第二夜┊五「陸を泳ぐ魚」
街の上をいくらか泳いでいると、やがて彼は「大きなさかな、それ以上は行けないよ」と制止の言葉を口にする。
しかし俺に行けない場所などない。そして、クジラは急には止まれないのだ。
「だめだよ、それ以上進んじゃいけない」
「何故」
「とちがみさまに怒られるから」
幼子は確かにそう言って俺を引き留めたが、俺は止まらなかった。
言い訳になるが、当時の俺は前述したように、人の世の理というものに疎く、また自分より上位の存在についても無知であった。
怪異の世界は弱肉強食。往々にして図体の大きい者はそれだけで強い。
夜空を泳ぎ星屑を喰らう俺は、これまで脅威というものに対面したことがなかったのだ。
——ゆえにそれは、俺が初めて自分より上位の存在と対峙した瞬間であった。
その街の上空に差し掛かった時、角の先から崩れていく感覚があった。
喰われていくというよりも、己の存在が消失していく感覚。
土地神と呼ばれた「それ」は姿形を持たず、概念ともいうべき存在だった。
ともすれば、当時の俺よりは小さい存在だったのかもしれないが、怪異と神の違いというものを、不運にも俺はその場で痛感することとなった。
先も言ったが、一定を超えた大きな存在は、怪異であれ神であれ、積極的に動き回ることはしない。永年を生きる存在は、人からすれば眠っているようにも見えるほど、動く必要がないからだ。
しかし、その瞬間の土地神は確かに目を覚まし、そして自分の縄張りに侵入する不届き者を許しはしなかった。
「とちがみさまが怒ってるんだ。おりがみの家を燃やしたから」
折り紙の家とはなんのことだか、人と対峙することのない当時の俺にはわからなかった。
それが、少なくとも彼の生家の一つであったということを、俺は後になって知った。
「大きなさかなはここを渡りたい?」
崩れゆく俺に彼が問い、返事を待たずして「じゃあいいよ」と続けた。
何が良いのか。おまえの許可など必要ないと答える俺に、その幼子は表情を変えることなくこう告げた。
「僕がとちがみさまに食べられたら、とちがみさまは許してくれるよ」
その幼子はそう言って、俺の背から飛び降りた。
頭から真っ逆さまに、土地神とやらの口の中へと落ちていった。
俺が、この俺が、小さき者に庇われたのだ。
弱肉強食の世界で、俺を庇おうとするものなどいなかった。
ともすれば、こんな風に対等に語り掛けられることすらなかった。
俺は大きく、強かったから。
その瞬間、俺は生まれて初めて、焦燥を、怒りを、恐怖を知った。
動かぬ身体で踠き、暴れ、落ちゆく彼をなんとか口の中へ収めると、俺はその場から逃げ出した。
より大きいものに出会えば喰われるだけと諦め、それまでただ口を開けて揺蕩うだけだった俺が、小さき者の命を失うことを恐れて、初めて逃げ出したのだ。
そんな俺たちの背を追うように、土地神は告げた。
——檻紙の成り損ないよ。
——私は満腹ゆえ、今暫く時間をやろう。
——十八になったら戻られよ。それまでの命と契約いたせ。
「わかった」
口の中から、彼が答える。
俺は彼の、年齢に似つかわしくない物分かりの良さが恐ろしかった。
✤
がむしゃらに泳いで、逃げて、俺と彼は遠くの街へと降り立った。
距離など関係なく、彼が自分の命を擲ったから見逃されただけで、そうでなければ俺はとうに喰われていたであろうことは、想像に難くなかった。
「土地神が満腹で助かったな」
「とちがみさま、お母さんを食べたばっかりだから」
口の中から這い出しつつそう答えた彼に、俺はもう、何も言えなかった。
ただ、彼の前で星屑を食べるのはやめようと心に誓った。
縁とは、関わりを持つことで結ばれる。
俺と対話し、俺に触れ、俺の代わりに寿命を縛られた彼は、もう怪異と縁を結んでしまっていた。
俺のせいで十八までの命となってしまった彼は、しかし少しも気にした様子もなく「大きなさかな、もう行っちゃうの?」と俺を見上げる。
無論俺は、彼を置いてそのまま逃げるようなことは出来なかった。
俺と対等に語らってくれた、初めての人間。
俺を守ろうとしてくれた、初めての人間。
助け合い、支え合えることを「友人」だというのなら、俺は彼の友人になりたい。
守られるばかりでなく、今度は彼を守れるように。
——俺たちの世界は弱肉強食。
弱ければ喰われて終わり。強いものは喰ってより大きくなる。とてもシンプルで、合理的な世界。
図体の大きいやつは、それだけで強さの証明になる。
ならば彼が十八になるまでに、俺がもっと喰って、もっと強く、もっと大きくなればいい。
あの土地神を喰ってしまえるほどに。
もしそれが果たせなかったなら、その時は彼と一緒に喰われよう。
彼が繋いでくれた命なら、彼のそばで使いたい。
星空をたゆたうのをやめて、陸を泳ごう。
彼の隣人として、等しく最期の時を迎えるために。
優雅な鰭を切り落とし、ともに陸を歩く足を。
人を惑わす歌声を封じ、ともに語らい合える言葉を。
六千年の記憶を手放し、この地に居るに足る証明を。
人間に焦がれ、陸に上がる者のことを、おまえたちは人魚と呼ぶのだろう?
「せいれん?」
舌っ足らずで不出来な復唱に、俺は自分の輪郭を失いながらゆったりと笑った。
——ああ、星蓮でいいよ。
おまえがそう呼んでくれるなら。
✤
穏やかな寝息を立てている彼を、そっとベッドに横たえる。
正面の絵画の中では、女が心配そうに彼を覗き込んでいた。
「心配ない。朝になったら起きてくるさ」
絵画にそう告げてやれば、女は安堵したように胸を撫で下ろす。
……俺のみならず、彼にはどうも怪異を惹きつける性質があった。
この調子では、この部屋が怪異博物館になるのも、そう遠い未来ではなさそうだ。
「人魚は受けた恩は忘れないが、意外と執念深いんだぞ」
だから目移りはほどほどにな。
眠る彼にそう笑いかけて、ふと机の上に放置されたノートが目に入る。
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◯月✕日。
今日は、旧校舎で顔のない女に出会った。……——。
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開かれたままの日記帳には、先日の出来事が綴られていた。
怪異についての日記だろうか。
勝手に見るのは悪いと思い、彼の上に掛布を乗せると、俺はそそくさと部屋を後にした。
そんな俺の背後で、風の悪戯がぱらぱらと頁をさかのぼって、薄い日記帳の一枚目まで辿り着く。
開かれた頁には、クレヨンで書かれた、太くて歪な文字が踊っていた。
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◯月✕日。
おおきなさかなが、そらをおよいでた。
きらきらしていて、とてもきれいだった。
ほしをたべないでというと、おおきなさかなは、もうたべないといってくれた。
おおきなさかなは、すごくじゅみょうがながいらしい。
もし、ほんとうにしなないなら、
ぼくといっしょにいてもしなないなら、
いつか、おおきなさかなと、おともだちになれますように……——。
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