偽りの花
雑踏の中、街行く人々がちらりとこちらに視線を向けては、嫌悪の表情を浮かべた。
鮮やかな赤色のバラや、艶やかな紫色の菫、淡い桃色の桜から、品のある菊の花まで、様々な花が人々を彩る。
一種の芸術作品のようにすら感じるその光景の中で、たった一人何も持たない少女は、顔を俯かせ気配を殺して歩く。
“花咲き”という、その身体に花を纏いし者たちが生きるその世界で、少女の居場所はどこにもなかった。
もう何年も前、私には両親がいた。
正確な年数は覚えていない。そもそも自分の歳すら知らない。ただ、朧気な記憶の中、こちらに顔すら向けない両親の姿を覚えている。
冷たい眼差しどころか、居ない存在として扱われた私は、ものごころつく頃に森に捨てられた。獣が彷徨い、人の寄り付かないその森に。
しかし、私をまっていたのは獣に食い殺される残酷な死ではなかった。むしろ、人よりよっぽど彼らのほうが優しかった。
我が子の存在をないものとし、そのくせ殺す覚悟すらなく、結局森に捨てることで罪悪感から逃れようとした薄汚い奴らよりも、彼らのほうが暖かかった。幼いだけでは済まされないほどに痩せ細った私に、彼らは暖かい食事と寝床を与えてくれたのだ。
彼らだってその耳と尻尾から“獣付き”と蔑まれているにも関わらず、何も持たない私に優しく接してくれた。
あの日、初めて暖かいスープを口にした時、思わず溢れた涙の暖かさを私は決して忘れない。
そして、数年の月日が流れ、すっかり甘くて暖かい優しさに慣れてしまった頃、事件は起きた。
その日、愚かな“花咲き”どもは、私たちが住む獣の森に火を放った。
曰く、獰猛で知性を持たぬ醜い“獣付き”に生きる価値などない、と。
迫る火に背中が熱さでひりひりとする中、私は必死に走った。せめて子供たちだけでもと言って、荒れ狂う炎の更にその奥で残虐な笑みを浮かべる奴らを引きつける為、囮になった大人たちを背に。
悔しさと己の不甲斐なさに叫び出したくなるのを必死に堪え、ただひたすらに森の中を走る。
灰と涙でぐちゃぐちゃになっている顔は、見るに耐えないものだろう。だが、足を止めるわけにはいかない。
託されたこの子たちを守らなければ。
あの日、彼らに助けられた恩をここで返さず、いつ返すというのか。
そんな使命感に駆られ、私は“獣付き”のその子たちを時に姉として、時に母として育て、時々拠点を移しながら、少しずつあの頃の生活を取り戻しつつあった。
奴らは相変わらず醜く傲慢で、既に国からかなり離れたところに来たにも関わらず、風の噂できくその評判は酷いものだった。
「聞いたか?また、やらかしたらしたらしいぜ。アイツら。」
「アイツら?」
「ほら、“花咲き”だよ。“花咲き”。」
「あぁ、あのいけすかねぇ奴らか。聞いたよ。周辺の国に喧嘩売ってんだろ?」
「自分たちこそが、人族の中で最も美しく賢いなんて。自惚れも大概にしろよって感じだけどな。」
酒場で飲んだくれる男たちの会話だ。
そして、この国の者は浅黒い肌とそれに反して色素の薄い髪が特徴的であり、大陸で最も文明の発達した正真正銘“賢い者”たちである。
今話していた男たちでさえ、話し方は乱雑だが学校の教師だ。ちなみに、この辺りで最も偏差値の高いと言われる学校だ。
そして、傲慢で醜悪な性根を持つ“花咲き”どもは、狩る側の人間から、そのうち狩られる側の人間へとなっていた。
「リア、あの国が遂に滅ぶらしい。」
私の名前を呼び、そう話しかけてきた彼の手には、今朝届いた新聞が握られている。
『あの国』と言われて、直ぐにピンときた。
あぁ、そうか。遂に…遂に滅びるのか。
あの偽りの優しさで出来ていた、あの国が。
本当の人の暖かさも知らない、あの国が。
やっと、漸く、この時が来た。
痛いくらいに握り締められた拳を、彼に見られないように背に隠す。
心配性の彼のことだ。こんなものを見られたら、数日は離れてくれないだろう。それでは私が困る。
悟られてはいけない。この身を焦がし尽くすような激しい憎悪を。
