2時間目 過去に捨ててきたものは―――?
「え…海外に行った?」
トモから話を聞いたユキは、パチパチとまばたきを繰り返すことになった。
今朝はやたらと隣が静かだなと、登校してすぐに違和感を持った。
一応ホームルームまで待ってみたが、ナギが教室に姿を現すことはなく。トモに話を振って返ってきた答えがこれだったのである。
「うん。急に人と会うことになったから、三日くらい出かけてくるって。……あれ、ナギから聞いてないの?」
ユキの様子からそれを察したトモが、それはもう意外そうな顔をする。
「う、うん…」
首を縦に振ってトモの言葉を肯定したユキに、トモはさらに目を大きくした。
「珍しいね。ナギがユキに何も言わないで出かけてくなんて。まあでも、ナギもなんか慌ててたみたいだしなぁ。出かける前に会ったのが、たまたまおれだったのかもね~。」
トモの暢気な言葉は、ユキの耳に入っていなかった。
ざわりと胸をなでる不快感。
ナギにだって都合があるだろうし、別に自分もナギの予定を一から十まで網羅していたいわけじゃないけれど。
トモに伝える余裕があるなら、自分にだってメールの一つくらい寄越したっていいじゃないか。
(……って、オレはガキかよ。)
ちょっとでもそう思ってしまった自分が情けない。
できるだけ動揺を表に出さないようにするユキだったが。
「ユキ、なんだか面白くなさそうだね?」
トモに鋭く突っ込まれてしまった。
無駄な場面でことごとく目ざとい奴め。
顔を渋くせざるを得なくなったユキに、トモはにやにやと口角をあげている。
「ユキさん、もしかして拗ねてます?」
「違うって。」
やめてくれ。
自分の子供っぽさに自分で嫌になったところだったのに、他人にまで指摘されたら余計にへこむ。
「じゃあ、何をそんなにむすっとしてんの。」
「別に…。ずっとオレに一声かけてから出かけるのが普通になってたから、ちょっと妙だなって思っただけだよ。」
「ふーん…まあ確かにね。」
一度は納得したように頷くトモだったが。
「やっぱ拗ねてんじゃん!」
次の瞬間、ころっと態度を元に戻してきた。
「だから違うって!」
「ええ~、顔が赤いんですけど~?」
「お前が妙な煽りしてくるからだろ⁉」
抗議するも、こちらの態度を完全に照れ隠しだと思っているトモは、さらにふざけるだけだった。
「いや~ん、可愛い。ユキがデレてる~♪」
「お前なぁ…っ」
体を熱くするのは、羞恥なのか怒りなのか。
思わず胸倉に掴みかかったユキに、トモは笑みを絶やさなかった。
「いやいや、からかってるわけじゃなくて、純粋に嬉しいのよ?」
「どの面下げて言うか。」
「ほんとだってば。」
ふとそこで、トモの笑顔の種類が変わった。
「ユキってさ、基本的に誰のプライベートにも関わろうとしないでしょ?」
「………っ」
唐突に図星を突かれて、勝手に手が震えた。
「あ、違うよ? それが悪いって言ってるんじゃなくてね。」
ユキの微かな反応にしっかりと気づいていたトモは、すぐに手を振りながらそう断りを入れた。
「ちょっと心配だったんだよね。ユキはいっつも一歩引いたところで大人になってて、周りの甘えを何も言わずに背負っちゃってさ。じゃあ逆に、ユキは誰に甘えられるんだろうなって…。ユキには素の自分でいられるくらい、気を許せる誰かがいるのかなって。そもそも、そういう相手を作る気あんのかなって思ってたんだよね。」
「……そんな、心配させるような態度だったか?」
嫌だ。
聞きたくない。
そんな風にざわめく心を抑え、カラカラに渇いた喉で平静を装って問いかける。
「全然。でもね、だからこそ心配だったの。このまま、どんな時も一人で平然と立っていられちゃう子になっちゃうんじゃないかって。」
「それって、お前に何か不都合あるのか?」
一人で事足りるなら、それに越したことはないじゃないか。
何故わざわざ、トモがそれを気にする?
