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【画集2弾発売中】幻想奇譚あやかし日記  作者: 惰眠ネロ
怪異アレルギーと保健室の怪談
102/113

第九夜┊二十四「血染めの白衣」

「……」

「……」


 全く会話の弾まへん食卓を囲んで、朝食に箸を伸ばす。

 だらしなく頬杖をついとる俺とは対照的に、もくもくと食事を進めとる総司そうじを眺めながら、「キレイな食べ方やなぁ」なんてぼんやりと現実から逃避しとった。


 かつてはカルタ嬢ちゃんや桜子さくらこのおかげで賑々しかった食卓も、今やすっかり人気ひとけを失って、俺と総司そうじの二人きり。

 酒吞しゅてんちゃんはもともと食事の場には出てこぉへんし、はじめ坊っちゃんは居心地の悪い雛遊ひなあそびを出て寮生になっとった。


「……蜜鬼みつきはどうしている」

「あー、まあ、しばらくはそっとしといたってや。こんなことになってもうて、アンタに合わせる顔がないんよ」


 きっとそのうち元気に、なんて言おうとして箸が止まる。

 俺が口にする「いつか」「そのうち」は、いつやって現実にはならへんかった。


 けど、ここで俺まで暗くなっとったら、それこそ食卓の空気が冷え切ってまう。

 俺は、浮かない顔で吸い物に口をつけとる総司そうじに「ほらほら、そない沈んだ顔しとらんとこっち見てみぃ。今ならこの俺を独り占めできるチャンスやよ」と両腕を広げた。


「他に人もおらんのやし、吐き出してもうたら? 俺が話聞いたるよ」

「お前と改まって何の話をしろと」

「色々や色々。アンタがその肩に背負っとる重たいものぜーんぶ、一回言葉にしてみぃ。少しは軽くなるかもしれへんよ」

「結構だ。何も話すことはない」


 カタン、と箸を置いて総司そうじが立ち上がる。いつの間にか、茶碗には米粒一つ残っとらんかった。


「え、ちょぉ待ってや、俺と話すのも嫌なん? このままじゃ、アンタ本当に壊れてまうよ」

「俺に配慮は必要ない」

「俺らがアンタに配慮せんで誰に配慮するんよ。……なぁ、待ってって。外ではともかく、家の中でまでそない気ぃ張らんでもええやん」

「……人が死ぬのはもう慣れた。お前たちが気にする必要はない」


 そういって後ろ手で障子を閉める総司そうじに、ぽつんと取り残される。

 

 あ、ダメや、とその時ようやく気が付いた。

 俺や酒吞しゅてんちゃんがこんな風に後悔しとったら、総司そうじはちっとも悲しまれへん。

 一番つらくて悲しいんは総司そうじやのに、俺らが気にせぇへんように、総司そうじが気を使ってしもうとる。

 俺らじゃ総司そうじを支えてあげられへん。支えてもらうばっかりや。

 総司そうじが心を許して、弱さを見せられたのは、桜子さくらこの前だけやったんや。


 桜子さくらこはそれをようわかっとった。

 だから、総司そうじが一人にならへんように俺に託したんや。


『あの人は確かに強いけれど、一人で戦えるほど強くはないのよ』

『ねえ鴉取アトリ。私がいなくなったら、総司そうじさんに綺麗な女の人を紹介してあげて。私の影をいつまでも追わなくていいように……——』


 桜子さくらこの言葉を思い出して、ぐっと拳を握りしめる。

 いまさら、総司そうじに怒られるくらいなんともなかった。


 俺は、総司そうじをからかった。

 花街に誘って、女を勧めた。

 茶化しながら、巫山戯ふざけながら、俺は本気やった。


 はよう総司そうじが泣ける場所を作らんと。心を許せる相手を見つけんと。

 総司そうじだって人や、限界がある。

 張り詰めとった糸が、今にもちぎれそうな細い糸が、ずっとずっと引き伸ばされ続けとるのを感じる。


 誰だって、家族や友人が死んだら悲しむもんや。

 やのに、人の上に立ち続ける総司そうじには、これまで一滴の涙も許されへんかった。


 このままじゃ、いつか総司そうじの心は壊れてまう。

 けど、俺らじゃ桜子さくらこの代わりになんてなれへんから。 

 俺がはよう、桜子さくらこの代わりを見つけてやらんと。


 ……それがどれだけ、総司そうじにとって疎ましい行為やったとしても。




 ✤




桜子さくらこの代わりなんておるわけない。総司そうじに余計な負担をかけんといてや」


 正気の時の酒吞しゅてんちゃんは、俺の行動を非難した。

 閉ざされた座敷の中には、空になった精神安定剤の瓶やシートが大量に散らばっとる。薬の切れた身体は動かんようで、酒吞しゅてんちゃんはろくに焦点も合わん目をこっちに向けた。


