冬の日
「こんばんは。もうすっかり冬ですね。」
「ええ、空読みによると、これから雪が降るらしいですよ。さあ、どうぞお入りください。」
しばらく暖気流が遠ざかる時期が続くと知ってはいたが、そんなに冷え込む日だったとは。
毛皮の外套を着ていても寒く感じるわけだ。
マスターの招きに応じて店内へと進む。
コーヒーの香りが漂ってくる小さくも奥深い空間は、いつもと変わらず柔らかい光で迎えてくれた。
「コーヒーはブレンドでよろしいですか。」
「はい。今日は多めにいただこうかな。」
注文を済ませ、定位置となったカウンターの席に座る。
店内のぬくもりと橙色の照明が、氷のようになった身体をじんわりと溶かしていく。
その心地よさに身を委ねているあいだにも、マスターはゆっくりと、それでいて無駄のない的確な動きで準備を進める。
まるでコーヒーを美しく淹れるために作られた機械人形のようだ。
本人に言えば、笑われてしまいそうな例えだが。
「そういえば、この店には音楽が流れていませんね。
いつもお喋りを楽しんでいるので、あまり気になりませんでしたが。」
「ええ、心の風向きが固定されてしまうため、音楽はかけていません。
嗜好をお客さんに押し付けるようで、かける気にならないんです。」
マスターは、しゅうしゅうと音を立てるポットを器用に操りながら答えた。
ポットの細い口から熱い湯がするすると滑り落ち、コーヒーの粉に吸い込まれていく。
「そうだったんですか。
たしかに何も音が聞こえない方が、自分の思いとじっくり向き合える気がします。」
「人工的な音に包まれていると、銀河の欠片が降る音も聞こえなくなるでしょうね。
あれは静かな場所を選んで降りますから。」
星読みや空読みの学者によると、数多の星々を包み込んでいる広大な銀河は、知らない間に少しずつすり減り縮んでいるらしい。
そのときに零れた欠片は星々の間をさまよっているうちに引力に引き寄せられ、地上まで降ってくる場合がある。
実際に聞いたことはないが、銀河の欠片が落ちるときには、砂の落ちる音や囁き声に似た小さな音がすると古い書物には書かれている。
思考を巡らせているうちにふと疑問が湧き上がり、思わず口に出てしまった。
「しかし、本当に銀河の縮みで欠片が降ってくるんでしょうか。
学者たちの中でも実際に見た者はいないと。」
「さあ、どうでしょうね。謎は残っていた方が、浪漫に満ちてていいのではないかと思いますが。」
カウンターの向こう側に立つマスターの影が怪しく揺れ、ソーサーの上のカップに褐色の液体が注ぎ込まれた。
「さあ、お待たせしました。本日のブレンドは柑橘の風味がベースになっているので、すっきりとした後味ですよ。」
「そうなんですか、それは楽しみです。それではいただきます。」
深青の線模様が入ったカップに指をかけ、ゆっくりとコーヒーを口に含む。
最初に感じる重厚感のある苦みはさっと通り過ぎ、爽やかな後味がすうっと消えていく。
飲みごたえがあるようでないような、不思議な味だ。
「面白い味ですね。この味ならいくらでも飲めそうだ。」
「ありがとうございます。たくさん淹れましたので、好きなだけ召し上がってください。」
マスターの気遣いにもじんわりとした温かさを感じながら、コーヒーを飲み進める。
半分ほど飲んだあたりで、カウンターの隅で銀色に光る四角い箱状の物体を見つけた。
物体の正面はカウンターの内側に向けられており、いくつかのボタンやレバーが付いている。
前回来店したときにはなかったはずだ。
「マスター、これは何かの器具ですか。」
「ええ、貴重な飲み物を淹れるときに使おうと思い、新しく購入しました。
まだ不安定な要素が多いので、メニューには載せていませんが。」
「そうですか。何に使う器具だか、私にはさっぱり見当が付きませんでした。」
箱の外側には細かな彫刻が施され、煌びやかな雰囲気を漂わせている。
ぴかぴかに磨き上げられてはいるが、どことなく古びた印象だ。
