黒猫と死神
ほとほとと、戸をたたく音がする。
障子戸を開けてやれば、黒猫が器用に尾っぽを振って、戸を叩いていた。
「艶子。用事は済んだのかい?」
気前良く部屋の中に黒猫を招き入れて、壮太はまた障子を閉めた。
母屋から裏庭に面したこの小さな離れ屋は、壮太の部屋になっている。住人は、壮太と灯子のみである。元々、円家の茶室であったのを、先代が新しい茶室を建てた為に放置されていた。それを、どうせ使わないならと、壮太が自分で掃除をして自室にしてしまったのだ。
主人も女将も、取り壊してしまうのももったいないから、自分で管理するならと、この茶室は壮太専用になっている。
他にも、母屋に住んでいた頃は、壮太の部屋の周辺は、廊下から何から彼の絵や絵の道具やらで散らかって、収拾がつかなかったという理由もあった。
「相変わらず凄い部屋ね」
少女の声が、どこからともなく聞こえた。
「そりゃ、僕の部屋だからね」
壮太は、どこにも姿の見えない少女の声に、慣れた風に答える。
言葉通り、壮太の茶室は、母屋に住んでいた頃と変わらず、絵の道具と自作の絵で溢れている。それでも、母屋の頃よりはきちんと整理されるようにはなっていた。
「壮太様?居ます?」
また、少女の声。先ほどとは違い、今度はおみよの声だ。
「うん、居るよ」
壮太が答えれば、すい、と、戸が開いて、盆を持ったおみよが入って来る。
ここは茶室なので、入り口が低い。なので、正式な入り口を使って出入りするのは猫の艶子くらいで、皆庭に面した大きな縁側から障子を開けて入ってくる。おみよも例外ではなかった。
「壮太様、戸くらい開けてくださいよ。両手塞がってるんですから」
「おみよなら、器用だから大丈夫だろう?」
「そんなんだから、壮太様は文吉に嫌われるんですよ?」
ぷん、と、頬を膨らませて、おみよが持って来た盆を、室内ではなく縁側にわざと置く。
「おや?」
そのまま室内の文机に座ろうとしていた壮太は、振り返って様子を伺った。
「意地悪には意地悪でお返しです」
べっと、舌を出して足早に帰ろうとするおみよに、壮太はくすりと笑った。
「ごめんよ、おみよ」
「知りませーん」
振り返らずに、さっさとおみよは見えなくなってしまった。
「怒らせちゃった」
「だいたい、冷たいのよ壮太は」
また、少女の声。おみよではないその声は、壮太の背後から。
「そうかな?」
「あたしに優しいのは当然だけど。女の子には気を使ってあげなさいよ」
ちらりと、壮太が振り向いた視線の先には、猫の艶子。
「僕は気を使っているつもりだけど?」
「あら、そう」
「だって。あのぷっくりとした顔、可愛いと思わなかった?」
「・・・・・・性質が悪いわ」
壮太の目の前で、猫の艶子はしゅるりと体を伸ばした。
伸ばした腕は白く細い人の腕に。長い尻尾はスカートの中に隠され。目の前に現れたのは、枝垂桜の川縁で、壮太と共にいた、おかっぱ頭に黒いワンピースの少女。
「おみよが帰ってくれないと、艶子がお喋りできないだろう?」
見慣れた風景なのか、壮太は驚きもしない。
「へえ?だからって怒らせる必要はないと思うわ」
ぱさりと、髪をかきあげる仕草は、年齢よりも、その名の通り艶やかだ。
「大丈夫、おみよは優しいし可愛いから」
「・・・・・あんた、そんなだから文吉に嫌われるのよ」
平然と、誰だって赤面してしまいそうな言葉を吐くのは、この男の悪い癖だ。
「だって、本当のことなのに。艶子は美人さんで可愛いよ」
当の本人を目の前に、悪びれも無い。
「死神捕まえてそんなことを言う人間は壮太くらいよ」
「死神だって人間だって、美人で可愛いというのは本当だからね」
そこまで断言されれば、自分を死神だと言った少女は、流石に頬を赤らめた。
「ほら、可愛い」
にっこりと、微笑まれれば、ある種の諦めの溜息しか出てこなかった。
死神。
それは人であれば誰でも怖れを抱く存在だ。それを捕まえて、美人だの可愛いだのと言っている壮太は、肝が据わっているのか、それともただの阿呆なのか。
何にしろ、猫にも人にもなれるこの少女を相手に、普通に接していられるのだから、変わり者には違いがない。
「で、どうだったのかな?」
壮太が、艶子を縁側から室内に招き入れ、ついでに朝食を抱えて部屋の真ん中に置く。
温かい味噌汁から湯気が立ち上った。
