第九夜┊二十三「血染めの白衣」
俺と酒吞ちゃんは死力を尽くして捜索したけど、カルタ嬢ちゃんの遺体はおろか、犯人の痕跡もついぞ見つからへんかった。
七日七晩、休むことなく捜索を続けた酒吞ちゃんがやっとのことで持ち帰ったのは、折れて半分になった羊の意匠の鍵と、雛遊の名が刻まれた一本の絵筆。
その細い筆先を赤黒く染めとるのが絵の具やないことに気付いて、さすがの総司も顔を覆った。
……どこかに閉じ込められたカルタ嬢ちゃんは、ひたすらに戦い続けた。
けどカルタ嬢ちゃんの気力よりも先に、絵の具が尽きた。
無くなった絵の具の代わりに、カルタ嬢ちゃんが何を使ったのか。どれだけ極限の状態で、迫りくる脅威に抗い続けたのか。
その遺品の状態だけで、察するに余りあった。
もしかしたらカルタ嬢ちゃんは、俺らが助けに来ると信じて、ずっと頑張ってくれとったんやないやろうか。
それなのに、俺らはまた間に合わなかったんやないやろうか……——。
そんな風に考え出したら、もうアカンかった。
酒吞ちゃんはそれ以来、総司の前に出られんようになってもうた。
自室に閉じ籠もった酒吞ちゃんに代わって、俺は総司と二人でカルタ嬢ちゃんの葬儀を手配した。
空の棺を焼く総司の横顔からは、何の表情も窺えん。
……両親が死んだ日と同じく、桜子が死んだ日と同じく。
娘が死んでもなお、心を揺らすことのない総司の姿に、周囲は「総帥様はなんて冷酷無残なお方だろうか」なんて言って震えとったけど、そんなはずがないことは、俺らが一番よくわかっとった。
✤
悪いことは一度起きると続くもんや。
それからほどなくして、檻紙の家が焼け落ちた。
檻紙家当主と使用人七十二名を巻き込んだ、凄惨な大火事やった。
出火の原因は最後までわからへんかったけど、襲君が、火をつけたのは自分やと名乗り出た。
俺も総司もそんなん嘘やって分かっとったけど、綾取はその言葉を重く受け止めた。
翌日、綾取家当主が首を吊って死んどったことを、俺らはいろはちゃんから報告された。
差し出された遺書には、息子の不始末と、檻紙に対する深い詫びが綴られとった。
立て続く不幸に、残された祓い屋たちは「土地神様の祟りだ」、「贄から逃れ続けた檻紙にとうとう罰が下されたんだ!」やなんて騒いで半狂乱になった。
そして、姿を現さん土地神の代わりに、その矛先は襲君に向けられた。
集団ヒステリーっちゅうのは怖いもんや。
年端もいかん子供があわや袋叩きにされるところやったけど、妹のいろはちゃんと、他でもない総司がそれを止めた。
「綾取は既に責任を取った。これ以上、子供一人を責め立てて何になる。此度の件は遺憾ではあるが、もう償うべき相手も居ない。これで手打ちにするべきだ。後のことは雛遊が対処しよう」
「亡き母、及び不肖の兄に代わり、私が綾取家当主代理を務めます。どうか今一度、綾取に汚名返上の機会をくださいませ」
それから総司は一人で怪異を受け持つようになり、いろはちゃんは地に額をこすりつけて、関係各所に頭を下げて回った。
当時十二歳やったいろはちゃんは、それから青春をかなぐり捨てて、当主代理としての雑務に追われた。
二人の尽力がなかったら、襲君はもうこの世におらへんかったやろう。
人の命は重い。濡れ衣であっても、自分が火をつけたと口にした以上、その責任は取らなあかん。
綾取は、襲君の代わりに自分の命で罪を贖った。
上に立つ者としては最悪の選択やったけど、総司やったら絶対にそんな選択はせぇへんかったやろうけど、それでも子の過ちを償うために、母としてできる最大にして最期の献身やった。
けど、身勝手な俺は思う。