マスターはまた、行きつけの古道具屋で買ったのだろう。
ふと窓の外を見やると、すっかり漆黒の世界になっていた。
扉付近のランプの灯りも見えないほど、いつにもまして暗い。
まるで闇が世界を飲み込みに来たようだ。
雲が月を覆っているのだろうか。
「今晩はやけに暗いですね。新月の日でもないのに。」
「やっと気づかれましたか。実は、お客さんがお店にいらっしゃっていた日、このくらいの暗さになっていたことは何度かあるんですよ。」
それは知らなかった。
コーヒーを飲んでいるときは、窓の外をあまり見ないからかもしれない。
いや、それにしてもおかし過ぎる。
暗闇がどんどん侵入してきて、もうすぐ店内の灯りも飲み込んでしまいそうだ。
「本当に大丈夫なのですか。なにか大変なことが起こっているのではありませんか。」
がたりと椅子を倒しかけながら、慌てて席から立ちあがる。
落ち着きのない私を冷静になだめながら、マスターは半ば嬉しそうな調子で口を開いた。
「今日はお客さんが暗さに気付いた記念です。どうぞこちらにおいでください。」
カウンターの向こう側から、マスターが私を招く。
普段なら立ち入るのを躊躇われるその場所に、遠慮と恐れを抱きながら手探りでそろりそろりと回り込む。
暗さのせいもあるが、カウンターの内側から見る店内は、いつもとだいぶ異なる顔をしていた。
乱れた呼吸が整った頃、マスターが奥の壁に手を当ててから言った。
「いいですか、これから見ることはくれぐれも秘密にしてください。
営業が出来なくなると、非常に困りますので。」
「もちろん。約束します。」
未だ消えぬ若干の恐怖に背中をつつかれ、少し噛みつくように答えてしまう。
そんな私の様子を理解したのか、マスターは無言で壁に当てていた手に力を込めた。
すると、どうだ、壁は軋みながら扉のように開いたのだ。
扉の奥に進むマスターに続き、自分もこわごわと進む。
暗くてよく見えないが、身を刺すような冷たさを感じる。裏庭に出たようだ。
「外に出て何をするんですか。何が始まるんですか。」
「もうじきです。そのまま静かに。」
立ち止まって息を潜めるマスターに習い、早くなってきた鼓動を必死に抑える。
わけもわからず空を見上げたちょうどそのとき、青緑色に光る小石のようなものがいくつかこちらに向かって降りてくるのが見えた。
小石が近づいてくるにつれ、ガラスの粒を撒くようにさらさら、きらきらと小さな音が聞こえてくる。
「マスター、あれは。」
「お考えの通りですよ。銀河の欠片です。」
なんてことだ!
名だたる学者たちも目にした経験はないのに、いつも通っている喫茶店の裏庭に降っていたなんて!
欠片はゆっくりと私たちの目の前を通り過ぎ、静かに地面に落ちた。
遠き宇宙からの訪問者は、かすかに淡い光を放っている。
マスターは数歩進んで落ちた欠片を拾い集め、再び空を見上げた。
「このくらいですか。今回はもうおしまいでしょう。」
あんなに暗かった周りの闇も、いつしか足元の芝生が見える程度まで薄まっている。
庭の奥の門を照らしているランプの灯りが頼もしく思えるほどだ。
まだ見た光景が信じられず、ついその場に立ちつくしてしまう。
いつまでもそんな場所にいては凍ってしまいますよとマスターに促され、私たちは暖かな店内へ戻った。
店の中に戻った私は、慌ててマスターに尋ねる。
「欠片が裏庭に降ることを、なぜ学会に知らせないのですか。
あれは学術的にも大変貴重な現象ですよ。」
興奮している私とは反対に、静かに、しかし手早くコーヒーを注ぎながらマスターが答える。
「ここは人々が住む世界とは少し別の場所にありますから。学者たちが訪れても何も聞こえず、欠片が落ちてくる瞬間も見えないでしょう。
音楽をかけないのも、欠片が降る音をできるだけ聞こえるようにするためですよ。」
夢物語のような言葉が返ってきて、なんだか狐につままれているような気分だ。
自分が生きている世界と、この喫茶店は同じ世界に存在していないのか?