「やっぱり憑いていたわ。まったく、壮太がいながら、どうしてこんなことになっちゃったのかしら。面倒なことこの上ないわ」
「仕様がないじゃない。僕の絵を見て、文吉が美人だって言っちゃったんだもの」
ずず、と、味噌汁をすすって、朝飯を旨そうにぱくつく壮太の脇に、灯子が寄り添う。
「灯子に心配を掛けている様ね」
「灯子は僕の彼女だもの」
飯を食らう壮太の正面に正座して、艶子は壮太の画板を取り上げる。
画板に挟まれたままの絵を目の前に掲げてみれば、川辺に立つ枝垂桜の下に、ぽっかりと人の形に抜けた白い部分が浮いている。
「もったいないわね」
眉間に皺を寄せる艶子に、壮太が食べ物を飲み込んで首を傾げた。
「何が?」
「あんたの絵よ」
ぽっかりと白いそこには、ちゃんと人物が描かれていたはずだ。
臙脂の着物に玉簪の、少し背の低い。
「だって、抜け出ちゃったのだから」
「それで今、文吉と一緒なのよね」
壮太は常人には見えないものを見る目を持っている。それをこうして絵に写してしまうのだが、この絵も不思議な力を持っていた。
「幽霊を写し取って、絵にしてしまえるのに、肝心の絵が完成する前に、絵に写した場所から幽霊がいなくなってしまえば、写し取った幽霊も消えてしまうのは、便利なのか不便なのか分からないわね」
艶子が画板を床の上に放り投げて、壮太を見やる。
壮太は口に入れた肉の入った餅を飲み込んで、最後に茶をすすった。
「ま、全部写し取って、絵にしてしまえば、霊は束縛されてしまって、艶子の良い餌食になってしまうからね」
とん、と、茶碗を盆の中において、ご馳走様、と言って、誰にともなく頭を下げた。
「餌食って、人の悪い。私は仕事をしているだけよ」
つん、と、艶子が睨む。
「死者の魂を冥土に送る仕事っていうのも、大変だろうに」
「だって、私は死神だもの。死神がいなくなったら、この世は幽霊で溢れ返るわよ」
「ああ、それはいただけないね」
本当にそう思っているのか、ぞんざいに食器を盆の上で片付けながら、壮太はのほほんと答えた。
ぷう、と、艶子の頬が、風船みたいに膨らむので、つい、壮太は笑い出す。
「艶子は猫でいるより、人の形を取っていたほうが可愛いよ」
笑いながら、そんなことを言う。
「死神に向かって可愛いなんて言う人間は、お前くらいのものよ」
先程と同じ言葉を繰り返して、呆れてため息をつきながら、艶子は自分が放り投げた画板を、もう一度手に取った。
壮太の部屋には、この画板に挟まれた絵のように、一部分がくり貫かれたみたいに白い絵が沢山ある。
もちろん、ちゃんと完成している絵もあるが、何せ描かれているのは幽霊だ。人にあげるにも、展示するにも縁起が悪くてどうしようもない。
時たま、遺族に会えば、渡してやるくらいのものだろうか。
そういったわけで、壮太は画家になる気はまったくないらしい。
「あんたも、幽霊以外の絵を描けば、売れるかもしれないのに。物好きよね」
「幽霊を描くのは、奥が深くて良いのだよ」
「そういうものかしら」
にこにこと、暢気風に笑っている男を目の前に、死神の少女は眉間に皺を寄せた。
「まあ、私はあんたのおかげで仕事が捗るから、文句は言いませんけどね」
「そう?」
「そりゃあね。普通なら死者を探してうろうろしなきゃいけなかったのを、あんたが見つけて絵に写してくれるから、捕まえやすいもの」
壮太が見つけた幽霊を絵に写して束縛し、死神の艶子がそれを狩って冥途まで連れて行く。
二人はそんな間柄だった。
まあ、今回のように、絵が描き終わる前に対象である幽霊が誰かに取り付いたりしてしまえば、こうして逃がしてしまう事になるので、不便といえば不便でもあった。
「でも、今は面倒なことになったわ。どうしようかしら」
艶子は腕組みをして、首を捻る。
くうん、と、灯子が鳴いて、壮太に鼻面を押し付けた。
「灯子が手伝ってくれるって」
その灯子の頭を撫でながら、壮太が艶子に向かって笑って見せたが、艶子の眉間には皺が寄った。
「犬は確かに魔除けになるけどね。どうやって灯子に手伝わせるの。大体灯子は壮太から離れないでしょう」
「うん、そうだな」
壮太も首を捻って、思案気な顔をした。
「文吉に憑いている幽霊に、灯子が突っ込んでいくのはどうだろう?」
真面目な顔で何を言い出すのか。