せめて綾取が生きとってくれたら、総司の苦しみを分かち合ってくれる友人が一人でも生き残ってくれとったら、酒吞ちゃんと総司がここまで追い詰められることもなかったのに、と……。
✤
母と友人を兄の放火で失い、汚れた家名を一身に背負わされたいろはちゃんも可哀想ではあったけど、総司にのしかかったストレスと重圧はその比やなかった。
カルタ嬢ちゃんを亡くしたばかりの総司に、三家分の仕事と大火災の後処理は荷が重すぎる。
けど、総司が少しでも揺らいでみせたら、途端に周囲は不安になるやろう。
——御三家の総帥はいつやって、自分の感情に蓋をして、合理的な判断を迫られる。
対複数戦を受け持つ雛遊では、指揮する者の判断が遅れた分だけ、犠牲者の数が増える。
俺が桜子に何度も伝えたように、ここでは命に優先順位をつけて、その通りに動かなあかん。
それが、最大多数の最大幸福。
雛遊が掲げる、目指すべき平和の形や。
だからって、少数を切り捨てることに何の葛藤もないわけやない。人の命を切り捨てる責任の重さを、総司は嫌と言うほど分かっとる。
両親の命と村一つを天秤に掛けて、村を救うことを優先したあの日から……。
総司は昔から、よく出来た子ぉやった。
名の通り、総てを司るもの。
人々の上に立つ者として、どんな場面でも冷静な判断を下すよう、厳しく教育されてきた。
場合によっては、少数を切り捨ててでも、より多くの命を救うようにと。
そんな総司から両親を奪ったのは、名ばかりが有名な、ほんの小さな怪異やった。
——酒呑童子。
大江山に棲まう、毒と瘴気の幼鬼。
その鬼が歩む道の草花は枯れ果て、触れた水は猛毒に染まると云う。
酒吞ちゃんは、自分が水源を汚染しとることを知らんかった。
毒があるのは自分やなくて、大江山の方だと思い込んどった。
いつかこの荒廃した山にも草木が芽吹くようにと、酒吞ちゃんは木の実を拾っては土に埋め、手酌で甲斐甲斐しく水をやり続けた。
その行為が、川を汚し、土壌を蝕み、山を枯らせとるなんて思いもせず……。
そうして何も知らんまま、大江山を毒と瘴気で覆い尽くし、麓に住んどる人間たちは重い病に臥せった。
総司の両親が異変の知らせを受け、大江山に向かってから三日後。
まだ小さかった総司に、その日、二つの報せが同時に届けられた。
一つ。討伐隊を組んで大江山に入った雛遊夫妻の危篤。
一つ。山麓の村人たちからの急を要する救援要請。
どっちも半端な人数では到底対応できひん。
誰も何も言わへんかったけど、総司は選択を迫られとった。
火急の報せを受け取って、総司は一秒にも満たない時間、逡巡した。
……最大多数の、最大幸福。
そのために何を選び取り、何を切り捨てるべきか。
わずかな瞬間の内に、総司は両親の死に目にも会えへん覚悟を決めた。
「村の救援に全力を。綾取と檻紙にも急ぎ報せてくれ。一人でも多くを助けるようにと」
総司の選択によって、瀕死の村人達はかろうじて救援が間に合った。大人から子供まで、大勢の命が救われた。
数え切れんほどの人間が総司に感謝し、勇気ある決断を褒め称えた。
……その代わり、連絡の途絶えた討伐隊の足取りを追うのは、それから何日も先になった。
討伐隊を追って大江山に踏み入ったのは、綾取と総司、そして俺の三人だけやった。
檻紙は麓に残って治療に当たっとったし、経過した日数から考えても、討伐隊の人間が生き延びとる可能性はほぼゼロやったから。
そうして山を登った俺らを迎えたのが、酒吞ちゃんやった。
「ねんねんころりよ、おころりよ」
舌っ足らずな声で歌いながら、幼い鬼が膝に乗せた頭の髪を梳く。
その顔はすっかり真紫に染まって醜く腫れ上がっとったけど、見間違うはずもない。総司の母親の変わり果てた姿やった。
きっちりと結われとった髪はほどかれて、その隙間を長い爪が撫でていく。
