婚約破棄は証人と共に
読んでいただいてありがとうございます。こんな婚約破棄はいかがでしょうか。2024年2月21日より続きの話の連載を開始しました。そちらもよろしくお願いします。
ルーチェリエは目の前の男の宣言を微笑んで聞いた。
「ルーチェリエ・エウロペー、お前との婚約を破棄する!!」
長年の婚約者であったジャン・ブロワ伯爵子息の言葉が夜会の会場に響いた。ジャンは騎士団に所属している男でルーチェリエとは同じ年齢の25歳。本来ならそろそろ結婚していてもおかしくないのだが、諸事情で結婚が延びていた結果、この夜会で彼は無事に婚約破棄の言葉を響かせてくれた。
もちろんルーチェリエはこの婚約破棄に大賛成だったので反論する気も彼にすがる気も一切ない。
なので、彼女の答えは至極簡単だった。
「はい。婚約破棄、承りました」
「いいか!お前は俺の……え?」
演説をなおも続けようとしたジャンがあっけにとられた顔をしていたのをルーチェリエは不思議に思った。
なぜ、自分から婚約破棄を叫びながら、そんな不思議そうな顔をするのか、と。
婚約破棄がすんなり通ったのならむしろ喜ばしいのではないのだろうか。もめることもないし、すがることもしない。そんな婚約破棄は叫んだ男の側からすれば理想的な展開なのでは。
ちらりと周りを見れば、煌びやかな夜会服を身に纏った貴族の方々が、ある人は面白そうに、ある人は気の毒そうにと様々な表情でこちらを見ていた。その中で見知った顔を見つけたのでルーチェリエは声をかけた。
「まぁ、ヴァルディア侯爵夫妻、良い処に。ここで私とジャン・ブロワ様の証人となって下さいませ」
ルーチェリエが声をかけたヴァルディア侯爵夫妻は、王国でも広大な領地を有し、数々の事業を展開しているルーチェリエの古い友人夫妻だった。下位の爵位の者から高位の爵位の者に声をかけてはいけない、などと言うルールはこの際、無視しよう。元々夫婦そろって仲の良い、というか学生時代からの友人なので先ほど挨拶もすでに済ませている。
ここで会った以上、巻き込んで逃がしてなるものか、という微笑みにヴァルディア侯爵が苦笑した。
「いいだろう。レオンハルト・ヴァルディアの名において証人になろう」
「よろしくお願いいたしますわ。では、私、ルーチェリエ・エウロペーとジャン・ブロワ様の婚約はたった今、ジャン様の宣言により破棄されました。今後、いついかなる時も私がジャン・ブロワ様、及びそのご一族に関わることは一切いたしません。今ここに神に誓って誓約いたします」
「誓約、しかと聞き届けた。ジャン・ブロワ殿、聞いての通り、ルーチェリエ・エウロペー嬢は今後一切、君たち一族に関わらないという誓約を立て、証人としてレオンハルト・ヴァルディアが聞き届けた。このことについて不満、不備がある場合はすみやかに証人である私に届け出をしてくれ。もちろん、君が今この場で宣言したルーチェリエ嬢との婚約破棄についても私が、というか今この場にいる全員が証人になる資格があるな」
ヴァルディア侯爵レオンハルト・ヴァルディアがそう宣言をしたことで、周りで聞いていた貴族たちがくすくすと笑い出した。
たとえこの婚約破棄騒動が家を通さないジャン・ブロワ個人の勝手な思惑で行われたことだとしても、こうして侯爵が証人になってしまった以上、もう覆すことは出来ない。さらにルーチェリエ・エウロペーは今後一切関わらないという誓約までしたのだ。
貴族ならば誰もが誓約の重さを知っている。誓いは守らなければならない。そうでなければその家、もしくはその個人が信頼を失うからだ。だからこそ貴族は滅多に誓約という言葉は発しない。そしてその誓約の証人ともなれば誓約が履行されたかどうかの裁定者にもなり、その誓約についてのもめ事が起きた場合の仲介者ともなる。つまり、今回の婚約破棄騒動に不満があるのならヴァルディア侯爵にどうぞ、という状態が出来上がったのだ。そうなってしまうので誓約の証人になることを嫌がる貴族も多い。
今回の場合はルーチェリエ・エウロペーの後ろ盾にヴァルディア侯爵がなった、という構図になる。エウロペー家は子爵家、対してブロワ家は伯爵家なので、爵位の差で伯爵家が良いようにしないように伯爵家より爵位が上で国内でも有数の貴族であるヴァルディア侯爵家が仲介になった、今この場にいる貴族たち全員がそう解釈をした。
「…い、いや。その侯爵、そういうつもりでは…」
