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全て投げ捨てて愛してる〜完結編〜

作者:

ちょうど秋になり黄色くなった銀杏並木の真ん中にあるカフェ「berry」。

その店は私の大学から自宅までの帰り道にあって、私菅野久美をいつでも迎えてくれるようだった。夕方になると優しい灯りが店内からあふれて、余計にそう思う。小さな白を基調としたおしゃれなカフェだ。だから今日も私は、落ち着いた色の木に金があしらわれたその扉を開けてしまう。


「いらっしゃいませ、菅野さん!」


そんな私に笑顔を見せてくれたのは、このカフェの店長さんである上田さんだ。男性らしい低い声が店内に響いた。

白いシャツの上に真っ黒なエプロンを着た上田さんは、カフェのちょうど入り口の近くのテーブルで接客をしていたようですぐに私に気が付いてくれた。

いつものようにくしゃっとした笑顔に、思わず私の胸がぎゅっと音を立てるようだった。この人は、私がひそかに片思いをしている人だ。


「いつもの窓際のテーブル、空いてますよ?あ!今日もカフェラテでいいですか?」

「ふふ、お願いします」


よく通うからだけれど、私の希望を知っている上田さんに私は自然と笑顔になった。


「かしこまりました」


そう言って上田さんは白くて丸いテーブルの席に座った私に、黒い短髪の頭を下げた。そして注文を伝えるために、私に背を向けて歩き出す。

その背中を見て、不意に上田さんとのこれまでを私は思い出した。

初めてここに来た時は雨が沢山降っていて上田さんが心配してくれたとか、大学のレポートを追い込みでカフェでやっていたら上田さんも他の店員さんも励ましてくれたとか、上田さんが独身と知った時は嬉しかったとか…。

気が付いたら私は上田さんに惹かれていて、いつの間にかここには店内が空いていて上田さんと話せる夕方によく来るようになっていた。


「でも…」


私はあえてそれだけぽつりと口に出してつぶやいた。もちろん誰にも聞かれていない。聞いているのは、テーブルぐらいだ。

そう、でもわかっている。上田さんにとって私は「お客」だ。それ以上の関係にはなれないだろう。ましてや上田さんはこのカフェの店長だ。お客さんから告白されたら、迷惑なだけに決まっている。


「どうしたんですか?難しい顔をして?」


気が付いたら上田さんが、カフェラテが乗った銀の丸いトレイを持ってすぐそばにいた。


「あ!」


驚いた私は変な声を出してしまって、次の瞬間恥ずかしくて仕方がなくなる。


「はい、いつものカフェラテ。ガムシロップたっぷりです」


そんな私には気にせず上田さんはそう言って、カフェラテが入ったグラスとガムシロップが入った小さなピッチャーをテーブルに置いた。私が甘党だと知っているから、ガムシロップは欠かさず一緒に持ってきてくれる。


「上田さん…」


私は深い意味もなく、上田さんの名前を呼んだ。


「はい?」


上田さんは不思議そうに私を見た。漆黒の瞳が輝いて見えるのは、恋の魔法だろうか?


「な、なんでもありません。いただきます」


私はそう言って、ごまかすようにカフェラテにガムシロップを入れた。でも恋は本当に不思議だと思う。見ているだけで幸せな気持ちになるのだ。こんな毎日が続けば、私はそれでよかったのだ。



