一進一退
黒く濁った血液が蜘蛛の巣を巡らせるかのように地面の至る所に染みを作っていた。
…酷い臭いだ。
背後から迫りくる銛の一突きを左腕に装着した盾でもって弾き飛ばす。
水面に叩きつけられた銛はバシャリと水飛沫を上げ、続けて薙ぎ払った直剣がその持ち主の首を吹き飛ばした。
それから俺は暫しの間、漁をするようにして次々に襲い掛かってくるサハギン共の猛攻をひたすらに凌いでいた。
サハギンとは即ち魚類の特徴を持った亜人種である。
故にその戦い方は陸上では精彩を欠き、その水掻きの生えた手は水中を除いた殆どの場面に於いて、小回りも利かなければ器用さも持ち合わせてはいない。
そのため俺はこの乱戦の中でも比較的落ち着いてサハギンの攻撃を捌き続けることが出来ていた。
「どれだけ居るんだコイツら…!」
しかし、終わりの見えない乱戦は確実に俺の体力を蝕んでいく。
四方から繰り出される銛の連撃は、次第に俺の身体を捉えるようになってきている。
捌き切れずに銛が掠めた箇所から徐々に血が滲んでいくのを感じながら、俺は歯噛みした。
「何をしている!まだか!?」
堪えきれずに叫び声を上げる。
その怒声は橋上の冒険者に向けられて放たれたものだ。
奴は戦闘が始まってからというもの、橋の上から動こうとしない。
あの外見から少なくとも前衛職ではない事を大前提に考え、仮に後衛職であっても何かしらの援護が出来るだろうと思っていたが……どうやら見込み違いだったらしい。
待った。
待ち続けた。
銛の先端が首の薄皮を掠め取るその時も。
知覚出来なかった河川からの奇襲も。
足元に穿たれた銛の一撃が水中に没するその瞬間も。
冒険者はただ静かにそこに佇み、俺がサハギン共を一匹残らず片付ける瞬間を待ち続けた。
そして漸くサハギンの群れが半分程に減った頃になって奴は動き始めたのだ。
もう手遅れかもしれないが、奴と組むのはこれきりにしておこう。
そう心に決めると同時に、俺はサハギンからの攻撃を弾き返したその流れで大上段から振り下ろした剣でサハギンの頭蓋をかち割った。
『瞬雷は戯れに咀嚼する神々の意思を模倣し、其が己が身へと降ろし奉る。』
初めて聞いた奴の声。
それは感情の一切を排した、淡々とした声だった。
『我が意に応えよ。』
次に紡がれる歌によって周囲を取り囲んでいた一切の魔物は、一瞬の内に墨汁で塗り固められたような黒い炭へとその姿を変貌させた。
『──雷閃』
そして、俺の視界が白く染まる。
「遅かったじゃないか」
橋から降りてきた冒険者に開口一番にそう告げる。
「…配慮した」
配慮、ねぇ。
確かに奴の唱えた雷撃魔法は集団戦に於いての殲滅力は凄まじい、その代わり味方にも甚大な損害を及ぼす類の魔法であることは想像に難くない。
渦中の俺に被害が及ぶ可能性を鑑みての事なのだろう。
しかし、万が一なんて言葉は刻一刻と変化し続ける状況下では十全の意味を果たす事など決してない。
首元に手を当てると、ぬるりという感触と共に鋭い痛みが脳内を刺激した。
間一髪ってところか…
まぁいい、ここで無駄な言い争いをした所で何の利益も生まないのは明白だ。
この冒険者に対する不平不満を胸の内に留めて置くことにした。
「それにしても何故こんな所にサハギンの群れがいたのだろうか」
ずっと疑問に思っていた事を口に出す。
女王の不在、統率の取れない群れ、突如出現した理由。
偶然と言うには重なった点が多く、必然と言うにはあまりにも乱雑とした状況。
「この川の上流には街が並んでいる」
……?
だからなんだと言うのか。
野生の動物と同じく、土地開発によって住み拠を追われたのだとでも言いたいのか。
しかし奴等は魔物であって動物ではない。
人間に害を成す敵性生物である。
仮に街中で巣作りでもしていれば、ただの一匹すら目撃しないということは有り得ないだろう。
蜚蠊の姿を一匹でも見ようものなら百匹は居てもおかしくはない、と言うように人間は深層に息づく知覚出来ない恐怖に対しての自己防衛本能が根付いている。
…待て、俺は今何を思った。
意図しない空想が偶然にも俺の脳裏に一抹の不安を過ぎらせる。
たった一匹の不快な外見を有する害虫から連想される共通点。
「下水か…!」
「…うぁっ」
俺が呟いた言葉に冒険者が肩を跳ね上げさせた。
次いでそのフードの奥に僅かに見えた口元が忌々しげに歪められる。
「何…が…」
言うが早いか、冒険者の左肩が異様な速さで隆起する。
「くそっ!まだ生きてる奴が……ッ!」
肩口から現れたのは既に死に絶えたと思われた筈のサハギンの得物だった。
その銛の先端は冒険者の左肩に深々と突き刺さっており、激しく上下する肩口に合わせて赤黒い血液が零れている。
背後には河川の内で好機を見計らっていたのだろう、小柄なサハギンが銛を冒険者へと突き立てた姿勢で息を荒くしていた。
そのサハギンは今まさに止めを刺さんと再び銛に力を込めた。
「馬鹿が…」
それを見過ごせる程、俺は非道ではない。
冒険者に銛を突き立てている両腕を切り落とす。
切り口から夥しい量の血液が溢れ出すが、それでもまだ息絶えるには至らないらしい。
怯んだサハギンを袈裟斬りに叩き伏せたところで漸くその生命活動を停止させたようだった。
「酷い出血だな、見せてみろ」
肩口の銛を引き抜こうと冒険者に触れるが、どうやら事態は想定していたよりも最悪の方向へ傾いていたようだ。
銛の先端には細かな返しが付いており、無理に引き抜けば失血によって命を落とす事も考えられる。
それに下水を漂ってきた物を体内に埋め込むなど、ともすれば感染症を引き起こす可能性も考慮しなければならない。
その時、コツンと衣服に仕舞いこんでいた何かが手の甲に当たる。
ガラス瓶。
オーヘンデックが机に置いたあの治癒水だ。
これがあれば一先ずは外傷を癒す事が出来る。解毒作用なんてものは到底含まれていないだろうが、治療院へ行けば肌の外からでも患部を癒すことが出来るだろう。
これは僥倖だ。
俺はすぐさま冒険者をその場に横たえると、銛の持ち手部を切断する。
「下手に引き抜いて傷を広げるくらいなら、押し込んでやった方がまだ良い」
幸いにも骨まで食い込んでいるという訳ではなさそうだ。
勿論、それなりの苦痛を味わうことにはなるだろうが…
「行くぞ」
冒険者は痛みに堪えながらも小さく頷いた。