「もう…そういうところは可愛くない。」
ユキの言葉を受けてどこか不服そうに唇を尖らせたトモは、自身の胸元にかかるユキの手に自分の手を重ねた。
「あのね、一人でずっと立ち続けるなんて、どう考えたって無理でしょ? 一体どこで肩の力抜くの? つらい時、どうやってそれを吐き出すの? 大事な友達がそんなんだったら、心配するに決まってんじゃん。損得勘定の話じゃないよ、これは。」
大事な友達。
その言葉が恐怖を伴って響いた。
ああ、そうか。
トモにとって自分は、覚えきれないほどいる知り合いの一人なんかじゃないのだ。
ナギとは別の意味で、彼は自分のことを特別に想っていてくれている。
だからこんなにも自分のことを見ていて、何度も自分に言ったのだ。
一人で踏ん張るな、と。
今さらのように感じ取ってしまったトモの気持ち。
それが、一気に目の前の風景を歪めていく。
どうしよう…。
―――トモのことが、ナギと同じくらい怖い。
「……とまあ、そういうわけでね。おれとしては、ユキがそうやってナギのことを気にしてくれて、ほっとしてるんですよ?」
こちらの動揺に気づいていないのか。
あるいは、気づいていてあえて止まらずにいるのか。
トモはさらに話を続けた。
「創立祭の時にはずっと部屋に泊めてたみたいだし、夏休みに遊びにも行ったんでしょ? ナギにはそれなりに気を許してるみたいじゃん。」
「………っ!」
身を強張らせるユキ。
ナギの名前を出されたことで、内側で抑える恐怖が倍増してしまった。
「いいことだと思うよ? 一人くらいは腹割って話せる相手がいないと。ほら、やっぱユキとナギって相性いいじゃん。おれってよく見てるー♪」
おちゃらけて笑うトモ。
本来なら、ここで冷静にあしらいながら一発殴ってやるのがいつもの流れ。
頼む、動いてくれ。
脳は必死に信号を送るのに。
それなのに、恐怖で凍りついた体は一ミリも動いてくれなくて…。
「―――ユキ。」
トモの声音が変わる。
嫌な予感がして、逃走本能からとっさに身を引きかけた。
離れていこうとしたユキの手を、すかさずトモが捕らえる。
「ユキ。そこ、踏ん張りなよ。」
一歩踏み込んだトモの言葉。
それに、頭が真っ白になった。
抑えきれない恐怖が、瞬く間に鼓動を早く大きくしていく。
血が勢いよく体内を駆け回り、耳障りなノイズが聴覚いっぱいを満たす。
「今、ナギとかおれのことが怖いんでしょ?」
胸に痛すぎるその指摘に、ユキはわなわなと唇を震わせた。
ノイズを貫く鮮明さで響くトモの声を、心が全身全霊で嫌がっているのが分かる。
トモの声と心の悲鳴に挟まれておかしくなりそうだ。
「おれには、ユキが何を抱えてるのかまでは分からない。でも、怖いって思ってる今がそれを乗り越えるチャンスでしょ!」
嫌だ。
そんな風に言わないで。
なおも身を引こうとするユキに、トモが掴んだ腕を強く揺さぶった。
「ここまできたなら逃げないで! きっとあと一息なんだ。今乗り越えないでどうするんだよ!」
聞きたくない。
これ以上はだめなんだ。
これ以上は……
「今すぐになんて言わない。ゆっくりでいいよ。おれはどんなユキのことも見捨てない。だから、ユキも一歩踏み込んできてよ。あと一歩でいいんだよ。」
怖い。
そんな優しく、自分の心に寄り添おうとしないで。
特別な気持ちを向けないで。
来ないで。
来ないでくれ…
「ユキ! しっかり! 全部ぶっ壊してからじゃ遅いんだよ‼」
―――これ以上は来るな‼
「うるさいっ‼」
衝動的に体が選んだ道は拒絶。
ユキは力強くトモを突き飛ばし、ふらふらとよろけるようにトモから距離を取った。
「もう……手遅れなんだよ。」
泣きそうな顔でトモを睨むユキ。
「オレは、もうすでに……全部ぶっ壊してきたんだ。何もかも、捨ててきたんだよ…。」
「ユキ…?」
「オレは…オレ、は……」
ユキは自分の口元を覆う。
ひどい吐き気がする。
平衡感覚がおかしくなって、視界がぐにゃりと歪む。
とにかくここにいたくない。
ついに耐えきれなくなって、ユキはその場から全力で逃げ出した。
「ユキ!」
驚いたトモはユキを追いかけようとしたが、その時にはユキの姿は遥か遠く。
「ユキ……」
あっという間に消えていった友人を見送るしかないトモは、悲しさや切なさがない交ぜになった表情で眉を下げた。
★
ああ、そうだ。
かつて、自分は全てを壊す選択をしたんだ。
思い出したくない記憶が脳内を駆けずり回って、ざわざわと心を責め立てる。
自分に近づいてほしくなくて、ずっと傍にいてくれた友人たちの手も、ティアの手ですらも払いのけてきた。
そうしなきゃいけなかった。
全部なくしてしまえと思った。
そうして全部を拒絶して―――自分を知る人間がいない世界へ逃げた。
でも、自分をそんな行動に走らせた〝何故〟が出てこない。
幼かった自分が過去に捨ててきたものは、一体何―――?