第3章 桜舞町の少年たち(Ⅵ)
第3章 桜舞町の少年たち(Ⅵ)
駄菓子屋に入っていった出っ歯の少年は、馬場たちのいじめが原因で桜舞小から桜舞第二小に転校した布川雄介だった。あだ名はゲボフラッシャー。
布川は4年生のある冬の日、給食で揚げパンを2つもおかわりして満腹になってしまったのだ。その日の5時間目は体育だった。おまけにマラソン大会を直前に控えていたから、マラソンの練習でその日の体育は校舎の周りを3周みんなで走ったのだった。
寒い中、半袖短パンの体操着で走らされて、クラスのみんなは文句を言っていた。給食を食べ過ぎてしまった布川は気持ちが悪いのを我慢しながら走っていた。数歩走るごとにどんどん気分が悪くなる。あんなに食べるんじゃなかった、と布川は後悔していた。ペースの遅い布川を周りがどんどん追い越していく。2週目の終わりに差し掛かった頃には限界だった。うぷっ、おえっ。
なんとか吐き気を堪えるが、美味しかった揚げパンと牛乳と野菜スープの風味をはらんだげっぷが布川の口の中に広がった。その途端に布川は足元に給食をぶちまけた。食べる前は沢山砂糖のついたほかほかだった揚げパンの変わり果てた姿。やる気も無くクラスの最後尾を適当に走っていた馬場とピーとスカンクが布川に追いつく。
「うわぁ、布川が吐いてる!」
馬場が叫んだ。
「きったねえ!えんがちょっ」
はやし立てるピー。
「ニッヒッヒッヒッヒッヒッヒッ」
苦しむ布川を見て下品な裏声で爆笑するスカンク。
「吐くならもっと吐けっ、ゲボフラッシャーッ!!」
馬場が悪意のこもった笑みを浮かべて怒鳴った。担任の先生が駆けつけるまで3人は布川をいびり続けた。
布川雄介はおばあちゃんがくれた千円のお小遣いを大事そうに握り締めて、都川の川岸のそばの家を出た。ルンルン気分の春休み。学校が無いなんて最高だ。いつもいじめてくる奴らや使い走りにしてくる奴らと会わなくていいからだ。というか、もう小学校を卒業したから二度と会うことはない。布川にとって小学校生活は散々だった。1年生から4年生までは桜舞小学校で毎日のようにいじめられた。休み時間に教室の床に倒され、その上に何人もがのしかかってきたり、訳もなく突然ひっぱたかれたり、机にうんこの絵を描かれたり、旧校舎のトイレの汚い個室にランドセルを隠されたり。おまけにみんなからはゲジゲジ眉毛や両津勘吉などと呼ばれていた。いじめてくる奴らの中で一番悪質で嫌な奴だった馬場に掃除の時間に雑巾を口の中に入れられたときは本当に参った。
それに4年生のときに給食を食べ過ぎて、5時間目の体育の授業のマラソンで吐いてしまったときにゲボフラッシャーというあだ名をつけられた。
その夜、もう嫌で嫌で学校なんか行きたくないとお母さんにすがりついて泣いた。幸いなことにすぐに転校をさせてもらえることになった。そして、桜舞第二小に通うことになった。これでいじめから解放されるのだ、と希望を抱いて新しい学校へ。だが、桜舞第二小へ行っても、布川はまたいじめに会ってしまう。転入初日からクラスメイトに出っ歯のネズミ男と言われた。悪夢は終わらなかった。
何はともあれ、さあ、お小遣いで何を買おうか。布川がとりあえず向かった先はどどん屋だった。石ころを蹴りながら国道51号線を歩いた。通りの先の遠くのほうに千葉都市モノレールが小倉台方面に走っていくのが見えた。どどん屋の前に3人の同い年くらいの連中がたむろっていたが、特に気に留めずに店の中へ入った。店頭に置かれた小さなカゴを取り、色んな駄菓子を見て迷いながらポテトフライを2つとガブリチュウとプチプリンとビッグカツをその中に入れた。それからコーラキャンディを3つ取ってカゴに入れた。布川は家に帰ってゆっくり駄菓子を頬張りながらゲームをやることを考えていた。
