死を覚悟した時はありますか?
みなさんは死を覚悟した事はありますか?
私は肉体的、精神的に死を覚悟したこと、今でも忘れられません。
24年間の人生を振り返ると、良し悪し様々な経験をし、死や後悔、壁を乗り越えて今の私がいます。
この小説を読んでる方も、沢山の経験を積んで色々な感情を持ち、今生きているのだと思います。
同感や葛藤、なんとも言えない感情、ひとそれぞれ思うことは違いますが、感情を共有できればと思います。
26年前に生まれた。たまにふと思う。自分は何故生きているのか、感情を持ってるのか、何故この顔立ちなのか、自分って何なのか、考えるほど不思議で奥深く結論を見つけることは難しい。小説を書くことによってありのままの自分をさらけ出せるかもしれない。
普通の家庭で育ち、何不自由なく育ってきた。
どちらかと言えば、裕福な家庭だと思う。
廻りの幼稚園より良い環境の幼稚園に行かせもらえた
小学校は地元の小学校に入学し、やんちゃな性格で友達もいっぱいできた。
その時は突然起こった。
小学校五年生の11月9日午前2時50分。
兄弟3人で二段ベッドに寝ていた。
下に妹と弟、上に私。
真夜中に響く母の叫び声。
「早く起きて!!起きないと死んじゃうから!」
母が子供達の部屋に叫びながら入ってきた。
なかなか目を覚ますことができない私達。
下に寝ていた妹と弟を殴り起こすかのように体を揺すって起こした。
そして上に寝ていた私を同じように起こした。
起きた時に母の顔をみると、鬼の様な形相だった。
「どうしたの」と聞くと、母が「いいから早く外に逃げなさい!」と怒ってきた。
何がなんだか分からず、二段ベッドから飛び降りた。
その時、子供ながら一瞬で周りの状況を把握できた。
部屋中黒煙が滞留しており、火事だとわかった。
死を覚悟した。まさか私の家が...
ベランダをみると火が私達のところまで来ているのが見えた。
兄弟3人で二階にある部屋から急いで階段を下り、一階へ向かい外に避難した。
どうやら弟は煙を吸ってしまったようだ。
隣で咳き込んでる。
外にでると一階で寝ていたおじいちゃんとおばあちゃんがいた。周りには多くの野次馬が集まっており、みんな二階を見つめている。
どうやら出火場所は子供部屋の隣で寝ていた、ひいおじいちゃんの部屋だ。
ひいおじいちゃんの部屋は火で包まれており、火の勢いが強かった。
まだ中には父と母とひいおじいちゃんが取り残されている。
父は二階のベランダから飛び降り助かった。
母とひいおじいちゃんがまだ取り残されている。
消防隊員の方が家の中に入って行き、ひいおじいちゃんを担いで出てきた。
顔中煤だらけで、真っ黒になっていた。
担架に乗せられ救急車で運ばれて行った。
まだ母が取り残されている。
私は「助けに行かなくては母が死んでしまう」と思い体が勝手に反応して、助けに行こうと右足を一歩前に出した。
消防隊員に止められた。今までこんな消防隊員を恨んだことはない。
消防隊員は火事の現場でも中に入り、人助けするのが当たり前だと思った。
消防隊員も1人の人間で、家族もいる。
自分を犠牲にしてまで、家族に悲しい思いをさせたくない。それは人間である以上仕方ないことだ。
止められた時、一瞬偏見を持ってしまった。
ただその消防隊員は冷静だった。
消防隊員は言った「俺が助けに行く、お母さんは絶対大丈夫、その勇気立派だ」
母の死への恐怖と絶対助け出してくれる大丈夫という安堵が渦巻いた。
先程より火の勢いが増して子供部屋まで燃えてるのが確認できた。
幸いにも一階までは延焼してなかった。
一階の玄関から消防隊員が入り、10分ぐらい経ってから母が担がれてきた。
