9時間目 いざ、魔王攻略へ
「え? 試験の後にパーティー?」
それを聞いたユキは、心底不可解そうに眉根を寄せた。
「……何企んでんだ?」
次にかけられたのは、そんな疑いに満ちた言葉。
トモは唇を尖らせた。
「んもう、ユキったらひどいなぁ。なんですぐ下心があると思っちゃうわけ?」
「逆にないのか?」
「……ありますけどー。」
さすがはユキだ。想定どおり、最初からこちらの話を鵜呑みにはしてくれないらしい。
だが、こちらとてだてに学んではいない。
トモは持っていたクリアファイルから一枚の広告を取り出し、それをユキに渡した。
「それ、来年に限定販売する予定の高級ジュースなんだけどさ、親父のつてで何本か試験段階のものをもらえることになったんだよね。」
「ふーん……で?」
受け取った広告を丁寧に読み込みながら、ユキが先を促してくる。
「実はそれの受注受付兼プロモーションサイトの運営を、親父が任されてるんだよね。で、勉強にちょうどいいから、学生の感想データを集めてまとめてこいって親父に言われまして…。」
「………」
ユキは無言でトモを見つめ、次にトモの後ろにいるナギに目をやった。
ユキの視線に、ナギは可愛らしく首を傾げるだけ。
よしよし、これも予想どおりの流れ。
ユキはナギの表情を見て真偽を推し量るだろうと思っていたので、ユキを言いくるめる建前についてはナギに一切話を通していない。嘘をつけないナギの扱い方は、自分だって熟知しているつもりだ。
「ってかさ、無茶もいいとこだと思わない⁉ お前暇そうだからって、何その変な理由! おれ言うほど暇じゃないし!」
「うーん……ぶっちゃけ、オレには暇そうに見える。」
愚痴りながら詰め寄ると、ユキはそれを嫌がるように上半身をのけ反らせた。
「そりゃ、ユキに比べたら暇かもしんないけどさぁ~。でもさ、勉強だから軽くって言うわりに、ばっちり仕事には使うっても言うんだよ? 言ってることめちゃくちゃじゃない?」
「そうか? なんだかんだ、お前の実力認めてるってことじゃん。つーか、不満なら断ればいいじゃねぇか。」
「初めは断ったけどさ……あの人、できないなら別にいいよーなんて、すっごく嫌な笑顔すんだよ! ううう、人のこと下に見てー…」
「やっすい挑発に乗ってんな。」
「言わないで! 分かってても悔しいもんは悔しいんだから!」
言葉のとおり悔しそうなトモを見ていたユキは、ふと表情を和ませて苦笑いを浮かべる。
(お、ちょっと信じたね!)
このチャンス、何がなんでも逃がしてなるものか。
トモは畳み掛けるようにユキの前で両手を合わせた。
「ユキ、料理上手だし味覚センスあるっしょ? おれに手を貸してくれないかな? 飲んで感想くれるだけでいいんだ。そのついでに、パッと騒いで今までの疲れを癒しましょ?」
「なるほどなぁ…」
あと一押し。
そこで、トモはナギの背を叩いた。
(ナギ、とどめ!)
アイコンタクトだけで訴える。
するとあらかじめ示し合わせていたとおりに、ナギがユキの前に進み出た。
「ユキ……だめ?」
「え…?」
ナギがユキの手に自分の手を重ねると、ユキが面白いくらいに弱った顔で固まった。
「試験が終わるまでは、絶対に邪魔しない。できるだけ我慢するようにするから……だめ、かな?」
「いや、だめってわけじゃないんだけど、もう少し後でも……」
「………」
途端にナギがしゅんと眉を下げる。
ユキさん、あのナギがこれから一ヶ月以上もあなたの邪魔をしないように我慢するなんて、相当な無理ですよ? 試験が終わった後、何日も待てると思います?
目の前に人参がぶら下がってないと頑張れないことくらい、その潤んだ目を見れば分かるでしょう。
「…………わ、分かった。できるだけ、早く帰るようにする。」
(よし、落ちた!)
