に蓋したままや。手遅れになる前に発露させたらんと」
「総司が新しい女の前で泣けるわけないやろ。世界をひっくり返したって、そんな女は見つからへんよ」
「そんなんわからんやろ。俺らが決め付けることやない。数を当たれば一人くらいは……」
「鴉取」、と酒吞ちゃんの厳しい声が俺を呼ぶ。
濁った瞳が嫌悪を隠さず、俺を真っ直ぐに見つめとった。
「そんなん詭弁やって、自分でもわかっとるやろ。もう一度言うけど、総司に余計な負担を掛けんといて」
「余計かどうかは……」
「ほんまに総司のためを想うんやったら、あんたが全部壊したったらええ」
「全部って、なにを」
「全部や」
ふふ、と酒吞ちゃんが笑う。
ふらふらしながら立ち上がった酒吞ちゃんは、見たことない色の目をして、見たことない笑い方をしとった。
「総司より弱いやつがおるから、総司は強くないといけないんやろ。——なら、みんな壊したったらええ。総司より弱いやつがみぃんないなくなれば、総司が守らなあかん人間が一人もいなくなれば、総司はもう強がらんでええやろ」
「それこそ詭弁やろ、無茶言わんといてや」
「無茶? 総司が桜子並に愛せる女を見つけるのと、うちらが世界を壊すのと、どっちが無茶やと思う?」
酒吞ちゃんの目は、暗く、暗く濁って、もう何色だったか判らんかった。
俺は、総司より先に酒吞ちゃんが壊れてもうたんやと悟った。
「鴉取、うちらならできるよ。みんな殺してしまお。檻紙はもうおらん。綾取も当主不在。あとはもう、集めて並べて轢き殺すだけや」
「なあ酒吞ちゃん、ちょっと疲れすぎとちゃう? 自分が何言うてるかよう分かってないんやわ。少し寝た方がええ」
「そうやって誤魔化すのは誰のためなん? うちらは総司の式神や。総司のためになることなら、何でもするべきと違うん? 鴉取やって、そう思って女探ししとるんやろ?」
「そんなん総司が喜ぶわけあらへんやろ。酒吞ちゃん、頼むから落ち着いてや。酒吞ちゃんまでそんなん言い出したら、俺の身が持たへんよ」
「持たへんくてもええよ。祓い屋も、怪異も、みぃんな殺してうちらも死んでしまえば、総司はもう、なーんも気にしなくてええ……」
ふふふ、と気味の悪い笑顔を貼り付けて、酒吞ちゃんが空を仰ぐ。その先に見とる未来は地獄絵図やった。
「先に怪異や。怪異を殺して、それから祓い屋を殺す。カルタ嬢ちゃんを殺した奴も見つけて絶対殺す。そうして全部殺したら、——あんたがうちを殺してや」
約束やよ、と勝手に言い残して、酒吞ちゃんは「お仕事」に出掛けた。
それからずっと、酒吞ちゃんはどこかで「お仕事」に励んどる。
昼もなく、夜もなく。
怪異を見つけては殺し続ける。
たまーに正気に返っては、どっかで行き倒れて束の間の休息をとって、また起きたら殺し始める。
——街は随分と平和になった。
零落した神だけは綾取の坊っちゃんが引き受けてくれとるけど、それ以外の怪異は概ね酒吞ちゃんが八つ裂きにした。
怪異の姿が消え去って、街には清浄な空気が溢れるようになった。
祓い屋たちはみんな、それが総司の命令やと思って総司を褒め称えた。
総司は何も言わんかった。
他でもない酒吞ちゃんが、もう言葉すらも理解できなくなりつつある彼女自身が、はからずも総司の名声を上げられたことを、誰よりも喜んどったから。
俺は内心、酒吞ちゃんが本当に怪異を殺し切るんやないかと焦り始めた。
酒吞ちゃんは必ず有言実行するやろう。怪異がいなくなれば、次は祓い屋の番や。
俺がついぞ怪異を生み出す術まで調べ始めた頃、雛遊にも旧校舎の噂が聞こえてきた。