 その身体は自傷の痕跡だらけで、雑に巻かれた包帯からは血が滴っとる。

 大江山の酒呑童子しゅてんどうじが、ただの病弱な少女みたいになっとった。


「けどこのままやったら、総司そうじは一生自分の感情に蓋したままや。手遅れになる前に発露させたらんと」

総司そうじが新しい女の前で泣けるわけないやろ。世界をひっくり返したって、そんな女は見つからへんよ」

「そんなんわからんやろ。俺らが決め付けることやない。数を当たれば一人くらいは……」


鴉取アトリ」、と酒吞しゅてんちゃんの厳しい声が俺を呼ぶ。

 濁った瞳が嫌悪を隠さず、俺を真っ直ぐに見つめとった。


「そんなん詭弁きべんやって、自分でもわかっとるやろ。もう一度言うけど、総司そうじに余計な負担を掛けんといて」

「余計かどうかは……」

「ほんまに総司そうじのためを想うんやったら、あんたが全部壊したったらええ」

「全部って、なにを」

「全部や」


 ふふ、と酒吞しゅてんちゃんが笑う。

 ふらふらしながら立ち上がった酒吞しゅてんちゃんは、見たことない色の目をして、見たことない笑い方をしとった。


総司そうじより弱いやつがおるから、総司そうじは強くないといけないんやろ。——なら、みんな壊したったらええ。総司そうじより弱いやつがみぃんないなくなれば、総司そうじが守らなあかん人間が一人もいなくなれば、総司そうじはもう強がらんでええやろ」

「それこそ詭弁きべんやろ、無茶言わんといてや」

「無茶? 総司そうじ桜子さくらこ並に愛せる女を見つけるのと、うちらが世界を壊すのと、どっちが無茶やと思う?」


 酒吞しゅてんちゃんの目は、暗く、暗く濁って、もう何色だったかわからんかった。

 俺は、総司そうじより先に酒吞しゅてんちゃんが壊れてもうたんやと悟った。


鴉取アトリ、うちらならできるよ。みんな殺してしまお。檻紙おりがみはもうおらん。綾取あやとりも当主不在。あとはもう、集めて並べてき殺すだけや」

「なあ酒吞しゅてんちゃん、ちょっと疲れすぎとちゃう? 自分が何言うてるかよう分かってないんやわ。少し寝た方がええ」

「そうやって誤魔化ごまかすのは誰のためなん? うちらは総司そうじの式神や。総司そうじのためになることなら、何でもするべきと違うん? 鴉取アトリやって、そう思って女探ししとるんやろ?」

