20時間目 これは、そう選んだ皆で背負うもの
気づけば、診察時間も終わって人が全然いなくなった廊下の隅で、怯えた子供のように小さくうずくまっていた。
なんで自分はこんな所にいるんだっけ?
無我夢中でナギを抱き締めた後の記憶がひどく曖昧だ。
頭の中がぐちゃぐちゃで、とにかく病室にいるのがつらくてたまらなくて。
さっさと戻らないと、ナギやトモに心配をかけてしまう。
そうは思ったが、体が全然動かなかった。
それに、彼らに合わせる顔もない。
このまま、いっそ消えてしまえたらよかったのに……。
「ユキ、こんなとこにいたの。心配したじゃん。」
頭上からトモの声が降ってくる。
想像以上に優しかったその声を聞いた瞬間、建前も意地も何もかもが瓦解してしまった。
「……だ…」
「え…?」
「オレのせいだ…。オレが…ナギを追い詰めた……」
「………」
空気に溶けてしまいそうなユキの言葉に、トモは何も言わなかった。
しばらくユキを見下ろしていたトモは、やがてゆっくりとユキの前に膝をつく。
「手…冷えきっちゃってるじゃん。よっぽど怖かったんだね。」
トモはユキの手を優しく自分の両手で包んだ。
「どう? 思い出したの?〝好き〟が怖い理由。」
「ああ…ほんとに、ついさっき……」
「そっか……」
トモは静かに相づちを打つだけだ。
「強くなんなきゃって…必死だったんだ。オレが折れたら、今度こそ全部壊れるって思ったから。」
「うん。」
「強くならなきゃいけなくて……そのためには、好きって気持ちはいらないって思った。」
「うん。」
「だって好きって気持ちは、あんなに人を壊して弱くするんだ。オレは、そうなるわけにはいかなかったんだ。なら、誰も好きにならなければいい。誰も、オレのことを好きにならなければいい。そうすれば、きっと誰も傷つかない。」
ユキは体を震わせる。
あの日から、自分の世界は一気に変わった。
遅れて病院に駆けつけた祖母は、自分を怒らなかった。
怒れなかったのかもしれない。またサヤが怒られるんじゃないかと思った自分は、祖母と目が合った瞬間に彼女をきつく睨んだ。
母さんを怒るなと態度で訴えた自分に、祖母は明らかに対応に困っていたようだった。
あれから自分は祖父母を説得し、一人で自宅に暮らすようになった。こまめに顔を出してくれる祖父母から少しずつ家事を習い、ユリアに進もうと決めてからはがむしゃらに勉強をしまくった。体操もやめて、学校が終わったら毎日病院に通った。
そうしてサヤを支える一方で、自分は徐々に家族以外の人々を切り捨て始めた。
人を好きになるのは難しいことも多いが、人を嫌いになることは案外簡単だ。
だからきっと、今からでもまだ間に合う。いっそ互いに嫌いになってしまえれば、自分も周りも壊れずに済む。
そう考えてのことだった。
でも最初は思うように友達を嫌うことができなくて、ひどい言葉を叩きつけては一人で罪悪感に耐え続けていた。
謝ることも許されることもできずに積もるだけの罪悪感は心を侵食し、窮屈で苦しい毎日に息が詰まるようだった。眠れない日も多かったし、食事もまともに喉を通らなかった。その苦痛をごまかすように、家事や勉強にさらにのめり込んだ。
そんな毎日が一ヶ月、三ヶ月、半年、一年と過ぎていって。
どうにかこの苦しい日々にも慣れた頃、たまたまテレビで見かけたのがナギだった。
周囲に差し障りのない笑顔を向けながら、本当は誰にも興味がない。誰がなんと言おうと、どう思っていようと気にも留めない。
そこにあったナギの姿は、ある意味自分の理想そのものだった。
だからあんなにもナギのことが嫌いだったんだ。
周囲を一切気にしないナギが羨ましくて、だけどそんな彼の態度がどうにも許せなくて。
今だったら分かる。
初めてナギを押し倒してしまったあの夜、自分の中にあったのは劣等感と羨望から来るどす黒い衝動だったのだ。
なんでお前は、そんなに平然として他人を傷つけることができるんだ。
お前も思いきり傷ついてしまえ。
お前も一度、自分と同じ―――他人を傷つける苦しみを味わえばいいんだって。