「やっぱり、久美は上田さんが大好きなんだね」


翌日、大学の教室でさやかが頬杖を机につきながらそう言った。

さやかは大学入学してすぐ意気投合して、あっという間に呼び捨てで呼び合う親友になった。

ショートヘアが似合う彼女は、いつも私に的確なアドバイスをくれる。上田さんへの気持ちを実感してすぐに私がとった行動も、さやかに報告することだった。


「そりゃだって、優しいしかっこいいし…」

「でもそんなにかっこいいならモテそうだけど…」

「う…!」


さやかがもっともなことを言って、私は言葉に詰まってしまう。


「もう出会って半年だっけ?そろそろ彼女いるか聞いてもいいんじゃない?」

「でも上田さん、自分の話はあまりしないし…」

「じゃあ告白だ!」

「なんでそうなるのよ」


いきなりきっぱりと言ったさやかに私は笑った。


「久美の過去は知っているけれど、やっと久しぶりに好きになった人でしょ?他の女性にとられていいの?」

「それは…」


さやかの更に言う正しいことに、もう一度私は何と言ったらいいのかわからなくなった。

私は高校時代、とても好きな人がいて告白をしたのだ。しかし結果は「好きな人がいる」という答え。それから二年、大学受験もあり全く恋愛をしていない。

上田さんはそんな私に、もう一度恋心を教えてくれた。でもまた振られたら?と怖い。私が上田さんを見ているだけなのは、そういう理由もある。

そう考え事をしていたら、今日最初の授業が始まった。



数日後、その日は日曜日で雨だった。この日の出来事を私はずっと忘れないだろうと後から思う。

私は特にすることがなく家でカフェラテを飲んでいた。berryに通うようになってから、家でも作ってみるようにしている。まだコーヒーとミルクを混ぜるだけだけど。


「上田さん…」


ソファに座りながらカフェラテを飲んで自然と彼の名前が出た私は、どうしようもなく惚れているようだ。そんなことを考えながら、ザーと外から聞こえる雨音を聞いていた時だった。


~♪


不意に近くのテーブルに置いてあるスマホが鳴った。見てみるとさやかから電話だった。


「もしもし?」

『久美?大変だよ!』


電話越しにもさやかが慌てているのがわかり、私は嫌な予感がした。それだけで私の鼓動が早くなる。


「どうしたの?」

『今berryの前にいるんだけど、このお店来年三月で閉店だって…』

「え?」


私はそれ以上の声が出なかった。次の瞬間にはスマホだけを持って、上着を着て外に飛び出していた。



「あ、久美!」


雨は小降りになったけれど、傘を差しながら私はberryまで走った。息が切れてきた頃berryの看板が見えて、お店の前でさやかが待っていてくれた。


「これ…」


さやかが指さした方向には確かに「閉店のお知らせ」と書かれてあった。


「そんな…」


私の口からはそれしか出なかった。berryの閉店は私にとって幸せな日々の終わりと同じだった。しばらく呆然と傘をさしたまま、さやかと無言でその張り紙を見ていた。


「ありがとうございました!あれ?二人とも…」


その時ドアを開けたお客さんを見送ろうとした上田さんが、私達に気が付いたようだった。


「上田さん…」

「あの、ここ閉店って本当ですか?」


うまく聞けない私を察してくれたのか、さやかが代わりに聞いてくれた。それを聞いて上田さんは困ったような顔になった。眉間にしわが寄っている。


「ああ…そうなんだ」

「上田さんはどうなるんですか?」


そう聞いた自分の声は不安の色でいっぱいだったけれど、ごまかすことはできなかった。


「私はT県でまた店長をしますよ」

「そんな遠くに行っちゃうんですか?」


右隣にいたさやかも驚いた。T県はここから新幹線じゃないと行けない距離だった。


「あ…」


上田さんが短く声を出したけれど、私はそんな上田さんに背を向けるしかなかった。これ以上悲しんだら、気持ちがばれてしまいそうで怖かったのだ。


「またお待ちしております」


背中から上田さんの変わらない優しい声が聞こえて、さやかが会釈をした。でもあまりにも突然すぎてショックで、結局そのまま私とさやかはberryを離れた。


「…やっぱり告白してみなよ?」


berryから少し離れた交差点で信号待ちをしている時、沈黙を破ったのはさやかだった。


「でも…」


雨で湿ったアスファルトを見ながら、私はそれしか言えなかった。

自分の気持ちがぐちゃぐちゃになってわからなかった。こんなに好きになった上田さんに想いを伝えたい気持ちと、それが怖い気持ちと同じぐらいあって、ぐるぐると心の中で渦をまいているようだった。



そんな気持ちを抱えたまま、季節はあっという間に過ぎていった。

黄色一色だったberryの前の銀杏並木はあっという間に葉っぱが落ちて、かわりにイルミネーションが飾られた。その風景を見て、何度も考えた私は冬の終わりには気持ちを決めていた。

