『百合アニメ世界の“百合の間に挟まる男”に転生した男はどう振る舞うか』のテスト
気が付くと僕は百合の間に挟まる男になっていた。
「なんてことだ…認めるしかないのか…」
言い訳がましく何度も頬をさすりながら、僕はようやく現実を認めた。
ありがちな事に僕は百合アニメ一挙放送を鑑賞中、寝落ちしたところにちょうどトラックが突っ込んだ。
そして、そのまま一生を終えたらしい。
そして意識が戻るとそこは百合アニメ『神と鬼 -閃刃の巫女-』の世界であり、僕は百合の間に挟まる男『狭鞠 太陽』に転生していたのだ。
目覚まし時計の音に叩き起こされ、ベッドの上で背伸びしているうちに足がつったことをきっかけに前世を思い出したのだ。
「最悪だ…よりによってこいつかぁ…」
『神と鬼 -閃刃の巫女-』は美少女バトルアニメである。
ありがちな事にいにしえから続く謎の怪物と、唯一それらに対抗する能力を持った少女たちの戦いと交流や衝突、そして成長を描いた物語だ。
「子供の人権が考慮されない」、「役立たず軍人・兵器」、「恥ずかしげもなく子供を戦わせ続ける大人」などといった、こういう作品のお約束を完備している。
なかでも「何百年も戦いが続いているのに少女を戦わせないで済む方法を見つけられずにいる」という、人類の英知たる科学の敗北ぶりは涙さえ浮かぶ。
一応体を張って戦う軍隊や警察官などの描写があるにはあるのだが、結局は彼らの胸元以下の身長しかない少女たちに助けられ、そこで彼らの活躍は終わる。
これを見せられて僕と同じ感想を抱いた者ははたして何人いただろうか。
(狭鞠…太陽。救い難きは百合の間に挟まる男…)
『神と鬼 -閃刃の巫女-』は百合アニメである。
百合アニメとは、百合を主題としたアニメである。
百合とは一般に(※百合が一般かはここでは考慮しない)女子同士の恋愛の事を指すと考えられているが、正確な定義付けはなされておらず、何をもって百合とするかは受け手次第と言わざるを得ない。
そうではあるが、ひとまず本作は百合アニメであるとされている。
だが本作における百合要素は、あくまで視聴者が「百合の要素がある」と感じる程度のものだ。
なぜなら本作のスタッフは真に百合の行く末を憂える精鋭百合烈士であるからだ。
彼らは制作側は百合要素を押し出した百合コンテンツを、真に百合足りえるコンテンツとは見なしていない。
百合とはあくまで女子同士の重めの友情であり、見る者(※気色悪いオタク、つまり僕ら)がそこに不純な同性愛のレッテルを貼る事で、はじめて百合と化すと考えているからだ。
良質な百合コンテンツは、あくまでそうであると喧伝してはならない。
それがスタッフの総意であり、また固い決意であった。
事実上百合が大きな売りでありながら、極力健全な友情バトルアニメを志向した本作は少年漫画めいた爽やかやすら感じさせた。
だからこそ未曾有のヒット作として君臨したのだった。
(こいつ、ただの邪魔男ってだけじゃないんだよなあ…)
狭鞠 太陽。
スタッフが露骨な百合アニメを嫌い、真っ当なバトルアニメの延長として百合作品と見なされてほしいという願いの果てに、生まれてしまった望まれざる忌み子。
一般ファンからの評価は肯定的なものも少なくないが、当然百合ファンからの扱いは悪い。
出番が回ってくると、いちいち女の子の間にしゃしゃり出てくるチャラ男であるが故に。
輝かしき世界を穢す忌まわしき生汚物。
今や自分がその汚物と成り果てた事に涙がこぼれるばかりだ。
この汚物が汚物たる理由はメインキャラに対する仕打ちにある。
主人公の少女『呉 かなめ』――の後に親友となる少女『五反田 ひな』のトラウマの原因なのだ。
いかに汚物とて生まれた瞬間から汚物だったわけではない。
汚物はひなの幼馴染であり、それこそ互いに憎からず思うほどの仲だった。
だが、ひなが怪物と戦う戦士たる刃巫女を目指すようになった事が、歯車が狂い出すきっかけだった。
美少女バトルものの宿命として大人と男は無能たるを宿命づけられる。
つまり、男は刃巫女になれない。
自分はただ男に生まれたというだけで、好きな女の子を守れないどころか、並び立つ資格すら与えられないという残酷。
その事実に太陽は狂い、そして汚物が生まれた。
純粋だった好意は歪んだ執着へと変貌し、何より大切な宝を穢し壊そうとするようになったのだ。
(オロチさえ関わらなかったらなあ…)