ひとりでに湧く噂話。
尽きない怪異の物語。
酒吞ちゃんも噂話に誘われて旧校舎に向かったみたいやけど、湧き続ける噂話と怪異の数は、酒吞ちゃんの殺戮速度をも上回った。
そもそも怪異のいる場所まで辿り着けへんのも、酒吞ちゃんが苦戦しとる理由の一つやった。
俺らにとって、旧校舎は迷路みたいな場所や。
護符の代わりに絵筆で刻まれた無数の印は、怪異にだけ効く「立ち入り禁止」。
カルタ嬢ちゃんがこの旧校舎に通っとった頃、クラスメイトたちを守るために描いたものやろう。
そのおかげで、俺らは目の前にある教室にも、気が遠くなるほど迂回せんと入れへん。
もう右も左も分別のつかん酒吞ちゃんやったけど、どんなに面倒でもカルタ嬢ちゃんの残した印を壊すことだけはせえへんかった。
そんなわけで酒吞ちゃんは、今でも旧校舎で「お仕事」に励んどる。
——本能のまま旧校舎を彷徨う、怪異を殺す怪異。
酒吞ちゃんもそのうち、旧校舎に蔓延る噂話の一つにされるやろう。
雛遊の名を背負う式神が、人を脅かす存在になったらあかん。
酒吞ちゃんやって、総司の名を汚すくらいなら、死んだ方がマシなはずや。
やから俺は月に一度、酒吞ちゃんを訪ねて質問を投げる。
それに答えられへんようになったら、その時は……——。
✤
「……はい、お話終わり。ご清聴おおきに。満足しはった?」
唐突に話が打ち切られて、僕らは顔を上げる。
偶然通りかかるような時間でも場所でもないのに、なんで総司さんに付いているはずの鴉取が、こんな時間に学校にいたのか。
特に気にせず流していた疑問に、話の末尾でこんな風に答え合わせされるなんて思ってもみなかった。
「酒吞さんを……、どうするつもりですか?」
僕の言葉に、鴉取は何も答えない。
ただ少しだけ嫌そうな顔をして、「その顔で『酒吞さん』とか言うのやめてくれへん?」とだけ口にした。
「こっちのことは気にせんでええよ。坊っちゃんらが知りたかったのは桜子と総司の話やろ。最初に言うた通り二人は仲良しやし、だからって総司は傾倒したりせぇへん。白衣の怪異もきちんと弔って、祓ってくれはるよ」
鴉取がわざとらしく肩をすくめる。
語られた過去の重さに、雛遊先生はしばらく絶句していたけど、やがて「そうだったんですね……」と答えて目を伏せた。
「少し、父のことを誤解していたようです。実力はさておき、頭の固い人だとばかり思っていました」
「まあ坊っちゃんからしたら、具合悪いって言うとるのに無理やり稽古に連れ出したり、蔵に閉じ込めたりする理不尽な頑固親父にも見えたやろな」
総司がスパルタなのは擁護できへんけど、と鴉取が付け足して苦笑する。
「総司は、坊っちゃんに強くなって欲しかっただけなんよ。どうしたって坊っちゃんより先に総司の寿命が来るはずやし、来ないとアカン。嬢ちゃんのことは自分が守る気でおったから怪異から引き離したのに、まさか自分の子にすら先立たれるとは思わへんやろ」
「そうですね。私も父より先に死ぬつもりはさらさらありませんでしたが、先の話を聞いて身につまされました。うっかり死なないように気をつけます」
「ホンマに頼むで。嬢ちゃんに続いて坊っちゃんにまで先越されたら、それこそ総司はもう立ち上がれんよ」
鴉取は手元のカーテンをめくって、すっかり更けた窓の外に目を向けた。
開かれた窓からは、冷たい夜の空気と一緒に、一羽のカラスがバタバタと忙しなく舞い込んでくる。
その足に手紙がくくられていないことを確認すると、鴉取はじっと眉をひそめた。
「父から返事が来なかったのですか?」