大好きな上田さんに迷惑はかけたくない。告げられない恋もあるのだ。

そして三月、berryの閉店の日がやって来た。その日はさやかと一緒にberryに行った。


「こんにちは」

「いらっしゃい。お待ちしておりました」


いつも通りにしたかったのに私も上田さんも、ちょっと声や態度がぎこちない。これが私達にとって最後の挨拶になるだろう。


「えっと…」


後ろにいたさやかが戸惑った声を出した。「それでいいの?」と言っているような声だった。


「どうぞ」


そんなさやかには気にせず上田さんはいつもの窓際の席に私達を案内してくれた。店内は最後の日だからかいつもより混んでいるのに、そこだけが空いていた。


「ここは菅野さんの特別席ですよ」


そう言って上田さんが「予約席」と書かれた札を手に取った。


「上田さん…」


予約なんかしていないのに、上田さんは席をとっていてくれた。それがたまらなく嬉しくて、泣きそうになるのを必死にこらえて席に着いた。


「私には両想いに見えるのにな…」


厨房にいる店員さんに「カフェラテ二つ」と伝えに行った上田さんの背中を見ながらさやかが言った。さやかには何度も私の気持ちを話していて、納得したようだったがやっぱりもったいないと顔に書いているようだ。


「まさか。上田さんのサービスだよ」


でも私は首を横に振った。

しばらくすると上田さんがトレイを持ってやって来た。


「お待たせしました」


カシャ!


上田さんが私達の席の横に着くと、さやかが持っていたスマホからシャッター音がした。


「え?」

「記念だよ」


ニヤッと笑ったさやかはきっと、ここに来る前からそれを計画していたのだろう。満足そうな顔を見て私はそう思った。


「えっと…」

「どうせならちゃんと撮ってくださいよ?」


突然の親友の行動に私が戸惑っていると、上田さんは驚いたことにそう言って私の隣に立った。


「え?!」

「お!いいね!じゃあもう一枚」


すぐ近くに上田さんがいて、もう私の心臓は壊れそうだったがさやかは嬉しそうにもう一度スマホのシャッターを押した。


「ありがとうございます」

「いいえ、私も嬉しいですよ」


そう言って上田さんはカフェラテを置いてお店の奥に戻っていった。


「もう幸せそうだなー」


さやかは本当に嬉しそうに、今撮った写真を見せてきた。確かに写真の私は幸せそうに笑っていた。


「さやか、ありがとう。あとで送ってね?ん?」


そう言ってから私はカフェラテを飲もうとして、あることに気が付いた。


「どうしたの?」

「このコースター、何か書いてある…」


いつもと同じ使い捨ての真っ白な紙のコースターに、何か文字のようなものが書かれているのに私は気が付いた。


『菅野さんへ

今夜、閉店時間にまたこちらに来ていただけますか?

上田』


コースターにはそう書かれていた。上田さんの書いた字は見たことがなかったが、彼だとわかるくらいその字は大人っぽく綺麗だった。


「え?これって…」

「絶対愛の告白だよ!」


興奮したさやかの声は少し大きくなって、周りの席にいた人が何人かこちらを見るぐらいだった。私は慌てて上田さんがいる方を見たが、姿が見えずおそらくさやかの声は聞こえなかったようで安心した。


「そういう、ことなのかな…?」

「え?だってほかに何かある?」

「…ないかもしれない」


さやかのもっともな指摘に、私の頬が熱を帯びていくようだった。

それからしばらく店内にいても、他の店員さんに感謝を伝えられてお店を出ても私はどこか上の空だった。ちなみにコースターは大切にバッグにしまった。お店を出る時は忙しかったのか上田さんの顔は見えなかったけれど…どんな気持ちであのメッセージを書いたのだろう。


「幸せな報告、待っているね?」


そう言ってさやかは手を振って、私とは反対方向の自分の家に歩き始めた。



ひとまず私は自宅に帰った。berryの閉店時間は夜八時。それまで私は夕食を食べても、明日の準備をしてもソワソワと落ち着きがなかった。そしてberryに再び着いたのは、ちょうど閉店時間ぴったりだった。


「お待ちしておりました、菅野さん」


お店の扉を私が開けようとしたら、上田さんが待っていたのか開けてくれた。いつもの笑顔はなく真剣な表情だった。店内に上田さん以外の店員さんはいなくて、いつも流れているBGMも止まって怖いくらいに静かだった。