じっと考えを巡らせていると、だんだん自分という存在もあやふやになってくる。
静かに差し出された温かいコーヒーを一口、二口と飲んでいる間に気持ちが落ち着き、冷静さを取り戻す。
「まだよくわかりませんが、謎は解き明かさないままの方がよい場合もあるのでしょうね。
貴重な瞬間に立ち会わせてくれたマスターに感謝します。」
「とんでもない。今晩はお客さんが暗闇の変化に気づいた記念ですから。
せっかくなので、あの器具も使ってみましょうか。」
マスターがカウンターの端に進み、例の銀色の箱に触れる。
ボタンが押されると、箱は低い振動音を上げながら起動した。
その他にも、内部からはさまざまな音が聞こえてくる。
「下部が金属管で井戸と繋がっていましてね、直接給水できる仕組みになっています。
上部から湯気が出始めたら使用可能です。」
箱が暖機運転をしている間にマスターは他の準備を進め、カウンターの上に道具を並べていく。
手回し式のミル、計量器、小さなカップ。そして、先ほど拾った銀河の欠片。
マスターは欠片を三つほどミルに入れ、ガリガリと挽き始める。
小石くらいの大きさだった欠片は砕かれ、粉状に変わった。
「なんとなんと。銀河の欠片を使うんですね。」
「ええ。この銀の器具はそのために作られたものです。
銀河の欠片は、古代アビラ紀から飲み物に使われていたと書物に記されています。」
マスターは計量器に欠片の粉を入れ、重さを調べる。
粉の粒度はとても細かく、くしゃみをしただけで飛んでしまいそう。
湯気が出始めた器具のレバーが引かれると、受け皿のような部分が飛び出した。
その受け皿に粉を入れてレバーを戻し、別のボタンを押す。
水を吸い上げる音が聞こえたのち、濃い色の液体がセットされたカップの中にゆっくりと落ちてきた。
「欠片を粉にしたことで、成分の抽出がしやすくなるんです。さあ、どうぞお召し上がりください。」
小さなカップに注がれた液体は若干とろみがあり、非常に濃厚そうだ。
勇気を出して、液体を少し口に含む。
今までに感じたことのない味だ。
どんな飲み物や食べ物とも異なる味が、口内をじんわりと満たしていく。
「苦いような甘いような、不思議な味ですね。その奥にスパイスのような刺激を感じます。」
「お客さんにはそう感じられるんですね。甘いとなると、紅百合星団あたりの欠片でしょうか。」
「そう感じられる、とはどういう意味ですか。」
「この飲み物は、欠片がどの場所から落ちてきたかで味が異なるんです。
また、それを飲んだ者がどんな生き方をしてきたかによっても味が変わるそうですよ。」
つまり、二度と同じ味には出会えないということだ。
なんて奥深い飲み物だろうか。
一気に飲み干す気にはなれず、大切に少しずついただく。
思えば、この店にもずいぶん通ってきたものだ。
店に来る度、不思議な出来事や新しい発見がある。
マスターの淹れるコーヒーは美味しく、季節や気温に合わせて味の調整がされている。
まるでこの銀河の欠片で淹れた飲み物のようだ。
全く同じ日はなく、それぞれに大切な思い出がある。
自分はあとどんなコーヒーと不思議に巡り合えるのだろうか。
柔らかな光に包まれて、しんみりと冬の夜は更けていく。