4時間目 過去に横たわるトラウマ
私がユキに告白したのは、中学三年生の夏のことだった。
あの時のユキって、本当に張り詰めた糸みたいでね。
大好きだった体操もすっぱりやめちゃって、ルキア君の面倒を見ながら家事に勉強にって……。
みんなで心配したわ。
いつか本当に、雪みたいに溶けて消えちゃうんじゃないかって。
本当は寄り添って、助けてあげたかった。
ユキが無理矢理孤独になろうとしてるって分かってたから、絶対にユキを孤独になんかさせないって。
最初はみんなでそう決意してたの。今思えば、友達を支えようとする自分たちが物語のヒーローみたいで、そんな自分たちに酔っていたのかもしれない。
それでもよかった。
私たちはユキが大好きだった。前みたいに、一緒に笑って過ごしたかった。
その気持ちだけは本物だった。
だからきっと、いつかはこの気持ちがユキに通じるって。
無邪気にそう信じられたの。
でもね、時間は残酷なの。
中学生になって成績を気にしなきゃいけなくなって、忙しさに慣れてきたと思ったらもう受験のことを考えなきゃいけないわけでしょう。
初めての経験ばかりで戸惑うのに、進路選択と受験へのタイムリミットは待ってなんかくれなくて。
余裕がなくなった私たちの関係は、長い時間をかけて少しずつ壊れていった。
笑っちゃうでしょう?
みんなで固く決意したのはなんだったのって呆気に取られるくらい、壊れていくのは簡単だったのよ。
お前なんかもう知らないって、ユキに直接絶縁を叩きつける子もいた。
ごめんねって、自分には無理だって泣く泣く諦めた子もいた。
何も言わないまま、ユキとも私たちとも距離を置く子もいた。
中には、しぶとくユキの傍にいようとする私やコネリーにもうやめなって言う子もいた。
そして私は、友達にそう言われるほどに意固地になってたんだと思う。
だって、私は知ってたんだもの。
友達が一人減る度にユキが悲しそうな顔をしてて、でもそれと同じくらいほっとした顔をしてたこと。
それに、みんなに一貫して冷たい態度を取り続けるユキが、ルキア君の前ではとっても優しそうに笑うのよ?
本当は昔から変わらず優しいくせに、何か理由があってわざと冷たくしてるだけなんだって、簡単に分かるじゃない。
放っておける?
放っておけるわけないじゃない。
私がユキの一番の理解者になってやるんだって思った。
だから、ユキが嫌がることは徹底的に避けた。ユキが触れてほしくない話題には、絶対に触れなかった。ユキが倒れたことがおばさんに伝わらないように、先生に手を回したこともあった。
そしたらね、ちょっとだけユキが気を許してくれるようになったの。いつも手負いの獣って感じで周りを警戒するユキが、私を見る時だけほっとしてくれるの。
嬉しかった。
ユキが私のことだけは受け入れてくれる。
なら、ユキには私がついていればいい。
私だけが特別でいい。
その方がいい。
あの時は、自惚れて舞い上がっていたの。
だって、私はずっとずっとユキが好きだった。好きな人の特別になれてることが、本当に嬉しかった。
だからきっと―――欲が出た。
ユキは、私にはきつく当たってこなかった。
でも、決して私に頼ってはこなかった。受け入れてくれているのに、必要とはしてくれなかったの。
それが切なくて、今の関係のその先を求めてしまった。
自慢じゃないけど、あの時のユキはきっと私のことを好きでいてくれてたと思う。そう思える自信があったの。
だからユキに私のことが好きなんだって自覚させれば、自ずとユキは私のことを必要としてくれるんじゃないかって思った。
それでちょっと踏み込みすぎて喧嘩になっちゃって、勢いに任せてつい言っちゃった。
―――あなたのことが好きなんだって。
でもそれを言って、ユキの怯えた顔を見た瞬間に悟った。
ユキが無理に周りを拒んでいた本当の理由と、ユキを変えてしまったものの正体を。
そして、自分の浅はかさがユキとの関係を一気に壊してしまったことに気づいた。
本気でユキの傍にいたいなら、あの言葉だけは言っちゃいけなかったのに……
★