「ほう、ではどういうつもりだ?この様な華やかな夜会の場で大きな声で婚約破棄を叫んだんだ。今更無かったことには出来んぞ。それにルーチェリエ嬢はお前の宣言に応えてこれから先一切ブロワ伯爵家に関わらないという誓約までしてくれたんだ。お前はルーチェリエ嬢から解放されて好きなように生きることが出来るんだぞ」
レオンハルト・ヴァルディアの言葉に容赦というものは一切なかった。ジャン・ブロワに良いように聞こえるが実際には、ルーチェリエ・エウロペーに二度と関わるなという忠告だ。
周りの貴族たちの反応は真っ二つに分かれた。
たかが子爵令嬢と婚約破棄しただけだろう、というグループとエウロペー子爵家のことを詳しく知っているからこそ、娘が二度と関わらないと言った以上、あの家との縁を無くして今後一切関わらないという誓約まで受けた伯爵家との付き合いを考え直そうというグループ。貴族同士の情報戦というものが展開されていたのだが、肝心のジャン・ブロワはそのことを分かっていないようだった。
「何事だ?」
人混みが割れてそこから出てきたのは体格の良いいかにも騎士といった風情の男性だった。
「レオンハルト、これは何事だ?」
「はい、殿下。たった今、この場にてジャン・ブロワ伯爵令息がルーチェリエ・エウロペー子爵令嬢に婚約破棄の宣言をし、それにエウロペー子爵令嬢が破棄の承認をして今後一切、エウロペー子爵令嬢とブロワ伯爵家との交流を絶つとの誓約をいたしました。私はその証人となったところでございます」
騎士団の総長でもある王弟ランディオール・イージスは、ほう、という面白そうな声を上げた。
「なるほどな。貴族の誓約とはまた面白そうな場面に立ち会ったものだ。そうだな、ではその誓約に俺も乗ろう。ジャン・ブロワ、ルーチェリエ・エウロペー、双方ともに今のレオンハルト・ヴァルディアの言葉に相違はないか?」
「はい。ございません」
「………はい……」
ルーチェリエはにこやかに、ジャンは死にそうな顔色で返事をした。
「そうか。ではランディオール・イージスの名に於いて証人となろう。双方とも今後この件に関しては、レオンハルト・ヴァルディア、もしくは俺に申し出るように」
まさかの王弟の証人宣言に夜会の出席者はざわざわとした。
「お待ち下さい、殿下」
「どうした?ワーグナー公爵夫人」
ランディオールの前にすっと出てきたのはこの夜会の主催者であるワーグナー公爵の妻であるココ・ワーグナー公爵夫人だった。彼女は先王の妹、つまりランディオールからすれば叔母に当たる人物だった。
「殿下、殿下とヴァルディア侯爵、それにジャン・ブロワ伯爵令息、皆、男性ばかりですわ。女性には女性にしか分かち合えない悩みというものもございます。ですから、わたくし、ココ・ワーグナーも証人に名を連ねましょう。エウロペー子爵令嬢、遠慮無くわたくしに相談にいらっしゃい」
ココ・ワーグナー公爵夫人の言葉にルーチェリエは深く頭を下げた。
「まったく、こんな可愛らしい令嬢にこのような場で婚約破棄をするなんて。許しがたいですわ」
その言葉にジャン・ブロワはますます顔色を悪くしたのだが、ワーグナー公爵家主催のこの場で婚約破棄を宣言したのは間違いなくジャン・ブロワからなので、何も言い返せなかった。それに婚約破棄宣言をしてからすぐにこの女がいかに非道な人物なのかと言うことをまくし立てようとしたのだが、思った以上にルーチェリエの反応が早くておまけに誓約まで持ち出してヴァルディア侯爵を巻き込んだ。それによってジャンは何も言い出せなくなり、今この構図だけ見るとジャンが一方的に婚約破棄を宣言した非道な男となっていた。
さすがにまずいと思ったのだが、王弟殿下とワーグナー公爵夫人までも出てきてしまったので下手な言葉はさらに言えなくなったのだ。
「ではブロワ伯爵令息、今すぐこの場から出て行ってくださいませ。我が家主催の夜会でこのような劇を披露する方に用はございませんので」
ココ・ワーグナーにそう言われてジャン・ブロワは顔を青ざめさせながら出て行った。ジャンがいつも連んでいる友人たちも若干青い顔をしながらこそこそと会場の隅へと消えて行った。
「皆様、少しばかりハプニングがございましたが今後このようなことがないようにいたしますので、どうぞ引き続きお楽しみくださいませ」
王家の姫君でもあった公爵夫人ににっこり微笑まれてそう言われては他の客は何も言えず、再び夜会は華やかな音楽に包まれていった。