「そんなん総司そうじが喜ぶわけあらへんやろ。酒吞しゅてんちゃん、頼むから落ち着いてや。酒吞しゅてんちゃんまでそんなん言い出したら、俺の身が持たへんよ」

「持たへんくてもええよ。祓い屋も、怪異も、みぃんな殺してうちらも死んでしまえば、総司そうじはもう、なーんも気にしなくてええ……」


 ふふふ、と気味の悪い笑顔を貼り付けて、酒吞しゅてんちゃんが空を仰ぐ。その先に見とる未来は地獄絵図やった。


「先に怪異や。怪異を殺して、それから祓い屋を殺す。カルタ嬢ちゃんを殺した奴も見つけて絶対殺す。そうして全部殺したら、——あんたがうちを殺してや」


 約束やよ、と勝手に言い残して、酒吞しゅてんちゃんは「お仕事」に出掛けた。




 それからずっと、酒吞しゅてんちゃんはどこかで「お仕事」に励んどる。

 昼もなく、夜もなく。

 怪異を見つけては殺し続ける。

 たまーに正気に返っては、どっかで行き倒れて束の間の休息をとって、また起きたら殺し始める。


 ——街は随分と平和になった。

 零落れいらくした神だけは綾取あやとりの坊っちゃんが引き受けてくれとるけど、それ以外の怪異は概ね酒吞しゅてんちゃんが八つ裂きにした。

 怪異の姿が消え去って、街には清浄な空気が溢れるようになった。

 祓い屋たちはみんな、それが総司そうじの命令やと思って総司そうじを褒め称えた。


 総司そうじは何も言わんかった。

 他でもない酒吞しゅてんちゃんが、もう言葉すらも理解できなくなりつつある彼女自身が、はからずも総司そうじの名声を上げられたことを、誰よりも喜んどったから。



 俺は内心、酒吞しゅてんちゃんが本当に怪異を殺し切るんやないかと焦り始めた。

 酒吞しゅてんちゃんは必ず有言実行するやろう。怪異がいなくなれば、次は祓い屋の番や。


 俺がついぞ怪異を生み出す術まで調べ始めた頃、雛遊うちにも旧校舎の噂が聞こえてきた。


 ひとりでに湧く噂話。

 尽きない怪異の物語。


 酒吞しゅてんちゃんも噂話に誘われて旧校舎に向かったみたいやけど、湧き続ける噂話と怪異の数は、酒吞しゅてんちゃんの殺戮速度をも上回った。


 そもそも怪異のいる場所まで辿り着けへんのも、酒吞しゅてんちゃんが苦戦しとる理由の一つやった。


 俺らにとって、旧校舎は迷路みたいな場所や。

 護符の代わりに絵筆で刻まれた無数の印は、怪異にだけ効く「立ち入り禁止」。

 カルタ嬢ちゃんがこの旧校舎に通っとった頃、クラスメイトたちを守るために描いたものやろう。

 そのおかげで、俺らは目の前にある教室にも、気が遠くなるほど迂回せんと入れへん。

 もう右も左も分別のつかん酒吞しゅてんちゃんやったけど、どんなに面倒でもカルタ嬢ちゃんの残した印を壊すことだけはせえへんかった。


 そんなわけで酒吞しゅてんちゃんは、今でも旧校舎で「お仕事」に励んどる。



 ——本能のまま旧校舎を彷徨さまよう、怪異を殺す怪異。

 酒吞しゅてんちゃんもそのうち、旧校舎に蔓延はびこる噂話の一つにされるやろう。

 

 雛遊ひなあそびの名を背負う式神が、人をおびやかす存在になったらあかん。

 酒吞しゅてんちゃんやって、総司そうじの名を汚すくらいなら、死んだ方がマシなはずや。


 やから俺は月に一度、酒吞しゅてんちゃんを訪ねて質問を投げる。

 それに答えられへんようになったら、その時は……——。




 ✤




「……はい、お話終わり。ご清聴おおきに。満足しはった?」


 唐突に話が打ち切られて、僕らは顔を上げる。

 偶然通りかかるような時間でも場所でもないのに、なんで総司そうじさんに付いているはずの鴉取アトリが、こんな時間に学校にいたのか。

 特に気にせず流していた疑問に、話の末尾でこんな風に答え合わせされるなんて思ってもみなかった。


酒吞しゅてんさんを……、どうするつもりですか?」


 僕の言葉に、鴉取アトリは何も答えない。

 ただ少しだけ嫌そうな顔をして、「その顔で『酒吞しゅてんさん』とか言うのやめてくれへん?」とだけ口にした。


「こっちのことは気にせんでええよ。坊っちゃんらが知りたかったのは桜子さくらこ総司そうじの話やろ。最初に言うた通り二人は仲良しやし、だからって総司そうじは傾倒したりせぇへん。白衣の怪異もきちんと弔って、祓ってくれはるよ」


 鴉取アトリがわざとらしく肩をすくめる。

 語られた過去の重さに、雛遊ひなあそび先生はしばらく絶句していたけど、やがて「そうだったんですね……」と答えて目を伏せた。


「少し、父のことを誤解していたようです。実力はさておき、頭の固い人だとばかり思っていました」

「まあ坊っちゃんからしたら、具合悪いって言うとるのに無理やり稽古に連れ出したり、蔵に閉じ込めたりする理不尽な頑固親父にも見えたやろな」


 総司そうじがスパルタなのは擁護できへんけど、と鴉取アトリが付け足して苦笑する。

 

総司そうじは、坊っちゃんに強くなって欲しかっただけなんよ。どうしたって坊っちゃんより先に総司そうじの寿命が来るはずやし、来ないとアカン。嬢ちゃんのことは自分が守る気でおったから怪異から引き離したのに、まさか自分の子にすら先立たれるとは思わへんやろ」

