死に損ないの本気
悲鳴を上げる力さえ無くしたアイリは膝から崩れ落ちる。
瞳は生気を失い、焦点が定まっていない。瞳孔も開ききり、アイリを支えていた全てが微塵の欠片も残さず壊れていた。
口は半開きで、声にならない喘ぎ声が時折漏れ出す。
魔術師として、人としても廃人同然。精神や自我が崩壊した彼女にもはや、殺すほどの価値は無い。
レイジは壊れた少女から視線を逸らし、その後ろで意識を失っていた男に近づく。
「……邪魔だ」
レイジは道を塞いでいたアイリの頬を叩き、弾き飛ばす。
悲鳴の一つも上げず、吹き飛ばされたアイリの体は、神殿の壁に激突する前に、一人の男に受け止められた。
「相変わらずひどい真似するな、レイジ」
「……リュウキ」
レイジは足を止め、アイリを受け止めた男に視線を向けた。
レイジは露骨に不機嫌な表情を浮かべ、その黄金の瞳は怪訝な眼差しを金色の髪を束ねた屈強な男に向けていた。
鍛え抜かれた肉体に野獣の瞳。耳や鼻は尖り、牙を覗かせた口元はつり上がっている。
リュウキ――レイジと同じ魔なる者。魔族の中でもとりわけ希有な竜族の末裔だ。
「なんの用だ?」
「なんの用、とは失礼だな。お前の帰還が遅すぎるから見てこいって言われたんだよ、あの堕天のチビによ」
「そうか。すぐ帰ると伝えろ」
「ああ、そのつもりだったんだがよ……レイジ、お前、何してんだ?」
「どういう意味だ?」
「こんなガキを壊すだけ壊して、悪趣味にもほどがあるだろ?」
「壊したつもりはない。この女の本質を問いただしたまでだ」
「だから、お前は俺らの中でも一番空気が読めてないんだよ。人間を不用意に殺すなって言われなかったか? それをお前、この国に来て何人の人間を殺した?」
「安心しろ。まだ、十人も殺していない」
「問題はそこじゃねえ。俺らの存在はまだ人間どもに気取られるわけにはいかないって話してるんだよ。好き勝手暴れやがって……」
リュウキは呆れたように頬を掻きながら、アイリの首根っこを掴み上げる。
「それにこのガキは中々の上玉だろ? お前一人で遊ぶなよ」
「それが本音か」
レイジはこの神殿に足を運ぶ道中に何人かの人間を殺めた。だが、痕跡の一つだって残してはいない。
そんな下手を打つようなら最初から人間に手出しはしなかった。
だが、リュウキは違う。その野生の本能は貪欲に心が砕けた少女を欲しがっていた。
「欲しいと言うならくれてやる。もともと興味の無い人間だ」
「おい、マジかよ? なら遠慮無くもらっておくぜ?」
「俺よりお前の方がよっぽど悪趣味だな」
「そう言うな。俺が言ったのはお前が壊すだけ壊して捨てることに対してだ。俺は違う。この女の隅々まで喰うつもりだぜ?」
リュウキはアイリを地面に組み敷きながらベロリと口元を舐める。
鋭い爪が生えた指先はアイリの胸元からお腹にかけてゆっくりと筆を進ませ、特殊な素材で編まれた学院の制服が綺麗に裂けていく。
肌は傷つけることなく、制服と胸元を隠す下着だけを起用に切り裂いたリュウキは鼻を鳴らす。
「やっぱ、コイツは久々の上玉だ。かなり良質な魔力じゃねぇか」
「……」
レイジは露骨に眉を歪ませ、その醜悪な姿を見ていた。
竜にとって古くから人間は生贄として差し出されてきた餌の一つ。
ただの人間は興味の欠片も無いが、魔力の高い人間は話しが別だ。
犯し、喰らい、その人間の全て、精神、命、魔力、人間の全てを奪い、我が物とする。
古来より『人柱』として人間どもの間で語り継がれてきた儀式。
リュウキはこれからこの女の全ての尊厳を壊し、最後にはその命すら――文字通り、この女を隅々まで喰らう算段なのだろう。
それはいい。レイジにとって、殺す必要は無くても、生かす必要もないのだ。
レイジという存在を知られた以上、どのみちあの女に残された道は、心を壊したまま屍のように生きるか、リュウキに喰われるしかない。
なら、どちらが、彼女にとっての救いか。
レイジは自身の考えに嫌悪を覚え、その考えを吐き捨てた。
俺が、人間の救いを考えるだと? 馬鹿げている。
単に、リュウキと重なっている女のあられも無い姿に嫌気が差しただけだ。そうに違いない。
「リュウキ」
「あ? なんだよ、これからいいところなんだから邪魔するなよ」
今、まさにアイリを味わおうと舌を伸ばしていたリュウキが眉間にシワを寄せた。