「皆様、申し訳ございませんでした。私とブロワ伯爵令息のことに巻き込んでしまいまして」
ルーチェリエが謝ったが、誰もが気にするなというような顔をした。むしろ、面白いものを見た、という感じだろうか。
「ルーチェ、大丈夫?」
心配そうな声をかけてきたのはレオンハルトの妻のエセルドレーダだ。
「ええ、ご主人を巻き込んでごめんね、リセ」
「いいのよ、レオンでよければいくらでも巻き込んでちょうだい。ルーチェにはたくさんお世話になったし」
レオンハルトと妻のリセことエセルドレーダは、まぁ色々とあって夫婦でありながら散々すれ違ってようやく最近想いが通じ合ったばかりだ。学生時代からこの夫婦に関わってきたルーチェリエは今までエセルドレーダの愚痴に付き合ったり何だかんだとずっと付き合ってきた。
「王弟殿下、公爵夫人、お2人にもご迷惑をおかけして大変申し訳なく思っております」
「いいのよ。ある意味おもしろい劇だったわ。昔から思っていたのだけれど、どうしてあの手の劇をする人間は主役は俺で、何もかも自分の思い通りに行くと思っているのかしら。相手の令嬢が思いもかけない行動をすると、とてもうろたえていて楽しいわね」
公爵夫人がおほほほほと笑った。いつの時代もあの手の劇をやる人間は現れるらしい。
「これからの時代、令嬢たちも一方的に言われるだけではなくてああやって反撃していかないとね」
大変ご機嫌な様子で笑いながら、公爵夫人は夫の元へと戻って行った。
「王弟殿下、ありがとうございました」
「いい、俺もあの手の輩には少し思うところがあっただけだ。エウロペー子爵令嬢に何の落ち度もないのならば、令嬢が下を向いているいわれはないからな。ところであいつは何故、婚約破棄をしたかったんだ?」
「下らない賭けです。ご友人方と「俺の婚約者は俺に惚れきっているから大勢の前で婚約破棄をしたら泣いてすがる」と豪語したらしく、本当に泣いてすがるかどうか賭けをなさったそうですよ。嘘偽りを並べ立てて糾弾し、私が泣いてすがれば婚約破棄することもなく他の貴族の方々からも痴話げんか的な感じで見られて何事もなく終わらせてくれるだろうと思っていたみたいです。本当に下らない」
ルーチェリエは侮蔑を込めた冷め切った目で言い切った。
「ルーチェ、どうやってそのことを知ったの?」
「バカバカしい話だけど、あの人たちが計画立ててたのって私が経営する酒場なのよ。一言一句もらすことなく報告が上がってきたわ」
ルーチェリエ・エウロペー子爵令嬢、知る人ぞ知る商人。
数多くのお店を手がける王都随一の商売人。
多くの人間が彼女の父親が商売を成功させたと勘違いしているが、父親はお飾りで実際にはルーチェリエこそエウロペー子爵家が手がける全ての商売を仕切っている経営者だ。もちろん名義も全てルーチェリエのものになっている。
婚約は父親同士が幼い頃に整えたものでそこに本人たちの意思は関わっていなかった。
仕事が楽しくて仕方のなかったルーチェリエが全く結婚する気配のないジャンをちょうど良いと思ってそのまま放置していただけだ。
この婚約破棄で困るのはルーチェリエではなくてブロア伯爵家の方だ。
今まで婚約者の実家という特権をいかしてルーチェリエの経営するお店で幾度となく無茶を要求してきたがもう付き合う気はない。
経営者であるルーチェリエが家ごと『二度と関わらない』と誓約した以上、ジャンやその家族がいつも利用している酒場も高級なお店も出入り禁止だ。
「そうか。ところでエウロペー子爵令嬢はフリーになったということだな」
「そうですね。すっきりしましたわ」
これで明日からの商売にも気合いが入るというもの。何せ下らないジャンの計画を知ってから、どうしてやろうかと考えていたので、そんなムダな時間ももう終了だ。
「ふむ、では近々デートの誘いをするので、その時は時間を空けてほしい」
「……はぁ?」
「ではな」
王弟殿下は言うだけ言ってさっさと人混みの中に紛れて行ってしまった。
「えらいのに目を付けられたな、ま、手伝えることがあったら言ってくれ」
「ルーチェ、あの方、多分本気よ。……がんばって?」
「待って!意味分かんない。リセはなんで疑問形なのよ!え?何をがんばればいいの?」
婚約破棄してすっきりしたと思っていたのにまた新たな頭痛の種がルーチェリエに突き刺さった瞬間だった。