汚物はただの劣等感だけで狂ったのではない。
ラスボスである邪神オロチ、その尖兵にして復活用の生贄である八牙将の一人に選ばれてしまったのだ。
邪神の干渉により精神を侵され、そして運命すらも弄ばれ、恋したはずの少女に剣を向ける事になってしまった。
徐々に精神の均衡を失っていく汚物の姿は見る者に痛ましさすら感じさせ、その悲しき運命が故に少なくないファンが彼にはいた。
もっとも事あるごとにかなめとひなの間に挟まっては少女たちの友情に猜疑心を吹き込み、時には恋心すら利用して二人を追い詰めたのはやりすぎという意見もある。
いくら邪神が諸悪の根源で、また作戦のためとはいえ執拗な精神攻撃は本作における数少ない胃痛要素である。
そしてこれが汚物が汚物として百合ファンに嫌われる最大の原因でもあった。
(嫌いではあるけど、あまりにも救いがなさすぎる…)
汚物の最期はパワーアップのしすぎで肉体が耐えきれず、せっかく二人を追い詰めたのに自滅してしまうというあっけないものだった。
だが敗北してなお安寧は訪れない。
その魂は天に昇る事も大地に眠る事も許されず、オロチ復活の生贄として半死半生の状態で苦痛と怨念を抱いたまま保存されたのだ。
そして邪神オロチが復活すると、今度はその体内で永遠の苦痛に苛まれては、生み出されるエネルギーを邪神に捧げ続けるという生き地獄。
その苦痛はメインキャラたちが力を合わせた合体攻撃でオロチが滅びるまで続いたというのだから、汚物を嫌う百合ファンの中にさえ彼に同情的な者がいる。
そして、そんな汚物・狭間 太陽に僕は生まれ変わってしまった。
「よし。死のう」
僕の決断は早かった。
かつて百合ファンであった者としての自分は、輝かしい世界を穢す者に成り果てた自分の存在に耐えられなかった。
狭間 太陽としての自分は、幼馴染である五反田 ひなの未来に深い傷跡を残す可能性を許せなかった。
またどちらの自分も、確実に邪神の尖兵となって人々を苦しめる未来の自分を殺すべきだと思った。
前世を思い出し原作知識を得た以上、もはや原作通りの歪んだ成長をすることはないだろう。
だが自分がどれだけ心正しくあっても、邪神の干渉に抵抗できるとは思えない。
ならば、潔く自決しよう。
そうと決めた僕はさっそく確実に死ぬ方法を調べた。
最初は爆薬で跡形もなく砕け散った方が死骸を邪神に利用されなくて済むと思ったが、それは周囲への迷惑が大きいため自重した。
代わりに数日かけて水死の手段を調べ、表面上はなんの代わりもないふうに過ごす。
そして計画が固まるとともにホームセンターへと出かけた。
袋とワイヤーロープ、数種類の道具を購入すると直ちに帰宅する。
幼い子供である僕を怪しむ者などいるはずもない。
誰もがおつかいに来た親孝行な子供だと考えただろう。
そう思うと僕の頬を一筋の涙がつたった。
どんな理由、どんな形であれ死ねば親に迷惑をかけてしまう。
それが申し訳なかった。
(ごめん、父さん、母さん。…ひな)
日曜日。
僕は近くのゲームセンターに行くと称して遠く離れた山中、その川の上流にかかる吊り橋に来ていた。
夏の遊び場として地元ではよく知られた川だ。
数年に一度は泳ぎに来た人――特に子供が事故死している川でもある。
今は釣りも川遊びもしない季節のため人気はない。
僕は周囲を注意深く、入念に確認した。
誰も目撃者はいない。
とはいえ子供が一人でシーズン外の山に入ったのだ。
念には念を入れて手早く準備した。
石を詰めた袋をロープで固く結び、自分の体にしっかりと括り付ける。
そのまま石袋を背負い息を切らしながら橋の中央を目指した。
(父さんも母さんも、僕なんていなくたってきっと大丈夫だ)
原作では、年の離れた弟がいた事が描かれている。
まだ生まれてもいない弟だが、きっと両親の新たな希望となってくれることだろう。
(ひな…。どうか、幸せに)
彼女は多くの友と巡り合うだろう。
ならば早く自分を終わらせるべきと思いこそすれ、彼女の未来に何の憂いもない。
かくして僕は飛び降り、深い川底に沈んでいった。
その後、結局僕は邪神の干渉で半ば不死と化し川底で溺れては復活を繰り返し、原作開始の時期になると他の八牙将によって川底から引き揚げられ、即反抗して全員を倒したところで邪神に憑依されるも完全支配される直前に自爆消滅した事は、原作にはない、また語られざる物語。