第二話 龍の庭、異界の翁
はっと目を覚ましたアスラは止まっていた呼吸を補うように小刻みに荒く息を吸った。清晨の深い森の中の様な冷たく澄んだ空気が肺を満たしていく。
悪鬼と相討ち、男に目を潰され、死したアスラの意識は煉獄へと放り込まれた。不浄を糧として燃え盛る焔はアスラの身に耐え難い苦痛を刻み、死ぬ事も能わぬその身を苛んだ。肌を焼き、身を侵し、骨は爛れていく。
己は地獄に堕ちたのだと感じた。さらばこれは罰なのであろうと。
しかしその責め苦は存外に早く終わりを迎えた。
そして今、此処に在る。
呼吸が落ち着いてくると、アスラも周囲の状況を確認することが出来るようになった。
恐らく洞の中であろう。アスラが眠っていた場所の横で焚火がパチパチと音を立てる。ごつごつとした岩壁をその火が照らしており、そこまで深くない洞だと分かった。
アスラは着ていた鎧や着物を脱がされ、茣蓙の上に転がされていたようである。付けていたものは一纏めに枕元に置かれており、不可視の打刀――『何所』――も其処に置かれていた。但し何故かは分からぬが鞘は固く鎖にて封じられており、その上から符を施されている。
「御目覚めか」
「……ッ!何物だ!」
ぞわりとするほどの濃密な気配に思わずアスラは数多の戦場を共にせし愛刀『何所』を手に取り構えたが幾重にも巡らされた封によってそれを抜くことは叶わなかった。アスラは舌打ちをして茣蓙の上を飛び退き、鞘に封ぜられたままの『何所』を右手に、纏められた荷の中にあった杖から仕込み刀を引き抜き左手に構える。仕込み刀ながら古今東西で最高の腕を持つと謳われた名匠の逸品であり、その切れ味は『何所』にも劣らぬ。名を『追儺』といった。
突然アスラの背後、洞の最奥に座して現れたのは白い髭を蓄え、布を体に巻き付けただけの様な恰好をした老人であった。その姿は大陸の伝承に残る仙に似る。老人は濃く練られた人外の気を放っており、それだけで只者では無いということが理解できた。
「何処より現れた?」
「可笑しな事を。儂は此処を動いた憶えなぞ無い」
蓄えた白髭を撫でながら老人はアスラの問いに答える。確かにアスラは洞の中を確認したはずだ。しかしこの老人には全く気付かなかった。じとりと滲む汗がアスラの陶器のような頬を伝う。ずしりと圧し掛かるような重い空気がアスラの首筋をピリピリと掻き上げた。
「ふむ」
老人がそう声を漏らすと押し潰されるような老人の気配が消え、其の姿までもまるで無かったかのように失せた。洞は再び平静へと還る。まるで元からそんな老人など存在しなかったというような耳の痛くなるほどの静寂。突然の事に刀を構え直したアスラは秀麗な眉を顰め、洞の奥を凝視する。
「……幻術、いや、隠形の類か」
アスラは感情を悟らせぬよう、努めて冷静な声で今し方、老人が座していた場所に向かって呟く。そう呟くと同時にアスラの眼に老人が座しているのが見えるようになった。しかしそれは靄がかったように曖昧で視線を逸らせば再度、捉えることは出来ない程の希薄なものである。
「これを看破し得るか。末恐ろしいことよ」
希薄な気配が確たるものに変化し、認識を阻害するような何かが取り払われるように感じた。その奇妙な感覚にアスラは訝し気に目を細める。
「そう警戒するでない。お主の命を救ったのは儂である。再びそれを取り上げようなどとは思わん」
「……経緯を話して頂こう」
アスラは細めていた目を更に鋭くして老人を見つめる。
アスラの経験上、見ず知らずの他人を助けるのは何かしらの打算があるか、根っからの善人であるかのどちらかであった。前者は己を騒動の渦中に投じる事を意味し、後者は余りにも少ない。その事を考えるならばアスラが老人の意図を探るのは当然の事であった。
