第九夜┊二十二「血染めの白衣」
慣れ親しんだ歩調で揺れる背中に、目を覚ます。
気付くと俺は総司に背負われて、雛遊の門の前に着いとった。
「起きたか」
「っ……うわ! 嘘やろ、あ、アンタに運ばせてもうたん!? だ、誰か人を呼んでくれりゃ良かったのに」
「お前一人くらい背負える」
憮然と返されたけどそういう話やない。
ラフに接してはいるものの、俺らはれっきとした主従関係。総司に背負われるくらいなら、酒吞ちゃんに放り投げられた方がまだマシや。
あんまり表には出しとらんけど、俺は酒吞ちゃんに負けず劣らず総司のことを神聖視しとる。
自分からダル絡みはしても、こんな風に総司から気安く触れられると動揺した。
「も、もうお嫁に行かれへん……」
「お前の恥の基準はよく判らんな」
あまりに居た堪れなくて下ろしてもらうと、総司が不思議そうに首をひねる。
たびたび抱えられるのを嫌がっとった桜子の気持ちが、今になってちょっとわかってもうた。
これでも俺は護衛を兼ねて総司に付いとるのに、俺が意識を失って担がれてるようじゃほんまにお荷物や。
御門君も、ああは言っとったけど結局俺を殺さへんかったらしい。まぁ、理由なく他家の式神に手ぇ出したら周りもいろいろとうるさいやろうし、俺を殺すメリットもないから妥当な判断やろう。
——御門君が海神を私利私欲のために喚び起こしたのは間違いない。
一度は殴ってやらんと気が済まへんけど、桜子の死因に弟が絡んどったかも、なんて、とても総司には報告できひんかった。
総司は御門君のことを未だに気に掛けとる。まして、嫁に迎えた女が身内の不祥事で命を落としたやなんて知ったら、総司はその責任を負おうとするやろう。
俺は『嫌疑不十分』とラベルを付けて、御門君から聞いた一切を胸にしまうことにした。
「檻紙とは話ついたん?」
「対話はできたが、実りがあったかどうかは怪しいな。娘を怪異だと思い込んでいるようだった」
「やっぱり心を患ってはるんかねぇ。檻紙の娘には会うた? えらい綺麗な子ぉやったけど」
「そうだな、……少し、桜子に似ていた」
総司がほんの僅かに頬を緩ませる。
それはちょぉーっと桜子の美化が過ぎるやろ、と思ったけど口にはせえへんかった。総司の目に映る桜子は、あれくらい綺麗やったのかもしれへんし。
桜子は檻紙の傍系やから、一応あの子と桜子は遠縁ながらも縁者ではあった。
「え、千鶴に会ったの?」
俺らの言葉を小耳に挟んでか、通りすがった肇坊っちゃんが目を丸くして俺らに駆け寄る。
「千鶴? あの子そんな名前なん? 出生届もまだ出されへんのやろ?」
「名前がないと不便だからって、襲が付けたんだ。檻紙さんに知られるとまた千鶴が叩かれるかもしれないから、内緒でだけど……」
「ちょお待ってや、坊っちゃんたちは檻紙に娘がおること知っとったん? いつから?」
俺の言葉に坊っちゃんは首を傾げて、「一昨年くらいかな」と答える。二年も幼馴染の存在を隠しとった子供らの仲良しネットワークに卒倒しそうやった。
「襲君もってことは、綾取も知っとったんか」
「一昨年、綾取さんが『みんなで七五三だから、こっそりお祝いしましょう』って千鶴を連れてきてくれたんだ。俺が七つで、いろはと襲が五つになる年だったから。……御門さんに聞いたら、あの時の千鶴は本当は三才じゃなくて四才だったみたいだけど」
坊っちゃんは指も折らずに、聞き及んだらしい生まれ年から千鶴ちゃんの歳を割り出す。
綾取すらも把握してない生年月日まで入手しとるんか。
恐るべし、子供ネットワーク。
「てことは、今日会うた千鶴ちゃんは六歳なんか。よう今まで隠しとったなぁ……」