母は意識がなく、顔も煤だらけ、服も一部燃えた後が目に入った。
母に声も掛けることが出来ず、救急車で運ばれて行った。
消防隊員に言われた。
「俺が助けたんだから絶対助かる。」
その時は安堵より不安が上回っていた。
家族がバラバラになった瞬間だった。
塀を挟み隣がコンビニだったので、子供達は一時避難した。
バックヤードに行きホットレモン貰った。
寒かったため、一口飲むとお腹に染み渡るのが分かった。
昔から付き合いのあるおばちゃん家に泊めてもらうことになった。
何故だろう。布団をかけても体が震える。寒さではないのは分かる。
火や母、ひいおじいちゃんの煤だらけの顔の残像、家が無くなった不安で震えていた。
1.2時間経っても眠れない。
父方のいとこのお母さんが迎えに来た。
いとこの家は自宅から数百メートル離れた所にある。
外は明るくなっていた。
いとこも合わせ川の字で横になった。
弟が突然嘔吐した。吐瀉物は黒く煙を吸ったからであろう。
ここでも眠れなかった。
朝7時を迎え自宅を見に行ったら、二階が延焼して何もなかった。残ったのは瓦礫と柱だけ。一階には火の手は廻らなかったのが幸いであった。
二階へ通じる階段は残っていたので、二階へ上がらせてもらった。
11年間毎日寝ていた部屋、兄弟や友達と遊んだ部屋、
一年生になって買ってもらった机、何も無かった。
燃え尽きた炭と瓦礫。思い出が僅か数時間で無くなった。呆気なかった。喪失感と将来への絶望感、焦燥感が込み上げて、自然と涙が溢れてきた。
私達はいとこの家で暮らすことになった。
いとこは4人家族。家も2Kでそんなに広くない。
私達7人で過ごすのにはすごく狭かった。
おじいちゃん、おばちゃん、お父さんはどこにいるのかすらわからなかった。恐らくはなれのとこに居たのだと思う。
自宅とは別にはなれの家が敷地内にある。
二階建だが、一階は屋根を隔てて車4台止めており、
駐車場になっている。
一階から階段を登ると左右にそれぞれ部屋が一つずつ造りである。
火事から3日後、一家屋根の下家族で集まることができた。
家族みんな痩せこけていた。
一階は放水の水害と瓦礫が散乱していた。
家財は濡れたものの、使える物が多かった。
床が抜けなかったのが幸いである。
使える家財を運び出し駐車場へ移動させた。
昔から付き合いのある知り合いも手伝ってくれた。
母方のいとこも手伝ってくれて、感謝の気持ちでいっぱいになったのを覚えてる。
はなれの一階スペースに仮設住宅を建てる事になった。
住む場所が確保出来たのはうれしかった。
仮設住宅は1ヶ月程で建った。
作りは簡易で、壁は石膏ボード、床は支持脚で鉄板とベニヤを重ねたものだった。歩くとギシギシ音がする。
家財を中に運び入れた時は大変というよりも、これからまた頑張っていかなくてはならないという気持ちでいた。
約一ヶ月後小学校にも登校できるようになり、友達からは心配されたが、元気に接する事が出来た。
家がなくなった事の精神的な辛さはなかったが、お母さんの事が常に心配で夜寝れない時もあった。
一年後、色々な方からの支援もあって、家を建て直すこともでき、お母さんも退院してまた一家団欒の日々が戻ってきた。
家族で一緒にいられる大切や感謝の気持ちを分かち合えた。
数年間は消防車のサイレンの音がトラウマになっていたり、お母さんの方は煙で喉が焼けてしまったため、食事するのが辛そうな時も見受けられた。
それ以上に、
お母さんが戻ってきて一緒にお風呂に入れた安堵感は今でも忘れることが出来ない。
それから12年が経ち今は家庭を持ち子供も出来た。
子供がある程度大きくなってきたら、この出来事を話そうと思う。
二度と同じ事が起こらないように。