「ふむ。何、難しい事ではない。この『崑崙』の頂に未だ人なる者の魂が定まらぬ形で落ちてきた故に興味をそそられて顕現させただけの事。純粋なる興味からよ」
「……魂の顕現?いや、『崑崙』……ならば貴方は『仙』か」
『崑崙』――確か大陸の伝説にある幾多もの『仙』が住まう土地だったとアスラは記憶している。形容した喩えが本物であったことにアスラは驚きを覚える。この老人が『仙』であるというのならば衆人の尺度とは感覚が違うのであろう。戯れに魂の顕現などという偉業を為してもおかしくはない。
百鬼の主と相討ち、零れたる魂が彷徨い、如何にしてかは分からぬが『崑崙』へと至った後、此の仙の力によって現世へと戻されたという事であろう。
さらば此処は大陸という事になろう。大陸の言葉を知らぬ己がこの仙と話せているのも何かしらの仙術の類か。己も秋穂の国に住まう多くの悪鬼魔性を斬り倒し、それなりに力ある者と自負していたこれ程までに強大な存在が大陸には在ったのだ。己も未熟だったという事であろう。アスラはそんな風に己が身の卑小さを恥じた。
「異界で儂等のような存在をどう呼んでいたのかは知らぬ。されど恐らく似たような者であろうぞ」
「異界……?」
大陸では秋穂の国を異界などと呼ぶのであろうか。確かに大陸からすれば秋穂の国は僻地に違いあるまい。大陸から渡りくる品々からも文化の発展の度合いは大陸の方が数段上であり、国家としても秋穂の国より大きく歴史も長い。されど異界という物言いは何とも引っ掛かる。
そんなアスラの意を解したのか、老人が片眉を上げる。
「ふむ。理解しておらぬのも仕方なしか。此処はお主の居った世界ではない。山野を越えた先にも海原を越えた先にも非ず。お主の在った世界とは理を違えた世界である」
目を瞬かせるアスラに老人は頷いて続ける。最早、アスラは構えていた刀を下げており、老人のその話をアスラは茣蓙の上に正座をし聞いた。
老人曰く――、
この世界はアスラの世界と根源を同じくするも、万物の理や世界の有様、辿る道筋などを異にした世界である。
この世界は名を『盤古』と言い、極天・上天・下天・極地の四界に分かれる。
極天は天帝が座す処にて不可侵の領域である。
上天は天帝に仕える天遣の在る領域にてこれより下界の理を示す。
下天は人を超越したる存在の在る所にて上天に至る術を修める場所である。
極地は徒人の住まう領域にてただあるが儘に理によって流される。
この『崑崙』は下天に位置し、老人――名を『鴻鈞』と言った――は上天に至る為の修行をしているという。
下天とは天の名が付くものの極地から伸びる巨大な霊山の頂に当たるらしい。この『崑崙』には他にも白秀の様な仙が住んでおり、同様に修行を続けているという。
極地は中心として中原が存在しその周りを華原と言う。華原を越えればその先は絶海があり、絶海に『崑崙』・『蓬莱』・『方丈』・『瀛州』の四つの霊山が聳え、それよりさらに先は人の関知し得ぬ領域となっている。
中原は戦の器である。此処には九つの国が存在する。
九つの国は央国、外国に分かれ、内に三国、外に六国がある。
中央にある三国を央三国と呼ぶ。
北の『夏』。都の名は『玄夏』。陽王が治める。
南東の『泰』。都の名は『緑泰』。木王が治める。
南西の『令』。都の名は『紫令』。地王が治める。
外国はさらに南北で分かれる
北に存在するのは三つの国家。
北の『梁』。都の名は『蒼梁』。氷王が治める。
北東の『壮』。都の名は『翠壮』。風王が治める。
北西の『永』都の名は『白永』。雷王が治める。