「そうですね。私も父より先に死ぬつもりはさらさらありませんでしたが、先の話を聞いて身につまされました。うっかり死なないように気をつけます」

「ホンマに頼むで。嬢ちゃんに続いて坊っちゃんにまで先越されたら、それこそ総司そうじはもう立ち上がれんよ」


 鴉取アトリは手元のカーテンをめくって、すっかりけた窓の外に目を向けた。

 開かれた窓からは、冷たい夜の空気と一緒に、一羽のカラスがバタバタと忙しなく舞い込んでくる。

 その足に手紙がくくられていないことを確認すると、鴉取アトリはじっと眉をひそめた。


「父から返事が来なかったのですか?」

「ちゃうよ。これは返事がなかったんやのうて、『直接答える』っつー返事や」

「直接……?」


 羽休めにカラスを腕に止まらせると、鴉取アトリは首をかしげる雛遊ひなあそび先生を振り返る。


総司そうじと同じ代の祓い屋は、桜子さくらこ檻紙おりがみ綾取あやとりも、みーんな死んでもうた。生き残っとるのはもう総司そうじだけや」


 ——綾取あやとりの糸は切れ、檻紙おりがみは既に燃え尽きた。

 ——雛遊ひなあそびはいつもひとりぼっち。


 耳慣れた童唄わらしうたに、「憎まれっ子は世にはばかると言いますからね。私の代では少なくとも、綾取あやとりさんが長生きするでしょう」と雛遊ひなあそび先生は穏やかな顔を向けた。


雛遊ひなあそびが最後に残されるなら、私の寿命はそれよりさらに先になる。心配いりませんよ。……しかし、思ったより大長編で時間をとってしまいましたね」


 僕にもたれかかって寝息を立てている星蓮せいれんに視線を向けて、雛遊ひなあそび先生が微笑む。

 早寝早起きの健康優良児には、少し長話が過ぎたみたいだ。


「せやね。だらだら話しとる間に主役が到着してしもうたわ」

「——茶をれると言って出て行ったはずだが。湯を沸かすために保健室に寄るとは斬新な発想だ」

「嘘も方便やろ。俺やって出先でこんなんなるやなんて思わなかったんよ」

「それにしては、随分と無駄話に花を咲かせていたようだが」


 鴉取アトリから連絡を受けて来たのだろう。

 保健室の入口で、蹴破られた扉を見下ろして顔をしかめている総司そうじさんに、鴉取アトリが「ひえぇ」と頭を抱える。


「どっから聞いとったん……。お、俺はちゃんと断ったんよ。やのにそっちの子ぉがいたいけな俺を脅して……」

「ああ、そういえば結局、エントランスホールの件とは何だったんですか?」

「ヒエッ」


 墓穴を掘り進める鴉取アトリを無視して保健室に入ると、総司そうじさんは「……君たちはもう寝る時間だろう」と僕を見た。


「僕は夜型なので大丈夫です。それより、もう白衣を祓ってしまうんですか?」

「危険度が低くとも、ここは子供の集う学びだ。何かあってからでは遅い。朝になる前に処理をするつもりだが……。何か支障があるのか?」

「もしよければ、先に見て欲しいものがあって」


 総司そうじさんに笑顔を向ける。

 鴉取アトリは気に入らないようだけど、カルタさんの顔で頼まれたら、総司そうじさんも雛遊ひなあそび先生も断らないのはわかっていた。


 そしてこれは、僕がやらなきゃいけないことだ。


 笑顔の先で総司そうじさんが頷いたのを確認して、僕は保健室のベッドから降りた。




 ✤

 


 