「えっと…」

「こちらに」


上田さんが歩いて行ったのはいつもの席。そこにはいつものカフェラテとチョコレートケーキが置いてあった。


「よかったら召し上がってください。私の感謝の気持ちです」


そう言って上田さんは向かいの席に座った。客席に上田さんが座ったのを私は初めて見た。


「あ、ありがとうございます」


このために?と思いながら私は上着を脱いで席に座った。


「…菅野さん」

「はい?」


とりあえずガムシロップをカフェラテにいれながら私は上田さんの次の言葉を待った。


「好きですよ」

「え?」


ガムシロップがなくなったピッチャーを置く私の手が震えた。一瞬、聞き間違いかと思った。


「今、なんて…」

「何度でも言います、菅野さん。あなたが好きなんです」

「上田さん…」


やっと笑った上田さんの顔がゆがんで見えた。私が嬉しくて泣いているのだとわかるのに数秒かかった。


「あ…」


慌てて私は涙をこすった。そして自分の気持ちも言わないとと思った。今なら言える。


「私も上田さんが好きです、でも言ったら迷惑だと思って…」

「迷惑なんかじゃないですよ」


上田さんの座っている椅子が動いた音がした数秒後、涙をぬぐうのに必死だった私は上田さんに抱きしめられていた。


「上田さん…!」


本当にそれが嬉しくて、あとからあとから私の涙は流れた。私はそれをぬぐうのはやめて上田さんの背中に自分の手を回した。ずっと夢に見ていた上田さんの抱擁は、温かくて幸せな気持ちで私をいっぱいにしてくれた。


「berryにいたら菅野さんとはずっとお客です。でも私はそれは嫌なんです。だから私はT県には行きません」

「え?」


驚いて私はすぐ近くにある綺麗な上田さんの顔を見た。


「どうして?」

「berryは辞めます」

「でもそうしたら…」


上田さんは私の次の質問がわかったように、穏やかな顔でうなずいた。


「仕事を…全てを失っても貴方を想っているんです」

「上田さん…」


そこまでしてくれた上田さんが嬉しくて愛しくて、涙でぐちゃぐちゃになりながら私は笑った。


「久美さん」


そんな私に上田さんは初めて名前で呼んでくれて…次の瞬間には上田さんとキスをしていた。いつもの店内で、上田さんをこんなに近くに感じられて…きっと私は今人生の中で一番幸せだ。


「今度は自分のお店を出しますよ。そうしたらまた来てもらえますか?私の恋人として」

「はい!」


もう一度抱き合った私は、少し先の未来を想像した。

上田さんが開いたお店で飲むカフェラテはberryと同じでも、きっと満たされた両想いの味がするだろう。

そんな時間をこれからも上田さんと過ごせたら…それは私が無意識に描いていた理想かもしれない。


「ありがとう」


こんなにも想っていてくれていた上田さんの顔を見て、私は自然と笑顔になった。


**************************


私が目を覚ましたのは、明け方だったようだ。

いつもの部屋ではない場所で、青い清潔なカーテンからうっすらと外が明るくなっているのがわかった。

そうか、昨夜は明夫さんの部屋に泊まったんだったと思い出したのは隣で愛おしい寝顔を見たからだ。恋人の明夫さんは、まだスースーと気持ちよさそうに寝息を立てて眠っている。私ももう少し眠ろうと、そっとそんな明夫さんに寄り添うようにくっついて目を閉じた。こうして大好きな明夫さんのぬくもりや香りを感じると、とても幸せな気持ちになった。



「ん…久美」


明夫さんがそう言って目を覚ましたのは、一時間後ぐらいだった。目を覚ましてすぐに名前を呼ばれるのはくすぐったい気持ちになる。


「ふふ、おはよう。明夫さん」


だからここにいるよって意味で、私は明夫さんに一瞬だけキスをした。明夫さんは驚いたように目をぱっちりと開けてから笑った。


「おはよう、久美」


今度は明夫さんからキスをくれる。とても甘くて幸せなキスを私達はベッドの上でした。


「一年、だな…」

「そうだね」


キスが終わると私達はそうつぶやいていた。ちょうど一年前の今日、明夫さんが店長をしていたカフェberryが閉店した。その日明夫さんから告白をされたから、今日で私達が付き合って一年ということになる。