南に存在するのも同じく三つ。
南の『乾』。都の名は『紅乾』。炎王が治める。
南東の『仲』。都の名は『藍仲』。水王が治める。
南西の『琳』。都の名は『玉琳』。金王が治める。
北方の三国を北三国、南方の三国を南三国とする。
華原は東西南北に中原から花開いたように続く土地である。
華原には東西南に九つの霊山が在り、その麓に竜子宮と呼ばれる宮が設けられている。霊山には竜生九子と呼ばれる霊獣が住まい、中原に存在する九つの国をそれぞれ守護する。
夏を守護する『嘊眦』は山狗に似た姿を取り、血を好む。
泰を守護する『負屓』は巨大な霊亀で甲羅に樹海を背負う。
令を守護する『狴犴』は勇猛なる虎であり、整然たる理を好む。
梁を守護する『鴟吻』は鯨の体に鷹の尾を持ち、雲と共に空を泳ぐ。
壮を守護する『嘲風』は鳳凰の姿を取る霊鳥で、風より疾く天を翔ける。
永を守護する『蒲牢』は龍頭の獣でその咆哮は万里に響く。
乾を守護する『狻猊』は獅子の姿で焔をその身に纏う。
仲を守護する『霸上』は蛟の如き長大な蛇で、嵐をその内に宿す。
琳を守護する『椒図』は、螺を背負いし蝦蟇で、玉を好み、その螺は万象を拒む。
華原の北方のみは単独で十の霊山を持ち、九つの霊山は竜子宮へと繋がり、竜子宮は中原に存在する聖域と繋がる。残りの一番巨大な霊山は麓に『竜宮』が存在し、竜宮は『裁天』へと続く回廊がある。裁天は王を選定する場所である。此処に至ったものは竜生九子の加護を受け、王となる。裁天への扉は王が斃れた時にのみ開き、その他の場合は固く閉じられている――。
「――いずれ御主も此処を下らねば為らぬ。儂にも此の世に魂を顕現させた責が有る故、出来る限りの事はしよう。理の違う世界では生きることも儘ならぬであろうからな」
「……忝い。先程の非礼と重ねてお詫び申し上げる」
鴻鈞の言葉にアスラは頭を下げた。秋穂の国は勿論、海を渡った先の大陸の話とも合致しない。その事実が鴻鈞の言うように此処は異界であるということをアスラに改めて認識させることとなった。
「まず読み書きからじゃな。言葉が通じぬでは不便であろう。」
そういうと鴻鈞はアスラの額に手を翳す。翳した手のひらに太陰を中心とした紋様が浮かび上がり、光を発するとアスラの額に吸い込まれて消えていく。秋穂の国で陰陽寮の者達が使っていた陰陽術に似ている。
アスラがそんなことを考えるうちに全ての術式の粒子が体の中へと消え、額から出ていた光が収まった。それと同時に唐突に理解を得る。まるでいままで気付いていなかった路傍の石に不意に気付いたような、当たり前に存在していたものに意識を向けさせられたような不可思議な感覚。そんな感覚が天啓とでもいうようにアスラの頭の中を駆け巡った。
試しに地面に言葉を書き連ねれば秋穂の国で使われていたものとは違う言葉の羅列が出来上がった。見たことのない文字だ。大陸のものと似ているが同じではない。しかしアスラにはそれを理解することが出来た。
「……これは」
「知識を与えただけの事。大したことはしておらん」
アスラは鴻鈞のその言葉に感嘆を覚え、仙術という存在に畏怖を感じた。人に容易に一つの言語を習得させることが大したことではないのならば一体その深奥は何処まで深いのか。
「この世にはこれ程の術を操る者が無数にいるのですか?」
「無数には居らぬ。まして下界に儂程の使い手は居らぬであろう。下界の民が使う術にこのようなものはない」
アスラは仙術を扱うことの出来るものが天にのみ存することに安堵を覚える。理外の世であろうとこのような術を使うものが多く在ればアスラは抗する術もなく敗れるしかない。