「ちゃうよ。これは返事がなかったんやのうて、『直接答える』っつー返事や」
「直接……?」
羽休めにカラスを腕に止まらせると、鴉取は首をかしげる雛遊先生を振り返る。
「総司と同じ代の祓い屋は、桜子も檻紙も綾取も、みーんな死んでもうた。生き残っとるのはもう総司だけや」
——綾取の糸は切れ、檻紙は既に燃え尽きた。
——雛遊はいつもひとりぼっち。
耳慣れた童唄に、「憎まれっ子は世に憚ると言いますからね。私の代では少なくとも、綾取さんが長生きするでしょう」と雛遊先生は穏やかな顔を向けた。
「雛遊が最後に残されるなら、私の寿命はそれよりさらに先になる。心配いりませんよ。……しかし、思ったより大長編で時間をとってしまいましたね」
僕にもたれかかって寝息を立てている星蓮に視線を向けて、雛遊先生が微笑む。
早寝早起きの健康優良児には、少し長話が過ぎたみたいだ。
「せやね。だらだら話しとる間に主役が到着してしもうたわ」
「——茶を淹れると言って出て行ったはずだが。湯を沸かすために保健室に寄るとは斬新な発想だ」
「嘘も方便やろ。俺やって出先でこんなんなるやなんて思わなかったんよ」
「それにしては、随分と無駄話に花を咲かせていたようだが」
鴉取から連絡を受けて来たのだろう。
保健室の入口で、蹴破られた扉を見下ろして顔をしかめている総司さんに、鴉取が「ひえぇ」と頭を抱える。
「どっから聞いとったん……。お、俺はちゃんと断ったんよ。やのにそっちの子ぉがいたいけな俺を脅して……」
「ああ、そういえば結局、エントランスホールの件とは何だったんですか?」
「ヒエッ」
墓穴を掘り進める鴉取を無視して保健室に入ると、総司さんは「……君たちはもう寝る時間だろう」と僕を見た。
「僕は夜型なので大丈夫です。それより、もう白衣を祓ってしまうんですか?」
「危険度が低くとも、ここは子供の集う学び舎だ。何かあってからでは遅い。朝になる前に処理をするつもりだが……。何か支障があるのか?」
「もしよければ、先に見て欲しいものがあって」
総司さんに笑顔を向ける。
鴉取は気に入らないようだけど、カルタさんの顔で頼まれたら、総司さんも雛遊先生も断らないのはわかっていた。
そしてこれは、僕がやらなきゃいけないことだ。
笑顔の先で総司さんが頷いたのを確認して、僕は保健室のベッドから降りた。
✤
「痛っ! ここもダメやわ、やっぱさっきのところを右に行かんと」
「お前はぶつかる前に気付けないのか」
「やはり外で待っていてもらった方が良いんじゃないですか? 私たちは問題なく通れますし、彼に合わせていたら夜が明けますよ」
「そない冷たいこと言わんといてや。俺やって総司や坊っちゃんをこんなところに残して待っとられへんよ」
「そうですよ、みんな一緒じゃないと」
先導する僕が立っているのは、旧校舎だった。
目当ての場所はそんなに遠くないのだけれど、カルタさんが怪異祓いの印を刻んだ道を鴉取が通れないせいで、僕らは校内をぐるぐると巡り続けている。
「……君は問題なく通れるんですね」
「? 僕は普通の高校生ですよ」
「ああ、そうですよね……」
雛遊先生が疑わしそうな目で僕を見る。
ちなみに星蓮も通れないけど、彼は保健室のベッドで絶賛おやすみ中だ。
もっとも彼の場合は、印に気付かず押し通ってしまうことも多々あるので、僕と一緒に行動する上であまり不都合がなかったりする。
「それで、こんな時間に俺らをどこに連れて行く気なん……。俺はそもそも、総司を旧校舎に立ち入らせるのに反対なんやけど」
「おや、どうしてですか?」