艶子は盛大に、肺中の空気を使って、全身から溜息を吐き出した。
「灯子と文吉が可哀想でしょう」
「でも、驚いて文吉から彼女が離れてくれるかもしれないよ?」
「そうかもしれないけど」
艶子は灯子を見やった。
白くて、耳だけ茶色い、雑種犬の灯子は片時も壮太から離れない。
壮太の言うとおり、まるで恋人だ。
中型で、大きなくりくりとした眼は、犬特有のつややかさで潤み、なんとも賢そうで、実際賢い。
「ねえ、灯子。あんたなんでこんなのの傍が良いの?」
艶子が言えば、灯子は抗議するようにワン、と吠えた。
「人型なら、さぞかし美人だと思うのよ」
「灯子は美人だよ」
「はいはい」
灯子の頭を撫でながら、壮太は真面目な顔で言う。
「貴方達が相思相愛なのは解ったから。それより、文吉のほうが問題でしょう?」
「あはは。文吉はお人好しだからね」
世間話みたいに緊迫感の無い壮太の話し方に、艶子は眉間に皺を寄せる。
壮太に会えば、艶子は皺を寄せてばかりで、そのうち元に戻らなくなりそうだ。
「そもそも、何で文吉に憑いちゃったのよ」
問題はそこだ。
枝垂桜の下にいた女の幽霊が、どうしてあんな小さな子供に憑いてしまったのか。
「だから、文吉はお人好しだから」
「・・・・・・・言っている意味が解らないから、もうちょっと詳しく説明してもらえるかしら?」
要領を得ない答えをされて、艶子はふう、と、息を軽く吐く。
人間の癖にこの男は、死神相手に、にこにことばかり、笑っている。閻魔様の前でも、同じ調子なのだろうという確信が持てる。
「僕の絵を、文吉が見てしまってね」
「ふうん?」
「何て言うのか。多分ちゃんとは見ていなかったと思うのだけど、どういうわけか文吉の奴、綺麗な女性だ、って言ってしまってねえ」
壮太は、顎をさすりながら先ほどの川縁での、文吉とのやり取りを思い出す。
「僕が描いていたのは、彼女の後姿なのだから、顔なんか分かる筈もなかったのだけど」
実際、文吉とて当てずっぽうで言っただけのことだったのだが、此れがまずかった。
「彼女は文吉の一言に、随分と嬉しそうだったよ」
艶子はその場にばたりと倒れた。
「・・・・・・力が抜けたわ」
「おや。じゃあ、新しいお茶を持って来ようか?」
「是非そうして頂戴」
黒い瞳をきろりと動かして、壮太をねめつける。
壮太は、おみよが持って来た盆に食器を乗せて立ち上がると、灯子を伴って、母屋の方へと出て行った。
今回の標的は、入水自殺したお静という木綿問屋の女中なのだが、此れが憐れな死に方だった。
もともと働き者ではあったが器量がよろしくない女で、醜女とまではいかないが、まあ、おおよそ自分の顔に自信が持てるものではなかった。
本人もそれをちゃんと自覚していて、せめて身なりだけはと、常に小綺麗に化粧をし、着物もきちんとして、つつましながらも努力をしていた。
そんなお静に、店の旦那が結婚話を持ちかけた。
元々良く働いて気も利くし、美人ではないが良く出来た娘だったので、相手先の店の、頃合の良い若衆と娶わせようとしたのだった。
しかし、相手が悪かった。
見合いをするというので、相手の店の主人が、こっそりお静を見に来た事があった。それで、木綿問屋の主は何の気もなく、お静をそのまま紹介したのだが、相手はお静を見るなり怒り出した。
「そちらが良い娘がいるというので、こちらはうちで一番の若者を出すつもりでいたのに、あの醜女とは何事か!」
その怒鳴り声が、お静に聞こえてしまった。
自分の事だと悟ったお静は、そのまま泣きながら店を飛び出し、翌日。
あの、枝垂桜の下で、水死体となって発見された。
木綿問屋は大いに怒り、相手の店をとことん追い詰めて破産までさせたらしいが、お静は浮かばれずに幽霊となってしまった。
「事の顛末はそういう事だから、美人と言われて、本当に嬉しかったんでしょうね」
「相手の店は潰れて、木綿問屋は命日には必ずあの枝垂桜の下に、供え物を持って来るらしいのだけれど。気にしていた分、彼女は余程傷ついたのだろうね」
からり、と、自分で閉めて出た障子を、今度は開けて、左手に湯飲みと急須の乗った、先程と同じ盆を持って、壮太が帰って来た。縁側にはやかんが置いてある。障子を開けるために、一度置いたのだろう。
下駄を脱いで上がると、やかんも持って部屋の中に入る。
もちろん、傍には灯子。