溜め息をついて頷いたユキに、トモは心の中でガッツポーズを決めた。
★
それからおよそ一ヶ月半ばかり、トモとナギの二人はユキとの接触を極端とも言えるほど少なくした。
そういう約束をしていたということもあるが、第一の目的はユキの油断を誘うことだ。
初めはトモたちを気にしていたユキだったが、試験が近づくにつれ、ユキ以上に彼を頼りにする周囲の空気がピリピリし始め、ユキもそんな空気に飲み込まれて試験対策に集中するようになった。
ユキの警戒心が、この忙しなさで少しでも薄らぐように。
時おり暴走しそうになるナギをなだめながら、トモは長い時間を沈黙で貫いた。
それ故の反動はかなり大きかったようで。
特待生試験が終わったユキの部屋を訪ねると、ドアが開くや否やナギがロケットスタートをかましてしまった。
超特急で腹にアタックされたユキは、その勢いに負けて廊下にひっくり返ることに。
トモは自分のユキに対する気持ちを知っていて、それを受け入れてくれている。
そんな安心感があるのか、ナギはトモの目があることなどお構いなしにユキの胸に頬擦りをする始末。
「あーあ。このワンコは、ほんとに飼い主のことしか見えてないねぇ~。」
トモが先手を打ってナギをそう形容すると、ユキも呆れた表情をして抵抗をやめた。
内心はこのままナギが過度なスキンシップに出たらと気が気ではないトモだったが、そこは上手くユキがなだめてくれたことに感謝だ。
「……まったく。今回ばかりはちゃんと褒めてやろうと思ってたのに、なんで最後の最後でこうなるかな?」
「うう、ごめんなさい…。」
久々に話したかと思えば説教から始まり、ユキの前で正座をするナギは子供のように項垂れた。
「まあまあ。今日のところは大目に見てあげようよ。さっきはやっちゃったけど、それまではちゃんと我慢できてたんだしさ。」
トモは苦笑しながら、持ち込んだ飲み物や食べ物を机の上に並べていく。
「まあ……それもそうか。」
トモの言葉を受けたユキの雰囲気が少し穏やかになる。
「改めて思い返してみると、いまいち信じらんないな。こいつの首絞めとくの、大変だったんじゃねぇの?」
「そりゃあもう!」
ユキに訊ねられたトモは大きく頷いた。
「一回火がついちゃうと、なかなか言うこと聞いてくれなくてー。毎度なだめるのに三十分くらいかかったよー。ユキ、今度ナギ専用マニュアルでも作ってくれない?」
「うう……」
ふざけて言うと、心当たりがあるナギはまた小さく縮こまってしまった。
ユキがじろりと冷ややかな目をナギに向ける。
「だとよ。」
「ごめんなさい…」
「でもまあ、お前にしては大健闘ってところか。トモの言うこと、ちゃんと聞いてたってことだもんな。」
「うん…。もう、トモの言うことは聞き流しちゃだめだと思って。」
それを聞いたユキの表情に、ちょっとした変化が。
「ようやく気づいたのか…」
何かを見定めるようにナギの様子をじっと見つめていたユキがぼそりと呟く。
すると彼は、次にナギの髪を強く掻き回した。
「え……え…?」
完全に説教を受ける姿勢と心構えだったナギは、突然のことにパチパチとまばたきを繰り返している。
そんなナギに。
「お前の口からそれが聞けて、安心したわ。なんか、一気に心の荷が降りた気分。」
ユキが柔らかい微笑みを向けた。
「………?」
ユキが笑ったことにほっとしながらも、ナギはどうしてこうなっているのか、いまいち分かっていない様子。
(ユキ…ほんっとにずるい!)
この場で一番ダメージを受けていたのは、他ならぬトモ本人だった。
やっと心の荷が降りたって、もしかしてユキは、ナギと接する上で常に自分のことを気にしてくれていたのだろうか。
自分が勝手にナギの犬と言っているだけだから、別にナギに応えてもらえなくてもいいんだと、そう言ってあったはずなのに。
「もう……ユキったら、そんなにおれのことを気にしてたなんて…」
「あ? そりゃ、気にもするだろ。あのままじゃ、あまりにもお前が浮かばれないじゃん。」
ユキは至って真顔でそんなことを言う。
彼がこういう場面で建前を使わないと知っている手前、胸の奥からぐっとせり上がってくるものがあった。
こっちはおふざけで終わらせようと思ったのに、無自覚で泣かせようとしないでくれないだろうか。
(そこまでおれとかナギのこと考えられるくせに、なんで素直に好きだって認められないかな、この子は!)