「坊っちゃんもやよ。酒吞ちゃんはまだ二人に合わせる顔ないやろうし。……まあ正気が残っとれば、向こうが隠れてくれるやろうけど」
そういう意味では、僕も避けられているのだろうか。
旧校舎には何度か立ち入ったことがあるけれど、酒吞さんとは会ったことがない。
怪異の星蓮と、半ば無意識下で怪異狩りをしているらしい酒吞さんが鉢合わせたら、それこそ妖怪大戦争は避けられないだろうけれど。
「あ、つきました。ここですよ」
ようやく見えた扉は、懐かしの美術室。
僕が向日葵さんと出会った場所だ。
中央に置かれたイーゼルと椅子は、かつて向日葵さんの絵が掛けられていた場所。
カルタさんが大切にしていた夕暮れの時間に代わって、東の空から顔を覗かせた朝日が室内をうっそりと照らし出していく。
窓辺の朝露が光を反射して、古びた美術室が息を吹き返したように、きらきらと輝いて見えた。
「こんだけ遠回りさせといて、おもんないもん出してきたら頭からバリバリ食うたるからな」
「鴉取、聞こえているぞ」
「ヒィ……」
僕を脅かそうとする鴉取だったけど、総司さんに一喝されて萎縮する。
そんな二人を背後に、僕は美術室の奥で複数のキャンバスをイーゼルごと覆い隠していた長い布を引っ張った。
「カルタさんが放課後、この美術室に通い詰めて絵を描いてたことはご存知ですよね」
ばさりと音を立てて、埃っぽい布が落ちる。
中から出てきた絵は、日に焼けることも色褪せることもなく、当時の姿のまま彼らを迎えた。
——それは五枚の、油彩画の連作だった。
柔らかく色付く、満開の桜。
静かに寄り添う、小振りの白百合。
羽のような花を見せつける、黒紫のヒヤシンス。
水辺に波紋を広げる、しとやかな白蓮。
そして堂々と立つ、一本の橘の木。
丁寧に色を重ねる筆の跡と、水を弾くような瑞々しい花々は、キャンバスに向かって腕を振るっていた少女の姿をありありと思い起こさせる。
大好きなブランドで、自分の手にあった大きさの絵筆を握りしめて。
贈られた絵筆にその名が刻まれていることを、雛遊カルタは何よりも誇らしく思っていた。
その一員として、自分も役に立ちたかった。
父が率い、母が寄り添うその輪の中に、自分も一緒に肩を並べられる日を、ずっと夢見てやまなかった。
それになにより、向日葵さんは言っていたはずだ。
雛遊カルタは、好きなものしか描かないのだと……——。
それは、彼女にとって何よりも大切な存在。
口では悪しく言いつつも、認められることを諦められず、愛されることを捨てられなかった、大好きな家族の絵。
覚えのある筆跡に、総司さんが近寄って手を触れる。
そのキャンバスに描かれた橘は、一見すると他の四輪よりもどこか冷たい印象を受けた。
こちらに笑顔のような花を向ける他の絵と違って、橘はむこうを向いているから、その白い花の裏側と、緑の萼しか見えない。
僕は鴉取の話を聞くまで、これを「そっぽ向かれた」絵なのだと思っていたけれど……。
「ああ、これは総司やね……。怪異の前に立って人を守る、カルタ嬢ちゃんから見た総司の背中や」
鴉取の言葉に、総司さんが目元を押さえる。
堪えきれなかった一雫が、美術室の床に落ちて。
ずっと、ずっと張り詰めていた糸が、長い時を経てようやく撓んだのを感じた。
——タイトル、「雛遊」。
人と怪異の間に立ちはだかるその木が、本当は誰よりも繊細な花を咲かせることを、カルタさんは知っている。
五枚で一作の花々は、処分されてなるものかと向日葵さんが守り、この旧校舎が封鎖される所以となった曰く付きの絵。
それは世界でなによりも温かく、潰えぬ家族の愛情を描いた作品だった。