「明夫さんから告白してくれなかったら、私は今も泣いていたかもしれない」

「それは嫌だな」


明夫さんは不意に真剣な表情になって、急に私を抱きしめた。ぎゅっと離さないように。


「明夫さん?」

「俺はもう、久美がいないとダメなんだ。あの日言って本当によかった」


何度も私の髪を撫でながら、明夫さんは一言一言噛み締めるように言ってくれた。


「ありがとう」


泣いてしまいそうになる程私は幸せで、明夫さんに深く感謝するのだった。



甘い時間を過ごしたから、私達が明夫さんの家を出たのはお昼前だった。


「…」

「明夫さん?」


お気に入りのイタリアンレストランでボロネーゼを食べながら、明夫さんはぼんやりとしていた。明夫さんと会話がなくても普段は気にならないのだが、なんだか今日は深く考え事をしているようで心配になる。


「え?」

「どうしたの?家を出てからなんかぼんやりしているし…」

「な、なんでもないよ」


明夫さんはそう言って食事を再開したが、ぎこちなさを感じる食事だった。


(もしかしたら疲れているのかな?最近お店が忙しいし…)


そう思いながらもなんだか聞けず、私も自分のパスタを食べた。



明夫さんの様子は少し変だったけれど、食事が終わった私達は明夫さんの白い車である場所へ向かった。それは一年前、berryがあった場所だった。


「あ…」


明夫さんが路上に車を停止させると、私は思わずそれだけ声をだした。かつて私が通ったberryがあった場所は、大手のコンビニエンスストアになっていた。話には聞いていたが、見るのはこれが初めてだった。


「やっぱり寂しい?」

「うん…」


私の背後でエンジンを止めた明夫さんに、私はberry跡地を見ながら頷いた。


「変わってしまうものばかりだな」


明夫さんがそう言ってため息をついた次の瞬間には、私は背中から明夫さんに抱きしめられていた。


「明夫さん?」


完全に二人きりではない場所で明夫さんがこんなことをするのは珍しくて、私は不思議に思った。同時にすごくドキドキする。


「でも変わらないものもある」


戸惑う私に気がつかないのか、明夫さんはいつもより甘い声で私の耳元で囁いた。


「今から一年前とほぼ同じ場所で、それ以上に勇気を出すよ?」

「それって…?」


さっきから明夫さんの意図がわからず、私は明夫さんの顔を見るために振り返った。


「…!?」


でも私はさらに驚いた。明夫さんは私に向かって小箱を差し出していた。黒い小箱でその中には輝く銀色の指輪が収められていた。指輪にはダイヤモンドらしき、決して小さくない石がついていた。


「明夫さん?」

「結婚しよう、久美」


真剣な顔で明夫さんはプロポーズの言葉を言ってくれた。そんな明夫さんと指輪が、嬉しい涙で良く見えなくて私は慌てて目を擦った。


「え?私でいいの?」


自然に出てきた言葉はそれだった。明夫さんみたいにかっこよくて若い店長の結婚相手が私でいいのだろうか?と思ってしまうのだった。


「今朝も言ったけど、俺は久美がいないともうダメなんだよ。それくらい久美は素敵な女性だよ」

「明夫さん…」


嬉しくて、私は自分から明夫さんに抱きついた。


「おっと…」


明夫さんは少し驚いたようだったけど、すぐにしっかりと受け止めてくれる。それは一年前には想像もできなかった喜びだ。


「久美は今年大学卒業だし、結婚式もしような?」

「うん!」


私達は抱き合いながら、そんな話をした。幸せな計画が出来上がっていくのが、本当に嬉しかった。


**************************


先月私は明夫さんからプロポーズされて、慌ただしい日々を送っていた。

明夫さんにも祝福されて大学を卒業した私は、大学の紹介で一般企業で働くことになった。毎日パソコンと睨めっこの日々で…でもたまに薬指に光るダイヤモンドの指輪を見るたびに、私は幸せな気持ちになった。

順調に仕事を覚えながら休憩中に、私は明夫さんに教わった淹れ方のカフェラテを飲んだ。

マイボトルは明夫さんが卒業と就職お祝いにくれた、銀杏のオリジナルだ。


「明夫さん…」


一人いる休憩室で、思わず愛おしい人の名をつぶやいてしまう。

明夫さんも今は仕事に追われているのだろうか?そう思うと自然と自分もやる気がみなぎってきた。この時は、まさか明夫さんがこの後大変なことになるなんて思いもしなかった。

