25 滅びの時
クリスタルの社長室。
ヴォルフはソファーでくつろいで、両脇の金髪美女とワインを傾けている。
テーブル越しに向き合って座る五味田は薄笑いを浮かべて、ワイングラスに口をつける。
並みいる重役たちを押しのけて、ヴォルフのお相伴にあずかる地位を得た。
「ケンの話では、緒方ホールディングスは密かに買っていたクリスタルの株を売り抜けたようだなア」
ヴォルフが厳かに告げる。
「ほう……」
「クリスタル株が大暴落した時に買って、値が戻った時に売ったからなァ。緒方は数千億の利益があったはずだなァ……」
口ぶりには少しだけ不快感が混じる。
タイガーチャイルドファンドがクリスタルの生命線といえる部品会社に敵対的買収を仕掛けたことで、クリスタルの自動車生産がストップする懸念があった。
クリスタル株は大暴落し、その時に緒方が大量のクリスタル株を買っていた。
その後、クリスタルが反撃に転じ、自動車生産のストップを回避することで、クリスタルの株価は回復した。
緒方はクリスタル株を安く買って、高く売ることで莫大な利益を手に入れたのだ。
全て上杉の指図によるものだろう。
「だが、まあいい」
ヴォルフは苦笑する。
「緒方にクリスタルを買収される恐れはなくなったからですね」
五味田はヴォルフの機嫌が悪くないとわかって安堵する。
「そうだ。ケンがホワイトナイトとして控えていることに上杉は気づいたみたいだなァ。もう勝てないと見て、緒方に手を引かせたのだ」
緒方が持つクリスタル株はゼロになった。ならばクリスタルが緒方に乗っ取られる可能性は消えて、ヴォルフの地位は安泰である。
ヴォルフが解任されれば、五味田は今まで媚を売ってきたことが無になるところだった。五味田にとっても喜ばしい状況だ。
「おおかた緒方に小金を儲けさせるのが真の狙いで、タイガーチャイルドファンドは囮だったなァ」
ヴォルフは上杉の狙いを看破した。
世間ではタイガーチャイルドファンドだけに注目が集まっているが、それは補助攻撃に過ぎない。
主力攻撃は緒方というのが、上杉の作戦だった。
数千億円の金でも、クリスタルくらいの大企業にとっては小金である。
タイガーチャイルドファンドという目くらましを上手く使われて、まんまとやられた感はあるが、ヴォルフはさして痛痒を感じてはいないようだ。
一方で五味田は心底ほっとしている。
緒方の動きは全くニュースにならなかった。
巨大企業どうしの戦いを秘密裡に進めた上杉、それにケン。奴らの能力は異常と言わざるをえない。日本のマスゴミが無能ということはあるが。
悪魔の戦いに巻き込まれて、凡庸なサラリーマンの五味田は立場を失ってしまいかねないところだった。
だがもう大丈夫だ。
クリスタルⅤS緒方の別次元で繰り広げられた巨獣の戦いは終わった。
タイガーチャイルドファンドとの戦いでもクリスタルの勝ちは動かない。
「五味田君、タイガーチャイルドファンドの対処は完璧だなァ」
ヴォルフの口から望外の誉め言葉がある。
クリスタル本体をケンが守ってくれたおかげで、五味田はタイガーチャイルドファンドの攻撃に専念することができた。
それで下請けイジメに関してはクリスタル随一と自負している五味田の能力を、遺憾なく発揮した。
緒方に比べればタイガーチャイルドファンドなど大した相手ではないとはいえ、ここまで徹底的に叩き潰せる者はいないと思っていた。
ヴォルフがちゃんと評価してくれて有頂天になる。
「恐れ入ります」
五味田は飛び上がりたい気分だが、小者と思われたくなくて自重する。
「君は気に入ったよ。例の件は五味田君にまかせようと考えている」
「例の件とは……」
「私のクリスタルでの最後のプロジェクトになるなァ。クリスタルをドイツに売り飛ばすゾ」
ヴォルフは紅潮した顔で、ニヤリとした。
「……いよいよですか」
五味田は気を引き締める。
ヴォルフが密かにクリスタルをドイツのものにするプロジェクトを進めていることは知っていた。
しかし日本有数の自動車メーカーをドイツのものとすることは日本人の反発が大きく、簡単には行きそうにないことだ。
「今が好機だ。タイガーチャイルドファンドという悪者と戦ったことで、クリスタルが正義のヒーローのような扱いを受けているからなァ」
「確かにそうですね」
マスゴミの報道は単純だ。
クリスタルがこれまで下請けをひどく搾取してきたことなど全く報道されていない。
そして搾取で得た利益は、ヴォルフの報酬やドイツに流れていったことも世間の人間は知らない。
真実を知る者なら、クリスタルが巨悪で、タイガーチャイルドファンドこそが正義のヒーローなのだ。
だが正義などは五味田にはどうでも良いとことで、自身の出世が全てである。
「西郷に進めさせていたが、ろくに進捗していないからなァ」
「奴は口うるさくて、仕事が遅い男でしたからね」
「必要なのはスピードだ。ドイツに売り飛ばす手続きを迅速に、完璧にやってしまう。正式発表の時には、どうやっても覆せない状態にしておくのだ。君にできるかなァ」
ヴォルフは五味田を見据える。
「はい。いかなる手段を使ってもやり遂げます」
「社内でも抵抗は大きいだろうなァ」
クリスタルで働く人間は日本人ばかりだ。ドイツへ売り飛ばす仕事を進んでやるとは思えない。
「容赦なく切り捨てます」
「エクセレント。私に似て、五味田君の冷徹なところが気に入っているゾ」
「社長ほどではございません」
二人は顔を見合わせて、高笑いする。
「五味田君は、日本を裏切ることに良心の呵責は感じないのかなァ」
「まさか」
五味田は腕を広げて、大げさに否定した。
「日本なんてゴミみたいな国どうでもいいです。社長の側近として、大きな仕事をすること以上に面白いことはありませんね」
クリスタルが完全にドイツのものになれば、社員たちは最初はびっくりするが、すぐにこれまでどおりに働き続けるだろう。
ドイツのために働くのは内心では嫌でも、会社にしがみつくしかない。
ザ社畜。それが日本人の生き方というものだ。自分もまあそうだと内心で苦笑する。
「フハハハハハ、私は愛国者だからね。祖国への大きな貢献が認められて、勲章は確実だろうなァ」
「おめでとうございます」
五味田はヴォルフのグラスにワインを注ぐ。
「気が早いゾ」
「もう事はなったも同然です。前祝いといきましょう」
「売り飛ばしに成功した暁には、五味田君にも十分な報酬を与えようじゃないかァ」
「ありがとうございます」
二人はグラスを傾ける。
その時、社長室の扉が開け放たれ、秘書の女性が息せき切って飛び込んできた。
「何事かね、騒々しいなァ」
ヴォルフは興を削がれて、顔をしかめる。
「大変です、け、け、け、け」
秘書は舌がもつれて言葉出てこない。
「け?」
五味田が確認する。
「けんさつです。検察がやってきました」
「「なにい」」
ヴォルフも五味田も凍り付いた。
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