「逃げていったユキを、私は追いかけられなかった。ここで追いかけたらユキの何かが壊れるって、私もそこで怖じ気づいちゃったの。それからはまとも目も合わせられないまま、ユキはユリアに、私は海外にって……お互いに逃げ合ったわ。」
川沿いに伸びる小道を歩きながら、ティアは訥々とユキとの間に起こった出来事を話してくれた。
彼女は特に宛もなく砂利道を進んで、ふと目についた橋に足を踏み入れた。徐々に足を動かすスピードを緩め、橋の真ん中あたりでピタリと歩みを止める。
穏やかに流れる川の水面を見つめるティアは、ここではない遠くを見るよう。
相当つらい出来事を話させてしまった。
言われるまでもなくそれが伝わってきて、隣に並んだナギは黙らざるを得なかった。
「きっとね、ユキは〝好き〟って気持ちが怖いんだと思う。誰かに好きになられるのが怖くて、それ以上に、自分が誰かを好きになることが怖いんじゃないかしら。」
ティアの口腔から、悲しい言の葉がひらひらと落ちていく。
そうか。そういうことなのか。
ならば、ここ最近のユキが事あるごとに怯えた顔を見せることにも納得がいく。
自分はユキが一番で、ユキしかいなくて。
そんな自分の言動には、抑えきれない気持ちが溢れていたと思う。
ユキが大好きだって、そんな気持ちが。
ナギは目を伏せる。
日に日にユキとの関係がどこかぎこちなくなっていくように感じるのは、自分がユキを好きだから?
自分の気持ちが大きくなるほどに、ユキは自分から離れていってしまうの?
自分が今一番大事にしている気持ちが、今一番大事にしている人を傷つけてしまうなんて。
「……どうして…」
思わず本音が零れた。
そして、それを聞いたティアの雰囲気が一変する。
「どうして、ですって?」
ティアはキッとナギを睨む。
「あなたね、ユキのことが好きなら少しは察しなさいよ。ユキは、一度そういう相手を亡くしてるのよ⁉」
言われて思い至るその事実。
「……あ…」
かなり遅れて両目を見開いたナギの反応は、ティアの琴線をさらに刺激してしまったようだった。彼女はより一層険しく眉を寄せると、呆気に取られているナギの二の腕を掴んで強く揺さぶった。
「コネリーたちと話したんでしょう⁉ だったら聞かなかったの? ユキが、どれだけお父さんのことが好きだったのか…。一番大好きだった人が急にいなくなっちゃった……それが、ユキのトラウマの全てなのよ⁉ お父さんが死んでからユキは変わっちゃった。自分の全部が変わっちゃうくらい、お父さんの死はユキにとってつらいことだったの‼ だからっ…」
込めた力のあまりに震えるティアの両手。
「だから……好きな人を作るのが怖いんじゃない………」
俯いた彼女の髪の向こうで、きらりと光るものが落ちていった。
(そんなこと、言われたって……)
ナギはティアに向けられる言葉を持っていなかった。
もちろん、ユキが父親を亡くしていることは知っている。でもそれがユキを苦しめる恐怖の根幹に横たわっているだなんて、高校時代のユキしか知らない人たちは誰も気づいていないはずだ。
だって、そんな素振りなどユキには一切なかった。
誰かに父親の話題を振られても嫌がらなかったし、父親のことを語るユキは特につらそうでもなんでもなかった。
もう過去の事として吹っ切れているんだって。
どこからどう見たってそう思うじゃないか。だから自分も、ユキが父親を亡くしていることと、ユキが好きという感情が怖いことを、それぞれ別の問題としてしか捉えていなかった。
でも、本当は違うの?
それなら、自分たちが見てきた今までのユキは一体何?
急に世界が一変した気がして、途端に自分の考えに自信がなくなってしまった。
「あなたが正論を振りかざすのは勝手よ。でもね!」
ティアが顔を上げ、涙目でナギをきつく見据えた。
「正論がいつも正解だなんて思わないでよね! あなたがこの後何をするのかは知らないけど、もしその正論でユキのことを壊したら絶対に許さないから!」
お願い、ユキを壊さないで。
私からユキを取り上げないで。
ティアの悲鳴が聞こえてくるようだった。
そして、自信をなくしたタイミングでそう言われたことはひどく心に響いてしまって。
(どうしよう…)
ナギは眉を下げる。
(また、わかんなくなっちゃったよ……)
心が再び闇に囚われてしまった。