「目的の人形は回収した。俺はこれからこの人形をあのチビの元に送り届ける」
「ああ、そうかい。行ってらっしゃい。俺も適当に済ましたら帰るよ」
「違う。誰がそんな話をしている。お前は俺のもう一つの用件を片づけておけ」
「あ? その人形の回収だけだろ? 他に何があるんだよ」
レイジは視線を死にかけのクロトに向けた。
「コイツの始末を頼む。息の根を止めておけ」
「は? ソイツもう死んでるんじゃないのか?」
「簡単に死ぬような男じゃない。今後の計画の妨げになる可能性もある男だ。確実に仕留めろ。いいな?」
「は? なら、今、お前が始末をつければいいだろ?」
最初はそのつもりだった。
だが、これ以上、不快なものを見せつけられるくらいなら、さっさと戻ってしまいたいという本音がレイジの殺意を鈍らせたのだ。
そんな下らない感情をいちいち説明する気にもなれず、レイジは小さくため息を吐きながら、『転移魔術』を発動させる。
「お姫さまが痺れを切らせているんだろ? だから後は任せる」
「あ、お、おい! ちょっと待ちやがれ、レイジ!」
リュウキは不服だと声を荒げていたが、レイジはほとんど無視する形で神殿から堕天使の元へと転移していった――
―――――――――――――――――――――――――
「まったく、だからお前は空気が読めないんだよ……」
リュウキは悪態を吐きながらアイリの上に跨がったままだった。
ここでこの女を放置するのは精神衛生上よくない。
久々の人間の肉を放り出して、魔力の欠片もない死にかけの人間にトドメをさすなんて割に合わない。
そもそも、レイジが殺そうとしていた人間はどう見ても計画の妨げになると思えなかったのだ。
リュウキはその全てを見たわけではないが、それでもその一部始終は見ていた。
レイジに手も足も出ず、ボロぞきんのように負けた男。
それがリュウキがクロトに抱く印象で、それ以上でもそれ以下でもなかった。
「そもそも、アイツ、全然本気じゃなかったしな……」
もし、あのレイジが本気を出していたなら勝負にすらなっていない。
視界に捉えさせることなく、一瞬で殺していたはずだ。
なら、所詮はその程度の価値だったというだけ。
なら、先にこの女を食べてしまってもいいはずだろう。
リュウキはその解答に辿り着くと、アイリの破けた制服に手をかける。
「まずは、喰えない物を捨てていかないとな」
卑猥に顔を歪め、ヨダレをアイリの肌に垂らしながら、リュウキはアイリの制服を破り捨てようと両手に力を込めようとするが――
「あん? なんだ、てめえ?」
リュウキの屈強な腕を血に塗れたボロボロの手が力強く握っていたのだ。
リュウキは視線を獣のように細め、その手を見た。
浅黒く変色し、内出血だらけの手。だというのにその手はまるで鋼鉄のように固く振りほどけない。
間違いなく、折れていたというのに、だ。
粉砕された手が動くことも、ましてや、虫の息だった男が気配すら感じさせず、腕を掴むなど予想もしていなかった。
「…………」
黒髪のその男は焦点の定まらない視線をリュウキに向けながら、高速でブツブツと何かを呟いていた。
「なに、言ってやがる、てめぇ……」
リュウキは血管を浮き上がらせ、強引に腕を引き抜こうとするが、まったく抜ける気配がない。
ミシリ……と骨が軋み、リュウキは青筋を浮かび上がらせた。
「いい度胸だ。先にぶっ殺してやるよ。死に損ない!」
怒りに我を忘れたリュウキは空いていたもう片方の手で渾身のストレートを放つ。
狙いは顔面。首から上を吹き飛ばすつもりでリュウキは拳を振り抜いた。
ドゴン! という衝撃音が響き渡り、鮮血が散った。リュウキの拳から――
「ぐ、おおおおおおおおおお!」
拳が砕け、手の骨が粉砕される。
なんだ? このあり得ない強度はッ!?
「…………」
驚愕に目を見開くリュウキの前で、尚も目の前の男はブツブツと呟き続ける。
意識のないこの男の呟いてる言葉をリュウキは聞き取り、そして絶句した。
ありえねえ……
魔力が一切ない。加えて意識もない死に損ないの男が呟いていたのは、言葉じゃない――
これは――
『魔術詠唱』
「くそがッ!」
リュウキは咄嗟の判断で魔力を纏い、魔力の障壁を展開させる。
その、直後――
「――《絶刀》」
いつの間にか青い外套を纏い、群青色の魔力を放出させていたクロトは白銀に輝く剣を振り抜き、リュウキの体を魔力の障壁ごと斬り裂いた――