「痛っ! ここもダメやわ、やっぱさっきのところを右に行かんと」

「お前はぶつかる前に気付けないのか」

「やはり外で待っていてもらった方が良いんじゃないですか? 私たちは問題なく通れますし、彼に合わせていたら夜が明けますよ」

「そない冷たいこと言わんといてや。俺やって総司そうじや坊っちゃんをこんなところに残して待っとられへんよ」

「そうですよ、みんな一緒じゃないと」


 先導する僕が立っているのは、旧校舎だった。

 目当ての場所はそんなに遠くないのだけれど、カルタさんが怪異祓いの印を刻んだ道を鴉取アトリが通れないせいで、僕らは校内をぐるぐると巡り続けている。


「……君は問題なく通れるんですね」

「? 僕は普通の高校生ですよ」

「ああ、そうですよね……」


 雛遊ひなあそび先生が疑わしそうな目で僕を見る。

 ちなみに星蓮せいれんも通れないけど、彼は保健室のベッドで絶賛おやすみ中だ。

 もっとも彼の場合は、印に気付かず押し通ってしまうことも多々あるので、僕と一緒に行動する上であまり不都合がなかったりする。


「それで、こんな時間に俺らをどこに連れて行く気なん……。俺はそもそも、総司そうじを旧校舎に立ち入らせるのに反対なんやけど」

「おや、どうしてですか?」

「坊っちゃんもやよ。酒吞しゅてんちゃんはまだ二人に合わせる顔ないやろうし。……まあ正気が残っとれば、向こうが隠れてくれるやろうけど」


 そういう意味では、僕も避けられているのだろうか。

 旧校舎には何度か立ち入ったことがあるけれど、酒吞しゅてんさんとは会ったことがない。

 怪異の星蓮せいれんと、半ば無意識下で怪異狩りをしているらしい酒吞しゅてんさんが鉢合わせたら、それこそ妖怪大戦争は避けられないだろうけれど。


「あ、つきました。ここですよ」


 ようやくまみえた扉は、懐かしの美術室。

 僕が向日葵ひまわりさんと出会った場所だ。

 中央に置かれたイーゼルと椅子は、かつて向日葵ひまわりさんの絵が掛けられていた場所。

 カルタさんが大切にしていた夕暮れの時間に代わって、東の空から顔を覗かせた朝日が室内をうっそりと照らし出していく。

 窓辺の朝露が光を反射して、古びた美術室が息を吹き返したように、きらきらと輝いて見えた。


「こんだけ遠回りさせといて、おもんないもん出してきたら頭からバリバリ食うたるからな」

鴉取アトリ、聞こえているぞ」

「ヒィ……」


 僕を脅かそうとする鴉取アトリだったけど、総司そうじさんに一喝されて萎縮する。

 そんな二人を背後に、僕は美術室の奥で複数のキャンバスをイーゼルごと覆い隠していた長い布を引っ張った。


「カルタさんが放課後、この美術室に通い詰めて絵を描いてたことはご存知ですよね」


 ばさりと音を立てて、埃っぽい布が落ちる。

 中から出てきた絵は、日に焼けることも色褪いろあせることもなく、当時の姿のまま彼らを迎えた。



 ——それは五枚の、油彩画の連作だった。

 

 柔らかく色付く、満開の桜。

 静かに寄り添う、小振りの白百合。

 羽のような花を見せつける、黒紫のヒヤシンス。

 水辺に波紋を広げる、しとやかな白蓮。

 そして堂々と立つ、一本のたちばなの木。


 丁寧に色を重ねる筆の跡と、水を弾くような瑞々しい花々は、キャンバスに向かって腕を振るっていた少女の姿をありありと思い起こさせる。

 大好きなブランドで、自分の手にあった大きさの絵筆を握りしめて。

 贈られた絵筆にその名が刻まれていることを、雛遊ひなあそびカルタは何よりも誇らしく思っていた。


 その一員として、自分も役に立ちたかった。

 父が率い、母が寄り添うその輪の中に、自分も一緒に肩を並べられる日を、ずっと夢見てやまなかった。


 それになにより、向日葵ひまわりさんは言っていたはずだ。

 雛遊ひなあそびカルタは、()()()()()()()()()()()のだと……——。


 それは、彼女にとって何よりも大切な存在。

 口ではしく言いつつも、認められることを諦められず、愛されることを捨てられなかった、大好きな家族の絵。



 覚えのある筆跡に、総司そうじさんが近寄って手を触れる。

 そのキャンバスに描かれたたちばなは、一見すると他の四輪よりもどこか冷たい印象を受けた。

 こちらに笑顔のような花を向ける他の絵と違って、たちばなはむこうを向いているから、その白い花の裏側と、緑のがくしか見えない。

 僕は鴉取アトリの話を聞くまで、これを「そっぽ向かれた」絵なのだと思っていたけれど……。



「ああ、これは総司そうじやね……。怪異の前に立って人を守る、カルタ嬢ちゃんから見た総司そうじの背中や」


 鴉取アトリの言葉に、総司そうじさんが目元を押さえる。

 堪えきれなかった一雫が、美術室の床に落ちて。


 ずっと、ずっと張り詰めていた糸が、長い時を経てようやくたわんだのを感じた。








 ——タイトル、「雛遊ひなあそび」。


 人と怪異の間に立ちはだかるその木が、本当は誰よりも繊細な花を咲かせることを、カルタさんは知っている。

 五枚で一作の花々は、処分されてなるものかと向日葵ひまわりさんが守り、この旧校舎が封鎖される所以ゆえんとなったいわく付きの絵。



 それは世界でなによりも温かく、ついえぬ家族の愛情を描いた作品だった。




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