「姉さんが、『千鶴と遊んだことは絶対に誰にも言ってはいけない』『バレたらひどいめに遭うのは千鶴だからね』、って……」
肇坊っちゃんはそこまで言って、俺の隣に総司が立っとることを思い出したらしく、慌てて自分の口に手を当てた。
総司の前でカルタ嬢ちゃんの話は禁句やと思っとるんやろう。
「やってさ。嬢ちゃんは賢いなぁ」
「そうだな、カルタの意を汲んで聞かなかったことにしよう。……だが、檻紙が日常的に娘に暴力をふるっているのであれば捨て置けない。肇、千鶴とは今でも頻繁に交流があるのか?」
「俺はあんまり……。千鶴が外に出られたら話しはするけど、俺は男だから檻紙邸に入れない。でも、いろはは毎日通ってるみたいだよ。あいつらは仲良しだから」
坊っちゃんは俺らの目を見て、しっかりとそう答える。
同年代の子らの中では一番純真に見えた坊っちゃんが、まさかこの上さらに嘘を塗り重ねとるやなんて、俺も総司も思わんかった。
坊っちゃんは、「いろはは毎日通ってる」と説明したけど、正確には綾取の双子が交互に「いろは」に成り替わって檻紙邸に通っとったことを、俺らは五年以上経ってから知ることになる。
綾取の双子の正義感は、最年少の幼馴染が暴力を振るわれとる現状を看過できひんかった。
双子がひっそりと食べ物や遊び道具を与え、難攻不落の檻紙邸からいずれ千鶴ちゃんを連れ出そうと画策しとるのを、肇坊っちゃんもこっそり手助けしとった。
この日、坊っちゃんが千鶴ちゃんの名と存在を明かしたのは、檻紙邸に出向いた俺らがどこまで知ったのかを探るためだったんやと、今ならわかる。
口を滑らせたようなあの仕草までもが、演技やったことも。
そしてそれらの善意の行動は、間もなくして千鶴ちゃんが座敷牢に閉じ込められてからも、屈することなく続けられた。
こうして、子供らのお遊びと切り捨てるにはあまりに長すぎる期間を経て、襲君はついに千鶴ちゃんを檻紙邸から連れ出すことに成功する。
——檻紙家当主と、使用人七十二名の焼死という、目を覆うような最悪の形で。
✤
檻紙邸が焼け落ちる、ほんの少し前のこと。
五年が経ち、桜子が亡くなってから十四回目の冬が来た。
十八になったカルタ嬢ちゃんにとっては、高校生最後の年や。
けど相変わらず、祓い屋をめざすカルタ嬢ちゃんと、それを許さへん総司との間では冷戦状態が続いとる。
総司は、学校帰りの嬢ちゃんが怪異を祓ったと聞くと烈火のごとく叱ったし、わずかでも褒められることを期待しとった嬢ちゃんの傷付いた顔を見るのは、俺らも辛かった。
カルタ嬢ちゃんは、総司が坊っちゃんばかりを可愛がって、嬢ちゃんのことには興味がないんやと思っとったけど、そんなことは断じてない。
二年後に迫った成人式に、総司は「もうそんな歳になるのか……。時が過ぎるのは早いな」と溜め息を吐いては、桜子の遺影の前で振り袖のカタログを広げて「あの子には何色が似合うだろうか」と毎晩のように悩んどるし、最高級の呉服屋にオーダーメイドの予約まで入れとる。
まだ二年も先やっちゅーのにこの有り様。
誕生日プレゼントに至っては、贈ったそばから来年のプレゼントを悩み始める程度には子煩悩や。
カルタ嬢ちゃんの油彩画が賞を取って飾られた日には、普段は一切口をつけん酒まで開けて、小さく載った地方紙の切り抜きの前で一人、祝杯をあげた。
そんなんやから、嬢ちゃんと衝突するたびに傷付いとるのは総司も同じで、「もうあなたと話すことはない」と嬢ちゃんに背を向けられた時なんて、俺は総司が腹を切るんやないかと一晩中ハラハラしとった。
祓い屋を継ぐことを反対され続け、高校生も終わりやっちゅーのに進路を決めかねたカルタ嬢ちゃんは、逃げるように美術室に閉じこもり、遅くまで残って絵を描き続けるようになった。