「ふむ。されど今の御主では此の世界では生きる事も儘なるまい」
「なっ……!」
しかし鴻鈞はアスラの心を読んだかの様に言葉を続けた。
アスラとて尋常の者ではない。秋穂の国に於いても其の実力は上から数えた方が早い。
そのアスラを以てしても生きる事が儘ならないという。此の世界はどれ程恐ろしき存在で満ちているのか。
「そう難しい顔をするで無い。故に力を与えようと言うのだ」
「……力を?」
「そうじゃ。生きる事も儘ならないと言ったが何もお主の力が弱いという訳では無い」
アスラは其の意を解する事が出来ず、訝しげな表情を鴻鈞に向ける。鴻鈞は飄々とした様子でそんなアスラを見返した。
「御主が此の世で容易に生きられぬと言ったが此れには二つ理由がある。まず一つは環境が悪い。此の世界には『妖魔』と呼ばれる存在が平然と跋扈して居る。お主の記憶の中にあった『魔』や『鬼』の其れに等しい。その上、此の世界では其れが秘匿しようも無いほどに多いのだ」
鴻鈞の記憶を読んだという言葉に驚嘆を覚えつつも、アスラは思考する。秋穂の国では『魔』や『鬼』は怪と呼ばれ、秘匿されていた。『鬼』等は一匹で一つの軍を滅ぼす事が出来る。低級の『魔』ならば未だしも此の様な強大な存在は権力者にとって其の権威の失墜を意味する。故に内々に処理をされてきたのだ。
其れが秘匿しようも無いほどに現出する世界など修羅の世に等しい。
「そんな世で人が生きられるのですか」
「そこで二つ目の理由に繋がる。見た所お主の世界と此方の世界の者に其れほどの膂力の差はない。じゃが此の世界には『天命』と言うものがある。其の力に因って人はその環境に抗する事が出来る」
「『天命』……?」
『天命』とは言葉から察するに天より与えられた使命の事であろう。しかし其れがどの様に此の話に関係してくるというのか。
「此の世界のものは皆『天命』を与えられておる。其れは単に使命を与えられて居るだけでは無い。其れを可能とする能力も同時に与えられて居るという事だ」
「それはつまり己の適正を知り、其れを成す能力もあると」
「其れ故に此の世界では達人、匠と呼ばれる人物が生まれ易く、対するのが一般の者ですら生半な力量の者では其の者達に抗し得ないのだ。『天命』はある程度の研鑽を経れば其の者の中に眠った才能を無理矢理引き出すからの」
全ての者が己の才覚を理解し、其の使い方を知るというならばそれは途轍もない事だろう。模索をする必要が無いのだ。既に道を示されているということは其れだけで十分な優越となる。更に其れの成長を促す力まであるのなら常人に手の届かぬ領域に至るのもまた容易い。
「成程。幾ら己の腕に自信があろうとも生まれ出でた時より研鑽を重ねた真の達人には敵わず、研鑽を怠った者であろうとも数を頼りとされれば打ち破るも難いと。しかし力を与えるというのはどういう事でしょう」
「天帝には及ばぬが御主にも斯様な力を授けることが儂には出来るということじゃ」
「なんと……!!」
流石は仙と言うべきか。そのような力が在れば前世の己の至らなかった領域まで力を高めることも出来よう。
「授ける力は『号』という。潜在の力を見出し、其れを高める事を助けるであろう。しかし此の力を授けるには一つ条件がある」
「是非も有りますまい。何れ此の地を下らねば為らぬ以上、生きる為に努めるのは必定。御受け致しましょう」
鴻鈞は其の言葉に初めてにやりとした笑みを浮かべてアスラを見る。
「何、そう難しい事ではない。唯、儂に御主を鍛えさせて欲しいだけじゃよ――」
――こうして後に『九眼の王』、『百鬼の主』、『陰王』等と綽名されるアスラの此の世界での生は始まったのである。