不意に私は自分のスマホを見た。明夫さんからのメッセージは来ていないけれど、忙しいのだろうななんてあまり気にしていなかった。



それは金曜日の夜だった。OLである私と、カフェの店長である明夫さんは休みの日が全然違う。でも時間を作って会って、結婚式の準備も進めていた。


「明夫さん!」


約束しているいつものイタリアンレストランに先に着いた私は、おしゃれな店内の席についてやって来た明夫さんに手を振った。


「久美…」


でも明夫さんの笑顔に違和感があった。いつもの爽やかな私の大好きな笑顔ではなく、白い肌にはクマができていた。何かあったかは明らかだった。


「どうしたの?」


席に座った明夫さんにそう聞きながら、私は不安でいっぱいだった。


「マネージャーが交通事故に遭ったんだ」

「え?」


マネージャーといえば、銀杏の店員の中で一番明夫さんが信頼しているあの人に違いない。明夫さんがberryから引き抜いた女性で、私とも顔見知りだ。私達の仲を誰よりも祝福し、応援してくれている。


「そんな…」


絶句する私とは目を合わせず、明夫さんはうつむいて説明を始めた。


「命に別状はないのだけれど…脚を負傷して、立ち仕事はもう無理だろうって…。だからこれからも銀杏を続けるのは難しいんだ。やっと経営が軌道に乗って来たって実感があったのに…」


そう話す明夫さんは本当に辛そうで


「久美?」


私はテーブルの上でぎゅっと握っていた明夫さんの両手を、包み込むように触れることしかできなかった。そして


「私じゃダメかな?」


気がついたらそう言っていた。


「彼女の代わりには到底なれないけれど、私だってberryの頃から知っているから…だから…」


明夫さんの役に立ちたくて、私は必死だった。


「久美…だって久美にも仕事が…」

「一年前明夫さんも言ってくれたから」

「え?」


戸惑う明夫さんを真っ直ぐに見て、私は言った。


「berryを辞めてもいい。全て投げ捨ててあなたを想っているって言ってくれたもん。あれすごく嬉しかったんだ。私だって全て投げ捨てて、明夫さんを愛しているよ」

「久美…ありがとう」


明夫さんも私も泣かないが瞳は潤んでいた。

その後すぐに私は仕事の上司に頭を下げて、わがままを言って退職した。

そしてそれからは明夫さんと二人三脚の、銀杏の仕事が始まった。

不慣れながらも明夫さんは喜んでくれて


「もう夫婦みたいだね」


なんて常連さんに言われるのが、嬉しくてたまらなかった。


**************************


よく晴れた春のお昼すぎ。

今日は平日で自分のカフェ「銀杏」は定休日。愛する恋人である久美は、今頃大学で授業を受けているだろう。

これから俺がやるべきことを考えると、最適な時間だった。


「よし!」


そう声を出して、俺はある店に向かった。幸い人通りはほとんどなかったから、誰にも聞かれなかった。

向かったのは、何度もインターネットで下調べをしたジュエリーショップだ。

銀杏がある一つ裏の通りの一階にあり、店頭では宝石が日差しを受けて輝いていた。


「いらっしゃいませ」


俺が自動ドアを開けて店内に入ると、久美より少し年上二十代半ばくらいの女性が俺にお辞儀をした。


「えっと…エンゲージリングを見に来ました」


そう言うのは少し照れた。

もうすぐ久美と付き合って季節が一巡りする。その記念日にプロポーズの言葉と共に贈る指輪が必要だったのだ。だから今日は俺はいつも着ないスーツなんか着ている。


「はい!こちらでございます」


嬉しそうな店員が案内した先には、それらしき指輪が沢山並んでいた。


「うーん…」


正直これだけ種類があるとは思っていなかった俺は悩みに悩んだ。そして結局華奢な久美に似合うシンプルな銀の指輪にしたのだった。



指輪を買った翌日に事件は起きた。


「カフェラテ二つ!」


そう俺は職場の銀杏で、元気よく言った。


「店長は本当に久美さんがいると、いつも以上に元気ですよね」

「わかりやすいなぁ」


そんなことを他の若い店員に言われても、嫌な気はしない。

そう、今のように久美が店内にいると自分でも笑顔でいる自覚はあるのだ。今日は久美は親友のさやかさんと一緒に、お気に入りの窓際の席で楽しそうに女同士の会話をしていた。


