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おしのび  作者: 伝説のからあげ
第三章
3/3

春の日

桜が散り始める頃になると、夜でも十分に暖かい。

ふんわりとした陽気に包まれ、自分の身体までふわふわと浮いているような気分になる。

歩きなれた小道を進み、暗闇の中でちらちらと揺れるランプを目指す。

木製の扉はいつもと変わらず重厚な雰囲気を漂わせ、青々と茂るコニファーも綺麗に整えられている。

軽やかにベルを鳴らしながらゆっくりとドアを開けると、灯りの中で静かに待つマスターのシルエットが見えた。

「いらっしゃい。お待ちしていましたよ。」

「こんばんは。そろそろ毛皮の外套が鬱陶しく感じる時期になってきましたね。」


未だ消えぬふわふわとした心地のまま、店内のカウンター席に腰掛ける。

いつもならすぐにコーヒーを頼むのだが、今晩はなんだかすぐに注文する気になれず、椅子に座ったままそわそわと周りを見回した。

どうも落ち着かない。何かを忘れているような、しかし、もう少しで思い出せそうな…

「気がかりなことがおありのようですね。そんなときは一度温かい物を飲んで、じっくりと思い出してみるとよいですよ。」

「はあ、どうもその方が良さそうです。いつものブレンドでお願いします。」

「かしこまりました。今日は特別な豆を使っていますからね、きっと心の底からご満足いただけるでしょう。」

早速コーヒーを淹れる準備をするマスターを見ながら、私は記憶の海で無くしたものを探し始めた。


 マスターは豆をミルに入れ、ガリガリと挽いていく。

固い豆は、あっという間にさらさらとした粉になる。

そういえば、ずいぶんと長い間、かつお節の匂いを嗅いでいない。

あれも固い塊が削られると、ふわふわとして食べやすくなるのだったな。

食事のとき、よくご飯にかけてもらったものだ。

初めて食したときはあまりの美味しさにもっと欲しくなって、かつお節の袋を探したこともあったっけ。


 ふんわりとしたコーヒーの粉はフィルターに入れられ、とても熱い湯をかけられる。

珍しい部類に入るのだが、私は湯に浸かるのが好きだ。

このことを仲間に話すと、みな一様に驚いた顔をしていたな。

彼らは少量の水に足を浸すのでも我慢できないと。

同じ種族でも、やはり好みはそれぞれ異なるものだ。

蝶に対象を絞り、収集に専念するのも私だけだった。


 十分に湯が行き渡った粉からは、やがてぽたぽたと琥珀色の雫がポットに落ち始める。

次々と生まれては落ちる雫は、規則的なリズムを刻んでいく。

そう、胸が苦しくて苦しくて、嫌いな病院に連れられていった日の夜。

その晩、同居人はずっと私のそばにいた。

温かい雫が何粒も、私の身体をつたっていったのを覚えている。とても寂しい夜だった…


 「できましたよ。お待たせして申し訳ありません。」

コーヒーはいつの間にかカップに注がれ、ソーサーに載って目の前に置かれていた。

「すみません、つい考えごとに夢中になってしまいまして。」

「構いませんよ。どうぞ存分に思いを巡らせてください。」

「ありがとうございます。こんなに深く自分と向き合える場所は、ここしかないと思います。」

コーヒーが入ったカップとソーサーには、輝く金色で非常に美しく繊細な模様が描かれている。

まるで芸術品のようで、手を伸ばすのがもったいないくらいだ。

しかし、肝心のコーヒーを冷ましてしまっては意味がない。

傷をつけないようにカップをそっと持ち上げ、コーヒーを喉に流す。

花のように甘い香りが、ふわりと鼻腔を通り過ぎた。


「今晩は一段と華やかな風味ですね。

花のように甘く、それでいてどこか爽やかさも感じられる。とても贅沢で満ち足りた気持ちです。」

「十数年に一度しか収穫できない希少な豆を使いましたから。気に入っていただけてよかったです。」

「そんなに貴重なものを私のために。大切に味わいます。」

この幸福な時間をいつまでも過ごしたくて、少しずつ飲み進めていく。




 しばらくして、マスターがぽつりと呟いた。

「そろそろお気づきになったんでしょう。ご自身の状態に…」


そうだ。もうすっかり全てを思い出した。


太陽がぎらぎらと照り付けていたあの夏の日。

わずかに開いていた窓の隙間をするりと抜けて、とても久しぶりに外に出たあの日だ。

やっと外に出られたのが嬉しくて、私は蝶を追いかけ走って道路を渡った。


そのとき突然車が現れて…





 急にひどく悲しい気分に襲われ、空になったカップを置いてうつむく。

ふと下に目をやると、足が!手が!私の身体が無くなっている!

何も見えない!これはどういうことだ!


「どうか落ち着いて。私の話を聞いてください。

ご自身の変化に気づかれたので、あちらに向かう準備ができたのですよ。何も心配することはありません。」

取り乱す私に、マスターがゆっくりと声をかける。

しかし、自分の身体が見えなくなって、落ち着いていろという方が無理な話だ。

茶色の縞模様が自慢の尻尾まで無いではないか!


「身体は見えなくなっていても、感覚はそのまま残っているでしょう。

ほら、今度は背中を見ようとして頭を後ろに向けている。」

確かに、自分の身体は見えないが首をひねっている感覚はある。

非常に不思議な感じだが、この状況は飲み込むしかないようだ。

私はマスターの方を向いて座り直した。

やっと落ち着きを取り戻した私を見つめるマスターの顔は、影がかかっていて表情がよく分からない。


いや、待て、そもそもマスターはどんな顔をしていたのだ?


この店に来たときの記憶を探っても、マスターの影やシルエットしか見えていなかった気がする。

さまざまな疑問が新たにむくむくと湧いてきたが、絞り出せた言葉はほんのわずかだった。


「この喫茶店は、一体何の…」

「ご自身の思い出を温かいコーヒーと共に偲ぶ場所。それがこの店の本当の役割です。」


マスターはいつもと変わらず優しい声で答えてくれる。

そうか、その時があんまりにも突然だったから…自分と向き合う時間もなく終わってしまった。

何が起こったのかさっぱり理解できなくてずっと歩き回り、夜になってこの店に辿り着いたんだ。

「時間をかけてもう一度同じ記憶をなぞり、自身をしっかりと見つめることで、少しずつ準備が整えられていたんですよ。」

柔らかな光に包まれる店内で、マスターの声が静かに響く。


だんだんと白い靄がかかったように視界がぼやけてきた。

今まで過ごしてきた世界が閉じられていく。

私が向かうべきところはもっと別の場所だったのだ。


「さあ、時間です。あちらの門から出発できますよ。」

マスターが後ろの壁を押して進み、桜吹雪の舞う裏庭へ誘う。

奥に見える門はいつの間にか開かれ、闇の中で一すじの光の道が空へと続いていた。


少しずつ消えていく世界の中で、マスターの呼ぶ声を頼りに門へと向かう。

足元の芝生を踏みしめている感覚は既になく、まるで宙を歩いているような感じだ。

身体がとても軽い。


ああ、なんて私は自由なんだ!


「これからは、この光の道を真っすぐにお進みください。くれぐれも後ろを振り向いてはいけませんよ。

長い間ご来店いただき、本当にありがとうございました。」

マスターが深々とお辞儀をして見送ってくれる。

せめて最期は猫らしくと、にゃあと返事を返す。


 さあ、長い旅の始まりだ。

向こうにはどんな蝶が待っているのだろうか。

誇り高く尻尾をぴんと伸ばし、天へと昇る光の道を歩き始めた。

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