どどん屋のおばちゃんにお金を払った後、コーラキャンディを1つ開けた。小さな袋の内側に“50円当たり”と書かれていた。なんてツイてるんだ。布川はおばちゃんにそれを見せると、スーパービッグチョコを1つもらった。布川は更にルンルン気分になった。沢山駄菓子の入った袋を提げて、どどん屋の入口の戸を開けて外に出た。
「よう、ゲボフラッシャー」
駄菓子屋から出てきた布川に馬場が声をかけた。立ち止まり、怯えた草食動物のように恐る恐る馬場とピーとスカンクのほうに振り向く布川。ゲジゲジ眉毛で出っ歯のいじめられっ子に歩み寄る3人の柄の悪いガキ。
「なんだよ、お前ら」
声を震わせながら言う布川。馬場はいじめる標的を見つけて口の左側の口角を上げ、ニヤリとしながら彼に近づく。
馬場は左手で布川の後頸部を掴み、ピーとスカンクは布川が抵抗できないように腕や肩を押さえた。
「いてぇよ、放せよ」
弱々しい声を上げる布川。
3人は布川を引っ張り、国道から住宅地に入り、一軒の古びた家の庭に入った。獣臭が漂う草ぼうぼうの庭。奥の犬小屋から毛がぼさぼさの茶色い雑種犬が出てきて、何事だ?と言わんばかりに飼い主と他の少年たちのほうをじっと見ている。
「よう、シンケン(真犬)」
馬場が布川を捕まえたまま飼い犬に言った。そう、そこは馬場の家の庭だった。
数年前に孤独死した近所の意地悪で有名だった爺さんが飼っていた犬が一匹で家に取り残された。腹が減ったその雄犬はとうとう、生ゴミを路上に捨てたりメガホンで大声を上げたりしていた迷惑爺さんの死体を食い始めた。肉を貪り食われて迷惑爺さんが骨だけになってしまうと、犬は家を脱出し、その近所の家の庭で飼われていた雌犬と交尾をしてしまったのだ。雌犬は4匹も子犬を生んでしまった。そのうちの1匹を馬場家が引き取ったのだった。責任を持って面倒を見ると言い張った息子の真が自分の名前を犬につけたのだ。
嫌がる布川に馬場が無理やり煙草をくわえさせようとする。
「やめてよ!」
そう声を上げる布川。
「ほら、さっさと煙草くわえろよ」
ピーがそう言い、布川の腹を殴りつける。
「ぐはっ、いってぇな」
半泣きになる布川。仕方なく煙草をくわえる布川。その途端、スカンクが携帯電話のカメラを向けてきて、煙草をくわえている布川の写真を撮った。
「ニヒヒヒヒッ」
笑いながら馬場とピーにその写真を見せるスカンク。
「いけねえんだぁ、こいつ煙草吸ってるぞ。チクろうぜ」
そう言いながら布川の頬をぺちぺち叩くピー。
「がっはっはっはっは!悪い奴だなぁ」
大声で笑う馬場。
まるで飼い主が笑っているのを見て喜んでいるかのように尻尾を振って、その周りをわんわん吠えながら走り回るシンケン。
散々いじめた挙句、3人は布川を担いで近くのゴミ捨て場に投げ捨てた。
泣きながらうずくまる布川。馬場は彼が持っていた駄菓子屋の袋からポテトフライとガブリチュウを取り上げた。スカンクがまた尻に右手を当て、ぶぼっ、ととてつもなく大きな屁をこいた。そして右手を布川の顔に押し付ける。
「おえっ、げほっげほっ」
あまりの臭さに吐きそうになる布川。その様子を見て腹を抱えて笑う馬場とピー。
「やべっ、実も出ちったみたいだ」
スカンクが尻を押さえたまま言った。
「てめぇ、きたねーんだよ!」
馬場が笑いながら怒鳴り、スカンクから逃げた。
「パンツ取り換えるまでこっち来んな!」
ピーもそう言い、スカンクから遠ざかる。
「おい、ちょっと待ってくれよ」
2人を追うスカンク。
いじめっ子連中は去っていったが、布川はしばらくそこで泣き続けた。後を追ってきた馬場の愛犬に吠えられながら。