トモは再度腹に決める。
これはもう、意地でも認めさせてやる。
絶対に逃がしてなんかやらない。
(覚悟してよね、ユキ。)
声には出さずに宣戦布告。
ユキがナギに気を取られている隙に、トモはさりげない仕草でそこを離れた。
さあ、作戦開始だ。
数本の瓶が入った袋を持ってシンクに向かい、食器棚から三人分のコップを取る。
袋から取り出す瓶は二本。
一本は自分やナギが飲むための、至って普通のジュース。
もう一本がユキのために用意した、アルコール入りジュースだ。
飲み物を注いでから部屋に戻ると、そこではちょうどよくユキが説教に一区切りつけているところだった。
「そういえば、今日の試験はどうだったの?」
それぞれの前にコップを置きながら訊ねる。
「普通に余裕だったけど?」
ユキから返ってきたのは、度肝を抜かれるような答え。付き合いが長い自分たちじゃなかったら、きっと信じられなかっただろう。
「さすが。」
「当たり前だろ。こんなん落ちたら、理事長に殺されるわ。」
ユキの口から時々出るこの大物の名前にも、今はようやく慣れてきた。
とはいえ、人脈の広さでは誰にも負けないと思っていた自分にとっては、この名前を聞くことは些か複雑というか、ちょっと悔しいというか。
トモはなんともいえない気持ちで口を開く。
「殺されるって、可愛がってる分鬼ですなー。」
「あの人はそういう人だよ。さすがは教育者のトップというか、甘やかすなんてこと滅多にしないからな。あの人に気に入られるのがどんなに恐ろしいか、知らない奴らは気楽でいいよなぁ。」
ユキはふう、と細い息を吐く。
遠くを見るような双眸を見ていると、彼が多くの苦労を乗り越えてきたであろうことがよく分かる。
「まあでも……一応、感謝はしてるよ。」
するりと零れていったその一言。
それにトモは目を大きく見開き、そして確かな手応えを得てほくそ笑むのだった。
「そっか、そっか。とにもかくにも、色々とお疲れ様! はい、これこの間話したやつ。」
すぐに笑顔の種類を変えて、トモはユキにコップを勧めた。
「ああ…」
ユキはトモからコップを受け取り、中身の液体を揺らしてからコップの縁に唇をつけた。
「ん…?」
液体が唇に触れるか否かといったところで、眉をひそめたユキが顔を上げる。
「なんか、酒くさくね?」
いきなり作戦が頓挫しそうになった。
「ああ…なんか、香りづけ程度にお酒入ってるって言ってたなー。ちょっとした高級感の演出ってやつ?」
動揺する心臓を気合いで無視し、トモは自然を装って真実を織り交ぜた嘘をつく。
「ふーん…」
それを聞いたユキは特に疑うことなく、コップの中身を口にした。
「……変な味する?」
ここでユキがさらに疑うなら、その時は素直に引き下がって作戦を変更しよう。
おそるおそるトモが訊ねると。
「いや、別に。」
ユキはそう答えて、また一口それを飲み込んだ。
(よっしゃ! 試験直後だからガードが緩い‼)
完璧に狙いどおりだ。
隙がほとんどないユキの油断を誘えるとしたら、それは長い間続いていた緊張から解放される特待生試験の後。それも試験が終わってから、できるだけ時間が開いていない方が望ましい。
そう考えてナギを使ってまでこの約束を取りつけたのだが、どうやらこの推測はドンピシャで当たりだったらしい。
先ほどポロっと理事長への素直な気持ちをこぼしたことといい、随分と気が緩んでいるようだ。
このまま押しきれば、目的を達することは容易いはず。
「じゃあ、ユキ。これに思ったこと書いてって。」
トモはユキの前に一枚のプリントとペンを差し出した。
「……随分と本格的に色々訊いてくるな。」
プリントをざっと眺めたユキがそんな感想を述べる。
「親父に一泡吹かせてやりたいからね。使える情報網は全部使ってやったもんねー。」
「気合い入ってんな。」
「そりゃ、もちろん!」
あなたのためにね!