俺は総司とカルタ嬢ちゃんの両方を心配しとったけど、カルタ嬢ちゃんはいつの日からか、放課後の美術室で絵を描くことをえらい楽しみにするようになった。
久し振りに見る生き生きとしたカルタ嬢ちゃんの姿に、総司は大層喜んだ。嬢ちゃんが遅くまで絵を描き続けて、帰りが遅くなっても叱らんかった。
カルタ嬢ちゃんも、総司のことを心から嫌いになったわけやない。
嬢ちゃんが毎日嬉々として持ち運んどる絵筆もパレットも、総司がカルタ嬢ちゃんの誕生日に贈ったものや。
嬢ちゃんの好きなブランドで、嬢ちゃんの手に合った大きさで。
雛遊の名が刻まれたその絵筆を、嬢ちゃんは何よりも大切にしとった。
総司は嬢ちゃんたちの誕生日に、いつも必ずプレゼントを二つ贈る。
自分からの分と、桜子からの分を。
その絵筆とパレットで怪異を祓い、クラスメイトを助けたことを、カルタ嬢ちゃんは誰よりも総司に褒めて欲しかったんやろう。
助けたクラスメイトには罵倒されても、学校には居場所がなくとも、総司が一言「よくやったな」って言ってくれたら、きっとカルタ嬢ちゃんは救われた。
けど、カルタ嬢ちゃんが欲しがる、ありとあらゆるものを取り寄せても、総司はその言葉だけは贈らんかった。
総司が褒めたら、総司さえ認めたら、カルタ嬢ちゃんは祓い屋として生きていくことになる。
総司は、自分がいつまでも嬢ちゃんと坊っちゃんを守れるわけやないことを、いずれ自分が先に死ぬことを、誰よりも理解しとった。
——綾取の糸は切れ、檻紙はやがて燃え尽きる。
——雛遊はいつもひとりぼっち。
それは誰が言い出したのか、昔からある童唄。
雛遊の子はいつやって、一人遺される運命や。
総司も幼い頃、怪異に両親を殺されて、一人で全てを背負ってここまで来た子ぉやったから……。
俺はこのまま、カルタ嬢ちゃんが絵の道に進んでくれたらええのにな、と自分勝手に願っとった。
そんな冬のある日。
カルタ嬢ちゃんが、帰ってこなくなった。
最初はただの反抗期やと思って、俺はそんなに気にしとらんかった。
むしろ今まで一度の外泊もなく、夜にはきちんと雛遊に帰ってきとった方が奇跡やろう。
けど酒吞ちゃんは何かを感じ取ったようで、日が暮れて雪がちらつき始めると、辺りを手当たり次第に捜索し始めた。
「嬢ちゃんの気配がせぇへん。どこにもおらん……!」
「そない心配せんでも、明日には帰ってくるやろ。酒吞ちゃんも休んだ方がええんやないの」
「こんなんで眠れるわけないやろ。……うち、学校探してくる」
酒吞ちゃんが学校に向かうのを見送った時ですら、俺はまだ楽観視しとった。
難しい年頃やし、カルタ嬢ちゃんほどの実力があれば、俺らの追跡を撒くことなんて容易いやろう。
これでいなくなったのが坊っちゃんやったら俺も大騒ぎしたやろうけど、カルタ嬢ちゃんならそこらの怪異に襲われても遅れを取ることはあらへん。
相手が人間なら尚更や。
俺がそう言っていくら宥めても、酒吞ちゃんは聞かへんかった。
一月ほど前に行方不明になった綾取の傍系、小手鞠言葉君も、未だに見つかっとらんのやからって。
——雛遊の盤石なチーム戦は、お互いの命を預けることで初めて成立する。
俺らはお互いが生きてるか死んでるかは、なんとなく感覚でわかる。
カルタ嬢ちゃんは生きとる。
生きとるなら、自分の意志で帰らへんだけやろう。
俺はそう信じとった。
けど、カルタ嬢ちゃんは翌日も、その翌日も帰らんかった。
カルタ嬢ちゃんが失踪して、七日目の朝。
俺らは、カルタ嬢ちゃんの命が失われたことを悟った。
酒吞ちゃんがおかしくなったのも、その頃やった。