懐いてくるナギをうざったく感じながらも彼を放っておけなかったのは、自分も気づかないところで、あの状況に満足している自分がいたから。
ああ、そうだ。そうやって自分に懐いて、自分を傷つけたことに苦しめばいい。
ナギに懐かれたせいでとばっちりを受けてもなんとなく許せたのは、それで自分に怒られて落ち込むナギを見るのに、気をよくしていたのもあったんだと思う。
『こんなことになるまで意地張って一人で踏ん張って……そんなにナギに力を借りるのが嫌⁉ そんなにナギのことが嫌いなの⁉ ナギのせいで自分が死んだらいい気味だって、まさかそんな馬鹿なこと考えてんじゃないよね⁉』
去年入院した時にトモにぶつけられた言葉が、今さら胸を抉ってくる。
あの時は彼の言葉を即行で否定したが、実はあの言葉が一番自分の本音を突いていたんだ。
そんな自分の汚さにも気づかず、その大本にあるトラウマのことも忘れたまま、自分はナギに押されるがまま彼をどんどん自分に近づけて。
「オレは馬鹿だ…」
周りを傷つけないようにと距離を保ってきたのに、嫌いだったナギだけは傷つけてやりたくて、だから自分はあえて近づくことを許したんだ。
それで近づいてくるナギにトラウマを刺激されて、怖いと思いながらナギに惹かれて惚れてしまって、そうなってから本気でナギを拒絶して傷つけて、自分のことすらもめちゃくちゃに追い込んだ。
こんな情けない話なんてない。
「ユキ…」
トモがそんなことはないと言いたげな声でユキを呼んだが、ユキはそれを嫌がるように首を左右に振った。
「結局……オレは、大事な奴ほど傷つけてばっかだ。オレが……オレがもっとしっかりしてれば…」
「―――ユキ。」
そこでトモが強くユキの言葉を遮った。
「ユキ、顔上げて。」
「………」
意思が完全にくじけてしまっているユキは、トモに言われるがままのろのろと頭を上げた。
トモはこちらと目が合うと、ぐっと眉を寄せた。
「ユキ、おれたちのことをなめるのもいい加減にして。」
「……え?」
目をまたたくユキ。
まさかそんなことを言われるとは思わなかった。
だが本人の言うとおり、険しい萌黄色の瞳は確かに不愉快そうに揺れているように見えた。
「おれはね、こうして弱音を吐き出してるユキを見てる今より、話すことなんてないって拒絶された時の方が、悲しかったし腹も立ったよ。」
「………?」
トモは何を言いたいのだろう。
微かに首を傾げるユキに、
「ユキ、あの時とはもう違うんだよ。」
トモは声を和らげて語りかけた。
「あの時は一人で立ってなきゃいけなかったのかもしれない。でも、今はおれたちがいるでしょ? いつまでも一人で背負い込んで、全部自分のせいにしようとしないで。おれは言ったよ。他人はいつだって勝手なんだって。」
静まり返った薄暗い廊下。
そこに、トモの声が幾重にも響く。
「ユキを好きになったのは、おれたちだよ。別にユキに頼まれたわけじゃなくて、自分でそう選んだの。ユキだって、ナギのことが好きだって、自分でそう認めたから踏ん張ってくれてるんじゃないの? 逃げないでいようと思ってくれてるから、ここまで来てくれたんじゃないの? 今のユキは相当しんどいと思うけど、それってナギのせいなの?」
「それは、違うけど……」
「ね? それと一緒だよ。」
トモはユキの手を握る力を強める。
「ユキのせいじゃない。ユキだけのせいじゃないよ。これは、そう選んだおれたちが全員で背負うものでしょ。」
トモが言うことは、きっと間違ったことではないのだろうと思う。
でも、一つだけどうしても納得できないことがあった。
「……で…」
ユキは唇を震わせる。
「なんでお前もティアも、オレを見捨てないんだよ…。オレは、散々みんなの気持ちを踏みにじった。全部、自分の都合でぶっ壊してきたのに……」
どうして。
どうしてなんだろう。
どうして彼らは、こんな自分に手を差しのべようとするのだろう。
それが分からずに眉を下げるユキだったが、それを聞いたトモは何故か気分を害したというように口をへの字に曲げた。
「このお馬鹿! いつもの目でちゃんと現実を見なさい!」