その一言だけは喉の一歩手前で押し留めておく。
ユキを確実に騙すために、一体どれだけの人に協力を要請したことか。他人の弱味、もとい人脈は多く持っていて損はないものだ。
「ってことで、疲れてるとこ悪いんだけど、それだけさっくり書いてもらっていい? 先に書き上げちゃった方が、その後は心置きなく飲み食いできるっしょ?」
「まあな。」
「あとさ、ユキからもらったデータ反映させれば資料か完成するから、軽く見て意見もらってもいい?」
「いいけど、その方面に詳しくないから、大したこと言えないぞ?」
「いいの、いいの。見やすいか見にくいかくらいのレベルでいいから。」
「ならいいんだけど。」
話しながら軽く一杯目を飲み干したユキが、トモに空の手を差し出す。ユキの意図を察したトモが酒の入った瓶を渡すと、それを受け取ったユキはコップに次の一杯を注ぎながら、改めてプリントを見つめた。
「―――さて、じゃあちょっと集中するか。」
その一言を皮切りに、空色の瞳が一気に据わる。
「ナギー。ユキさん集中モードだから、ちょっとこっちおいでー。」
ユキの傍にいるナギをちょいちょいと手招きすると、ナギは名残惜しそうにしながらもユキから離れた。
「ナギ……あれ、飲んじゃだめだからね?」
隣に腰を下ろしたナギの肩を捕まえ、トモは極限にひそめた声で釘を刺す。
さっきからあなた、ユキ用に分けた瓶をそれはもう興味深そうに見ていましたよね?
目だけでちょっと圧力をかけると、ナギが気まずげに視線を逸らしてしまった。
「う、うん…」
ぎこちなく答えるその様は、こちらの懸念が当たっていることを示しているようにしか見えなかった。
「いい? ここから先は、ユキが潰れるまでじっとこらえるんだよ?」
ナギに重々と言い聞かせ、トモはユキに視線を移した。
課題やテストと違い、ユキの手は全然動いていなかった。
ユキは酒を飲んでは難しい顔でプリントを睨み、とても丁寧に質問に答えている。
なんとも超がつくほど真面目なユキらしい。さっくりでいいと言ったのだが、相当真剣に取り組んでくれている。
自分が父に一泡吹かせたいと言ったので、その意向を汲んで最大限の協力をしてくれているのだろう。
こんなユキの姿を見ていると、騙している罪悪感がささやかな良心を刺激してくるのだが、ここはひたすらに忍耐である。
何はともあれ、この調子ならかなりの量を飲んでくれそうだ。
罪悪感以上の期待を胸に、トモはユキの様子を見守り続ける。
しかし。
「………」
十分。
二十分。
時間が経つにつれ、トモは冷や汗をかくことになっていた。
ユキが最初の一杯を口にしてから、もうどれくらいの時間が過ぎたのだろう。とっくのとうにプリントを仕上げたユキは、料理好きの食指が動くのか、余った酒に炭酸水やレモンを加えたりとアレンジを楽しんでいる。
様子を見る限り、すでに四杯から五杯ほどは飲んでくれたと思うのだが…。
「ユキ…」
「何?」
「試験も終わったわけだけど、明日からどうするの?」
試しにそう訊いてみる。
すると。
「とりあえず、次に来る期末試験の対策かな。その片手間に他の奴らの勉強見てやることになってるから、一応自由日も学校には行く予定。三学期はひとまず学年末試験が終わるまではこの生活リズム保って、そっからは詰め込めるだけバイトしたいとこ。あとは……」
するすると言葉が出てくる上に、その内容にもおかしなところはない。頬に赤みが差すこともないし、これは到底酔っている風には見えない。
もしかして、瓶を間違えたのだろうか。
そんなはずはないと思いながらも、念のためユキの手元にある瓶を確認。
瓶の蓋に緑色のライン。確かにユキに渡したのは酒の方だ。
ということは、やはりユキは現時点で全く酔っていないというわけで。
(ヤダ何この理性お化け! 酒強すぎ⁉ その理性はアルコールにも勝てるんかーい‼)
知り合いに酒の手配を頼んだ際、ある程度はユキの酒への強さを考慮したつもりだった。だから、今回用意したのはそれなりに強い酒のはず。
ジュース感覚で飲めるがアルコール度数は高いので気をつけろと、酒を渡された時にもそう注意を受けたから間違いない。
間違いないはずなのだが、では目の前にあるこの現実はなんだという話で。
(うえぇぇぇ…ど、どうしよう……)
想定外の事態に、内心で慌て始めるトモだった。




