第一夜┊一「顔のない女」
この世には、人ならざる者が其処彼処に潜んでいる。
他人に見えないそれらは、僕が視えていることを知れば語り掛け、惑わせようとするだろう。
だから僕は耳を塞ぎ、口を結び、膝を抱えてうずくまるのだ。
ふと焼け付くような熱さを覚えて、忌々しさに辟易する。
視えるだけでも厄介なのに、そのうえ僕のこの《体質》。
がりがりと左腕を掻きむしりながら、僕は今日も、ひとりぼっちの空き教室で息を殺す。
僕は、怪異アレルギーなのだ。
「ねえねえ聞いた? 旧校舎の《顔無し女》」
「なんでも夜の旧校舎では」
「顔無し女が何かを探して」
「夜な夜な徘徊してるんだって」
「異様な寒気と不気味な姿に」
「もし逃げ遅れてしまったら」
「今度はあなたが顔無しに!」
「「ああ、恐ろしや恐ろしや」」
そんな噂が僕の耳にまで届いたのは、始業式からさほど経っていない、春盛りの午後だった。
既にクラスではいくつかのグループが出来上がっていて、見事にそのいずれにも入り損ねた僕は、ゆるやかにお一人様ライフを満喫している。
もっとも、ここはある程度名の知れた私立校であったから、クラスメイトたちも心なしか上品でおっとりした雰囲気を漂わせており、今のところ陰湿なイジメとは縁のない毎日だ。
彼らは露骨に僕を疎外することもなく、どころか休憩時間のたびに、入れ替わり立ち替わり誰かしらがひとりぼっちの僕に気を遣って声をかけてくれている。
それらの好意を無下にし続けているのは僕の方で、なぜかと問われれば言わずもがな、彼らには視えていないからだ。
窓に張り付いてこちらを覗き込んでくる無数の目玉を持った化け物や、黒板消しの上を走っていく三本の尾を持ったネズミたちが。
今のところ、ちょっと左手が痒いくらいで害はないが、奴らがいつ襲い掛かってくるとも限らない。心優しいクラスメイトたちの前でうっかり悲鳴を上げたりすることがないように、僕は休憩時間を迎えるたびに教室から逃げ出しては、空き教室に閉じこもって膝を抱えていた。
しかしそんな日々も長くは続かず、優しさからか心配からか、ついには僕を追って空き教室まで探しにくる奴が現れてしまった。
「ああ、またこんなところにいたのか」
カラカラと音を立てて引き戸をスライドさせながら、包帯だらけの男が顔を覗かせる。彼はクラスメイト兼、二人一部屋が割り当てられた寮室のルームメイトでもあった。
椅子があるのに床に座り込んで膝を抱えている僕に何を尋ねるわけでもなく、彼は同じように隣に座ると「腹減ってない?」と串焼きのようなものを差し出してきた。
牛串のようなそれは年頃の男子高校生ならば垂涎ものだろうが、怪異アレルギーのせいか食欲がわかず「ごめん……、その、お腹が痛くて」と子供じみた言い訳をする。
そんな俺の様子に気分を害する様子もなく、「そっか、気が変わったら言ってくれよ」と彼は屋台でよく見る透明なプラスチック容器にその串肉を戻して、僕の前に置いた。
本当にいいやつだ。
僕が食事にありつけていないことを悟ってか、ここ数日はこうして、昼休みのたびに僕を探しては昼食を持ってきてくれる。
初日はステーキのような大きな塊肉だったのだが、どうやら同じような言葉で遠慮した僕を見て、食べにくかったから断られたのだと思い込んだらしい。
昨日はスライスしたものにタレが掛けられており、今日は串焼きになっていた。
決して安くはないだろうに、懲りずに毎日こうして美味しそうな肉料理を持ってきてくれる彼を見ていると、いい加減断るのが申し訳なくなってくる。
ここまでくれば昼休みに空き教室で彼とともに食事をするくらい、断る理由もないはずなのだが。しかしどうにも、食欲というものが沸かなかった。
「あの、ごめん……。本当は嬉しいんだ。毎日こうして話しかけてくれてありがとう。だけど、どうしても具合が悪くて……。申し訳ないから、明日からは僕のことは気にせず、クラスのみんなと過ごしてくれないか」
「ん? なんだ、迷惑じゃないなら良かった。俺が好きでやってるだけだから気にするなよ」
彼は持参した串焼きの片方に齧り付きながら、少しの衒いもない顔で笑う。
その頬には分厚いガーゼが貼り付けられていて、僕は思わず眉をひそめた。以前から妙に怪我の多いやつではあったが、段々と数を増やしていくガーゼや包帯に、さすがに少し不安になってくる。
人懐っこい彼はクラス内外を問わず人気があるようだし、あの穏やかなクラスに限っていじめられているなんてことはないだろうが、それでも寮生の彼が部屋で怪我をしたわけではないのなら、必然その怪我は校内で負っていることになる。
声をかけるべきか否か悩んだけれど、僕の聞かれたくないことに踏み込まずにいてくれる彼に倣って、僕も口を閉ざして窓の外を見上げた。
彼もしばらく並んで空を眺めていたが、僕が手を付けないことを知ってか、もう一本の串焼きも頬張りはじめる。
「君はどうして……、僕に、こんなに良くしてくれるんだ?」
僕の問いに、彼は不思議そうに首をかしげながら口の中のものを咀嚼する。
口の端についた胡椒を追って、ちらりと彼の赤い舌が覗いた。
「なんでって……、別に、俺がおまえと一緒にいたいだけだよ。折角ルームメイトになれたのに、おまえあんまり寮室に帰ってこないし」
「ご、ごめん……」
「ああ悪い、別に怒ってるわけじゃない。……おまえにも、きっと色々あるよな」
彼は鷹揚に頷いて、ミディアムレアに焼かれた最後のひとかけらを飲み込む。
僕が寮室に帰らないのは、怪異に追い回されているうちに門限をまわってしまったり、入り口にずっと図体の大きなやつがいて、寮に戻れなかったりするからなのだが。
どう説明したものかと悩む間もなく、彼は疑問を引っ込めてくれる。
彼の隣は、嘘をつかなければいけない回数が少なくて、居心地がよかった。
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