「ん?!」


異変に気がついたのは、俺がそんな二人にカフェラテを持っていこうとした時だった。久美が知らない男性に話しかけられていたのだ。


「めちゃくちゃ可愛いから、一目惚れしたんです!」

「でも、困ります」


久美のような大学生と思われる男は、戸惑う久美を無視してアピールを続けている。周りのお客様も、チラチラとそんな二人の様子を伺っていて、さやかさんはこちらを見ていた。


「お客様、ご迷惑になりますので…」


本当は今にも殴りかかりたい気持ちを抑えて、俺はあくまで店長として接そうとした。カフェラテが乗ったトレイをひとまず久美達がいるテーブルに置いた。しかし


「え?何?あ、久美ちゃんだっけ?こんなおっさん無視して行こうよ?」


馴れ馴れしくも男は久美の右手をとって、席を立とうとした。


「お待ちください」


しかし俺はそうさせるわけにはいかない。無意識にいつもより自分の声が低い。そして次の瞬間には男の手をとって


「久美は俺の女だ!その手を離せ!」


相手は客だとか忘れて、そう言ってしまっていた。しかし後から考えても、そうするしかなかったと思う。



結局男は逃げるように去って、何事もなかったかのように閉店時間になった。

店員には「店長、かっこよかったです!」なんて言われたが…。


「…久美、ごめん」


改めて俺は、閉店して二人きりになってから久美に謝った。久美を助けようとしたが、自分のやったことは子供っぽくて店長失格なことだ。


「私は怒ってないよ。助かったし、その…かっこよかったし」

「え?なんて言った?」


最後の久美の声は恥ずかしいのか小声で、でもすごく嬉しかったからもう一度聞きたくなった。 


「もう!聞こえていないふりはやめてよ」


そう言って久美が笑った。その笑顔はどんな花よりも美しいと本気で思う。


「悪かったよ…」


だから久美を俺は抱きしめずにはいられなかった。


「明夫さん…」


久美もしっかりと俺の名前を呼んで抱きしめてくれる。それがたまらなく嬉しい。


「久美は誰にも渡さない、俺の人生のパートナーだと思っているよ」


言ってしまってから、これではプロポーズの予告みたいだななんて少し心配になる。


「嬉しいよ」


でも久美はそう言ってさらにぎゅと俺に抱きついてくれた。


「愛してる、久美」


それ以上の言葉は、記念日までとっておくつもりだった。

ただ今は…久美が愛おしくて愛おしくて、仕方がなかった。


**************************


その日はいつもより早い目覚ましで朝が始まった。ベッドの中で起き上がり、カーテンを開けると朝日が見えた。チュンチュンとスズメもどこかで鳴いている。


「よかった、いい天気…」


一人だけの部屋で私はそう呟いた。今日は六月の日曜日で大安、待ちに待った私と明夫さんの結婚式なのだ。


「あれ?」


不意に私はあることに気がついた。見慣れた白い車が、私のマンションの前に停まっていたのだ。それはどう見ても明夫さんの車だった。


「明夫さん?!」


私は慌てて着替えて、その車に向かった。明夫さんは今朝私を車で迎えに来てくれる予定だったが、約束の時間より一時間は早い。


「久美?」


向こうも運転席でスマホを操作していて、驚いた顔をしている。


「おはよう。早いね」

「待ちきれなかったんだよ。あ、おはよう」


車から降りて明夫さんは照れたように笑った。この顔が私は大好きだ。


「もう…」


だから私は周りに誰もいないのを確認してから、そんな明夫さんに抱きついた。


「いよいよだな」


そんな私を明夫さんも抱きしめてくれる。朝からこんなに幸せでいいのだろうか?とすら、明夫さんの腕の中で思う。


「うん…」


幸せを噛み締めるように、私は明夫さんの腕の中で目を閉じた。


「久美…」


しばらく抱き合った後、不意に明夫さんに呼ばれた。気がついたら唇がとても近い。


「ダメ」


でも私は笑って少しだけ明夫さんから離れた。


「え?」


泣きそうな顔になる明夫さんが愛おしい。でも


「今日最初のキスはウエディングキスにしたいから。それより一緒に朝ごはん食べようよ?」

「ふふ、そうだな」


私達は手を繋いで私の部屋に入った。なんだかとても贅沢をしている気分だった。

明夫さんには座っててもらい、トーストとサラダ、それから毎日いれているカフェラテを明夫さんに出した。


「どんどん、久美のカフェラテはうまくなるね。俺よりうまいかも」

「明夫さんに敵うわけないじゃん」


美味しそうにカフェラテを飲む明夫さんを見て、自然と笑顔になるのを感じた。明夫さんのカフェ銀杏で働くようになって数ヶ月が経つが、カフェラテの淹れ方とか自分なりには研究していた。でも長年カフェの店長をしている明夫さんには到底追いつけないとわかっている。