ユキの両肩をがっしりと掴み、トモは口調をきつくする。
「ユキはまだ、なんにも壊してないでしょ!」
「―――っ‼」
トモの力強い言葉が心を揺らした。
驚いて瞠目するユキに、トモは不愉快そうな表情で続ける。
「少なくとも、おれやナギや、そのティアって子は壊されてないよ。このくらいのことで壊れてたまるかっての。だから、なめるのもいい加減にしてって言ってんの! 馬鹿にしないでよ。ユキに守ってもらわなきゃいけないほど、おれもナギもやわくはないんだからね。」
「で、でも…」
「言い訳しない! 話は最後まで聞く!」
ささやかなユキの声は、圧倒的な力を秘めたトモの声に掻き消されてしまう。
「なんで見捨てないのかって? ユキのことが好きだからだよ。あのくらいのこと簡単に許せるくらい、ユキが好きなんだよ。」
「………っ」
それを聞いた瞬間、ざっと血の気が引いた。
ひどく怯えた顔をするユキに構わず、トモはさらに言葉を紡いでいく。
「おれたちはいつだってユキのことを許すし、どんなユキだって受け入れるよ。ユキのことを許していないのは、ユキ自身だけなんだよ。」
トモの言葉が鼓膜を震わせて、心の中にさざ波を広げていく。
自分自身。
なんだか、ティアと話した時にも同じようなことを聞いた。
「オレが…?」
「そう。」
ユキが瞼を叩くと、トモはこくりと頷いた。
「ユキ、もういいよ。ユキはもう十分頑張ったよ。もう自分に嘘をつかなくていい。もう自分のことを許してあげてもいいんだよ。それで……みんなのことが好きだって、認めてあげようよ。」
「………」
ユキは苦しげに唇を噛む。
トモの言葉を否定する力は、もう残っていない。
―――好きだよ。
ナギのことも、トモのことも、今まで出会ってきたたくさんの人たちのことも。
それぞれ一人一人に見所があって、そんな皆のいい部分を見ているのが好きだった。
ああ、ティアの言うとおり。
自分は、こんなにも単純だったんだ。
本当は、誰のことも嫌ってなんかいないよ。
だって、誰にでもいい所があるんだ。嫌えるわけがない。そんな皆が自分を頼って、自分を好きでいてくれるなら、全力でそれに応えたいと思うじゃないか。
もう分かった。
十分に思い知ったんだ。
「オレは…っ」
進まなきゃいけない。
そう思ったから、ティアの力を借りて過去を振り返ってきた。
あともう少しなんだ。
でも。
苦しい。
つらい。
「分かってるよ。」
奈落に落ちていきそうな心を、優しくて強い声が掬い上げてくれたのはその時。
思わず顔を上げると、そこではトモが柔らかく微笑んでいた。
「そんなこと言ったって、ユキにはトラウマだもん。認めるのは怖いよね。仕方ないよ。」
怖いよね、と。
そんなトモの指摘が的確すぎて、とっさに何も言えなかった。
「いいよ、怖いままで。怖いままでいいから、みんなで一緒に進もう。人を好きになることはおれたちを弱くもするけど―――その何倍も、おれたちを強くしてくれる。おれとナギでそれを証明してやるから、おれたちを信じて背中を預けてくれないかな?」
「―――っ‼」
ユキは大きく顔を歪めた。
怖いままでいいなんて。
そんなことを言われたら、何も言い返せない。
胸が恐怖で苦しくて切ないのに、とても温かくてほっと気が抜けてしまって。
〝助けて〟って―――
今まで言おうと思ったことすらなかったその一言が、ぽろりと口から零れそうになった。
「本当はこの間も、おれはこう言いたかった。突き放すんじゃなくて、こうやって支えたかったんだからね。」
自分がこの前とは違う心境で話を聞いていると、敏感に感じ取っているのだろう。
トモはどこか安心したように肩から力を抜くと、ふとそこを立ち上がった。
「ユキ、十分だけ気持ちを整理する時間をあげる。その後、病室に戻っておいで。」
突然そんなことを言われ、ユキは怪訝そうに首を捻った。
「な、なんで……」
「いいから。絶対だよ。勝手に帰っちゃだめだからね?」
きっちり最低限の釘を刺し、こちらを振り返らずに遠ざかっていくトモ。
それを、ユキは何も言えずに見送るしかなかった。