酒吞ちゃんの爪がその肌をかすめるたびに、かすかな切り傷から焦げ付くような臭いがした。
周囲に散らばっとったのは、討伐隊の人間だけやない。
何匹もの巨大な鬼が、酒吞ちゃんを囲うように、その水源の周りで息絶えとった。
人間も、仲間も、見境なく死の淵に引きずり込みながら、酒吞ちゃんは無垢な笑顔を俺らに向けた。
「ああ、よかったね。やっとお迎えが来はったよ」
酒吞ちゃんはそう言って、膝の上の死体を揺り起こす。
毒に侵蝕され、腐りかけとった首がぐらぐらと揺れて、ごろりと地面に転がり落ちた。
酒吞ちゃんはそれを不思議そうに見つめたあと、「あんたも帰らんの? みんな、ここが好きやねぇ」と息を吐く。
「……なんて醜悪な」
眉をひそめ、「糸」に手を掛ける綾取を手で制して、総司は酒吞ちゃんに声を掛けた。
「その者は、お前に何か危害を加えたのか」
「何も。道の途中で倒れてはったから、お水を飲ませてあげただけやよ」
「周りにいる鬼はどうした」
「この人たちが具合悪そうやったから、丹薬を分けてちょうだいってみんなにお願いしたんよ。だけどみんな聞いてくれへんくて……。やっと一粒手に入れたのに、この人、自分で飲まずにお友達に送ってしもうたみたい」
なんでやろね、と酒吞ちゃんが小首をかしげる。
鬼の丹薬。一粒で万病を治す奇跡の霊薬。
それは金色の光を放ちながら、火急の知らせとともに総司の元へと届けられた。
そのたった一粒が、瀕死の危機から村を一つ救うことになる。
——最大多数の、最大幸福。
それを教えた総司の両親もまた、総司が村を選ぶことを信じて、その丹薬を手紙とともに総司に託した。
自分たちで飲んどれば、討伐隊はみんな助かったやろうに。
「……お前は、人の役に立ちたいと思ったことはあるか」
総司に投げ掛けられた問いを、酒吞ちゃんが緩慢な動作で反芻する。綾取の指の先で、琴糸がキチリと音を立てた。
ここで頷かへんかったら、酒吞ちゃんの首は即座に刎ねられとったやろう。
十秒近く熟考してから、酒吞ちゃんはこくりと首肯した。
「せやね。うち、役に立ちたい。誰かのお役に立てるんは嬉しいよ」
「ならば俺とともに来い。これまで喪わせてきた数以上に人を救え。それがお前にできる償いだ」
きっとその時の酒吞ちゃんはその言葉の意味を理解しとらんかったけど、おとなしく総司に付き従った。
純真無垢な幼鬼は、そうして総司に連れられて山を降りた。
両親の仇を連れ帰り、式神として迎え入れたことに恐れおののく奴も一人や二人やなかったけど、総司は一切を気にせえへんかった。
酒呑童子は役に立つ。
これから先、より多くの人を救うことにつながる。
今回出してしまった犠牲の分まで、未来の最大多数を助けるために。
やがて酒吞ちゃんが己の中に芽吹いた淡い恋心を自覚する頃、自分が総司にとってどんな存在なのかも思い知った。
やから酒吞ちゃんは、口が裂けても総司に好きやなんて言われへん。
その行き場のない愛と後悔は、総司の役に立つことでしか、もう贖われへんかった。
✤
「だからうちは、絶対に総司の役に立たないと駄目やったのに……ッ!」
ぼろぼろとこぼれた涙が、俺の肩に染み込んでいく。
悔しさと情けなさと、どうしようもない後悔に苛まれて、酒吞ちゃんは声を殺して嗚咽を上げた。
その髪を撫でてやることもできへんくて、行き場のない手が畳に転がる。
今の酒吞ちゃんは、慰めなんて求めとらん。
「なーんにも、うまくいかんもんやねぇ……」
俺に縋り付いて泣きじゃくる酒吞ちゃんの重みを受け止めながら、すべてを諦めて天井を眺める。
酒吞ちゃんの自室には、遥か昔に描かれたクレヨン画が、今でも大事に大事に飾られとった。