見られてはいけない。憎しみと後悔に歪むこの顔を。
きっと、気づかれてしまう。聡い彼なら気づいてしまう。
あの時のことを未だに一ミリたりとも消化出来ずに、その内に醜い悪意を宿らせていることを。
何食わぬ顔で当たり障りのない返答を返す私に、“獣付き”と言われる彼はその愛らしい耳と尻尾を揺らせ、どこか安心したような顔で笑った。
あれほど華やかで美しかった街並みは、もはや何処にもなかった。
哀れなものだ。大陸一の美しさを誇っていたあの国の面影は、もう残っていない。
むしろ、今の方が彼らの醜悪な内面を表しているようでぴったりだとさえ思う。
これが、他者を思い遣ることを知らない傲慢な者がおくる末路だ。
本当に、奴らにぴったりの最後だ。
そんな私の内心は、誰にも明かしたことはなかった。共に育った“獣付き”の彼らにさえ、この胸に抱えた闇を見せたことはない。
あの日、血の繋がる両親に代わり、私を優しく抱きしめ、育てることを決意してくれた私が慕う本当の両親を、“獣付き”のみんなを、私は一瞬たりとも忘れはしない。
あの最後の瞬間も、今でも生々しいほどに覚えている。
その記憶は、何度も私の夢を蝕み、何度も私にこの恨みを忘れるなと訴えてくる。
まるで悪夢のように。
だが、それで良かったと思っている。
そうでなければ、穏やかに流れる日々の中で、あの悲しみと後悔と憎悪が薄れてしまうところだったのだから。
そして今、私は奴らの国にこうして戻って来た。
家族の仇なんて綺麗な言葉を使うつもりはない。それでは、私に優しさを教えてくれた彼らを汚してしまう。
汚れ役を買うのは、私だけでいい。
鈍く光るナイフを片手に、私はある場所を目指す。この国の中心地。そこにそびえる一際美しい城に。
あの頃とは違って、堂々と顔を上げて、私は迷いなく歩みを進めた。
「何をしに来た。“持たぬ者”よ。」
色とりどりの花をその身に纏うこの男は、私にとって憎い憎い宿敵だ。
充分離れたこの距離からも漂ってくるその花の香りが、私の胸をかき乱す。
落ち着け。
主導権を握るのは私だ。
ただ殺すなんて、それでは駄目だ。
己の今までの行いに心の底から後悔させ、その頭を地に擦りつけるくらいに懺悔させ、そして殺すのだ。
理不尽に命を奪われた彼らへの謝罪もさせずに、殺すわけにはいかない。
「謝罪しろ…お前が理不尽に踏み潰してきた多くの命に。その傲慢な顔を地に擦りつけ、誠心誠意、心の底からその行いを悔いて、謝罪しろ!」
感情が溢れ出す。
生まれた時から、この国の醜さにあてられて、心が死にかけたこともあった。それでも、思い遣りと優しさに溢れた人たちと暮らし、少しずつ癒されていったのだ。
それなのに、この国は一度でも足らず二度までも、私から奪ったのだ。
大切な家族を。
親からの愛を。
憎い。憎くて仕方ない。
“花咲き”どもが、本当に憎くてたまらない。
いずれこの国は滅ぶだろうと、森を焼かれた時から思っていた。
だから、この国が滅ぶ時。最後のその時は、私自身が手を下そうと心に決めていた。
鈍く光るナイフを男に突き付ける。
「…殺すなら、殺せばいい。どうせこの国も、私自身も、すぐに滅ぶだろう。さすれば、お前は傲慢な国の王を討ち取った英雄か。まるで物語の主人公だな。」
男は皮肉気に笑う。
「謝罪しろと言ったんだ!」
私は獣のように叫ぶ。
「謝罪することなどない。私は、私の“美学”を貫いただけだ。お前のそれも同じだろう?」
全身が燃えるように熱くなる。
あぁ、これはあの時に似ている。燃え盛る森を背に、必死に逃げたあの時の、内側から湧き出る憎悪に。
気づいた時には、私の握るナイフは男の腹に刺さっていた。
バラの鮮やかな赤色とは似ても似つかぬ、どす黒い赤が男の着る白い服を染める。
間近にある男の顔と一瞬だけ視線が絡み、男は驚愕するかのように僅かに目を見開いた。
「その、目は…ま、さか…」
口元から漏れる呟きは、辛うじて私の耳に届いた。
何が言いたいのかは分からない。しかし、もうどうでもいい。
しばらくして、男は生き絶える。