「ねえ…明夫さんはどうしてカフェの店長になったの?」


不意にそんな疑問が浮かんで、トーストを持ちながら聞いた。


「ん?」


サラダを食べていた明夫さんは、突然の私の質問に一瞬驚いたようだった。


「そうだな…純粋にコーヒーが好きだったからかな?いつの間にか自分のコーヒーで、誰かを元気にしたいって考えるようになったんだ。でもまさかこんな素敵なお嫁さんと出会えるとは、思わなかったよ」


真っ直ぐに私を見て明夫さんは語ってくれた。


「明夫さん…ありがとう」


微笑む明夫さんにお礼を言いながら、嬉しくて目頭が熱かった。


ゆっくりと過ごしてから、私達は式場へ向かった。銀杏の近くにある小さくて真っ白なチャペルだ。何度も明夫さんと足を運んで、ここに決めた式場だった。


「緊張するなぁ…」

「私もだよ」


そう言いながら私達はチャペルに入った。

私達は別々の部屋で衣装に着替えた。純白のふわっと裾が広がった、オフショルダーのドレスを着てベールをつけてもらい…どんどん明夫さんの花嫁になっていく。ここの式場の人は、みんな黒いパンツスーツを着ていて雑談をしながら準部は和やかに進んだ。

そしていよいよ、新郎の明夫さんが待つチャペルの前に向かった。明夫さんはシルバーのタキシードで、髪をいつもとは少し違う感じでアップにしていた。いつも自分でセットしてるけど、今日はメイクの人がしたからだろう。


「久美…綺麗だよ」

「ふふ、試着でも見たじゃん」

「だって綺麗なんだから仕方ないだろ?」


小声でそんな会話をしていたら、式開始の時間になった。開かれたドアからバージンロードを一歩一歩歩くと、親族や友達が見守ってくれる。

私達の式はいわゆる人前式で、牧師さんがいない祭壇で二人声を揃えて誓いの言葉を言った。何度も文章を考えて何度も練習した言葉だ。


「「本日私達は、みなさまに見守られ結婚できることに心から感謝します。私達はこれからも、お互いを思いやり温かい家庭を築いていくことをここに誓います。まだまだ未熟なふたりではありますが、これからも温かく見守っていただければ幸いです」」

「新郎 上田明夫」

「新婦 菅野久美」


私達がマイクを式場の女性に渡すと、温かい拍手が起きた。それから司会の若い女性が進行して、指輪の交換をして


「では、誓いのキスをお願いします」


という司会の人の声にドキッとした。こんな大勢の前でキスをするなんて、初めてだ。


「…久美」


私にしか聞こえない小声で明夫さんが呼んだ。そこにはとても愛しさが含まれているのを感じ、私の緊張が少しほぐれた。真剣な表情で明夫さんが私のベールをあげて一瞬私達は見つめ合った。そして、そっとキスをするとさっきよりも大きな拍手がチャペルに響いた。私は目を閉じて唇に明夫さんを感じながら、それを聞いていた。


無事に式はおわり、結婚パーティは銀杏でランチで行った。


「乾杯!」


私達が乾杯に使ったのはシャンパンでもスパークリングワインでもなくカフェラテだ。私達を繋いだ大事な一杯だから、すぐにそう決まっていた。式場から移動した私はピンクのドレス、明夫さんも少し高級なスーツを着ていた。


「久美、これ」


そう言って乾杯の直後に明夫さんが渡してきたのは、いつものピッチャーに入ったガムシロップだった。


「もう…わかってるんだから」


そんな明夫さんを、私は心から愛している。

私達が出会った場所はもうないけれど、明夫さんはこれからもずっと隣にいてくれる。その奇跡をきっと幸せと呼ぶのだろう。最初はブラックコーヒーのように、ほろ苦い片思いだった。そんなコーヒーにガムシロップを入れるように、明夫さんは変わらず私を愛してくれる。


「大好き、明夫さん」


だから私はこっそり、最愛の人にそう告げた。



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