結局、当初の目的ははたせず、ただ殺す結果となった。
だが、あれでは心の底からの謝罪など貰えるはずもなかったので、これでいい。上辺だけの謝罪など、吐き気を催すだけだ。
見苦しくも、死んでも玉座に座る男に、再び近づく。
栄養源を失い、既に枯れ始めていた男の纏う花々を、私は毟り取った。
昔から、嫌いだった。好きになれるはずもなかった。
この美しくも残酷な花々を。
毟り取る。毟り取る。
男の皮膚が剥がれようが、知ったことではない。最早、死んでいるのだから。
一番最後に、男の左胸を飾る一輪のバラを毟り取った。
私の右手の中で、美しいバラは無残にも崩れる。
最高の気分だった。
胸の奥がスッとするような快感に酔いしれる。
しばらくその余韻に浸り、これまでのことを思い出す。
長かった。本当に長かった。
あの森を逃げ出した日から、およそ十年。
ずっとこの日を待ち望んでいた。
すぐに滅ぶかと思われたが、意外にも粘り、今日まで十年もかかるとは思っていなかった。精々、五年が限界かと思っていたが、私が思ってたよりはこれも出来る男だったのかもしれない。
まあ、そんなことは今更だが。
男のことを考えていたからか、先程男が死ぬ寸前に呟いた言葉も思い出す。目がどうのと言っていたが、どういう意味だったのか。
別にそれほど気になるわけではないが、わだかまりを残すのも後味が悪い。
私は、玉座の直ぐそばにある壁一面を覆う巨大な姿見に近づいた。
鏡なんて普段あまり見ない。そもそも高いから、庶民には馴染みがないのだ。
しみじみと姿見に映る自分を眺める。
森の中での生活が長かったからか、思ったとおり身なりが良いわけではない。髪の毛が想像以上に傷んでいるのが分かり、女としては流石に少し気になる。
結局、鏡の中の自分を大して目新しく感じることもなく、こんなものかと空虚な感想を抱く。
目だって何か特別な色を持っているわけではない。あの男は一体何がしたかったのか。
しかし、ふと言い知れぬ違和感を感じた。何かが違うような、そんな不思議な感覚に囚われて、私は自分の目を今一度じっくりと見つめ直す。
「……」
猛烈な嫌悪感が全身に走る。
震える手を、鏡の中のその瞳に伸ばした。
あぁ、何で…何で何で何で‼︎
嘘だ嘘だ嘘だ!そんな訳がない!
私は、私は…
急激に襲ってきた吐き気に、口に手を押し当てて蹲る。
今まで信じてきたものは全て嘘だった。
あぁ、きっとこれはあの男が言っていたように物語だったんだろう。
傲慢な国の王を討ち取った英雄が、実はその王の子供だったなんて。
本当になんて出来の悪い物語だ。
私はのろのろと立ち上がる。
男の腹に刺さっていたナイフを乱雑に引き抜いた。
赤黒く染まったソレは、この男の命を今しがた絶滅させたものだ。
そして、私はそのナイフを高く振り上げる。
勿論、自分に向かって。
この“花咲き”の王国の王家直系のみに受け継がれると言われる、花の瞳に向かって。
迷いなく、ソレを振り下ろした。
「リアッ‼︎」
最後に、何よりも大切な彼の声が聞こえた気がした。
数日前、“花咲き”が滅びた。
“花咲き”という人種は様々な美しい花を纏い、その根は全て一つの場所に収束する。
その収束する場所が王家。彼らの頂点に立ち、導き、彼らの誰よりも美しい花を纏う天上人。
王家の滅亡は即ち“花咲き”の滅亡であり、だからこそ彼らは守られ、崇めたてられる。
先日、“花咲き”の最後の王家が滅び、全ての“花咲き”がその命を絶やした。
生まれて直ぐに死んだと思われていた王家の直系の王女が、父王を討ち取り、そして最後に自身の命に手をかけることで、これまでの残酷で美しく何よりも醜いその歴史に終止符を打ったのだ。
その美しい幕引きに、多くの人が彼女を悼んだ。
そして、感謝した。
歴史の汚点になり得る彼らを滅ぼしてくれた、その勇気に。
しかし、多くの人が彼女を称賛する中、彼女の全てを知っていた少年は一人後悔と絶望に苛まれていた。
「リア…僕は君が生きてくれさえすればそれで良かったんだ…。」