堕ちた正義
地面を削りながら転がり続けたクロトの体が停止した時、すでにクロトの意識は途絶えていた。
クロトの腕に守られていたアイリは痛む体を堪えながら、その惨状を目にする。
クロトを吹き飛ばした回し蹴りは、綺麗な石畳の床を見る影もないほど粉々に粉砕するほどの威力を持ち、その直撃を受けたクロトの右腕と脇腹はどす黒い色に変色していた。
「く、クロ……君?」
アイリが呼びかけても目を覚ます気配がまるでない。
もはやクロトは死に体。
生きているのが奇蹟だった。
クロトが倒れ伏したその数十メートル先には、クロトを蹴飛ばした男が無言で佇んでいる。
男は何を言うわけでもなく、クロトとアイリを人間離れした黄金の瞳で見つめていた。
(な、なんのこれ……?)
アイリは何も状況が掴めない中、ただこれだけは理解出来ていた。
この男は敵だ。
それも恐らく『氷黒の魔女』ですら敵わないほどの力を持った、敵……
その男は抱きかかえていた少女を抱え直すと、一歩、踏み出した。
「運のいい奴だ」
男はそう呟くと破壊された石畳をものともせず、気を失ったクロトに近づいてくる。
(まさか、クロ君を……殺す気?)
理由はわからない。
だが、この男の視線はクロトにだけ向けられている。
敵意のこもった殺意を携えて――
その意図に気づいたアイリはなけなしの体力を奮い立たせ、クロトを庇うようにして立ち上がる。
立ち上がったところで何が出来るわけでもない。
足は震え、目眩がする。立っている感覚すら朧気だ。
それでも、アイリは全身を奮い立たせる。
守らないと――!
アイリの思考を埋めるのはその感情ただ一つだった。
守る。何が何でもクロトを守る。
それが、アイリの目指すものだから――
「そこを退け、女」
男が嫌悪に染まった視線をアイリに向けた。
これまで眼中になかったのか、その視線は害虫に向けられるそれと同じだった。
アイリは凄まじいプレッシャーを感じながら、乾ききった唇を動かす。
「い、嫌だ」
男の眉がピクリを動く。
いつ殺されてもおかしくない状況。
この返答の直後、アイリの首が跳んでいてもおかしくはなかった。
だが、実際にはアイリの首は繋がったままで、それどころか、目の前の男は興味深げに問いかけてきたのだ。
「なぜ、その男を庇う?」
「え……?」
「貴様のその魔力、この場でそこの男と戦っていた魔力と同じ物だ。貴様にとってこの男は敵のはずだ。なぜ庇う?」
「それは……私が『正義の魔法使い』――だから」
「なに?」
「私は……助けを求める人を、傷ついている人を助ける為に魔術師になった。だから、クロ君を助けるの。それが私の夢だから」
男の瞳に不快な感情が宿る。
それは穢らわしいものを見るかのごとく――否、事実この男はアイリの瞳を――その奥にある魂を見透かし、そこに隠された本心を読み解いたことでアイリのことを軽蔑したのだ。
「……それは、偽りだ」
男が吐き捨てるようにそう呟いたのをアイリは聞き逃さなかった。
「偽り、ですって?」
「そうだ。貴様の力は誰かを守る為のものではない。
それに、この男の命を救ったところでお前になんの価値がある?」
「か、価値で人の命を推し量れるわけがないでしょ!」
「人間らしい回答だ。だがそれは人間の口にする建前にすぎない。現実は、人間は価値にしたがって動く生き物だ。そして、この男は助ける価値などない人間の一人だと言っている」
「そんなの貴方の勝手な考えでしょ!?」
「そうだ。人間は己の価値観に従って生きている。そして、それは俺たちも同じ。
俺は俺の為にそこの男を殺す。誰の為でもない。俺の為にだ。だが、お前のその偽りの夢はお前の為のものか?」
「決まっているでしょ! これが私の夢! 『正義の魔法使い』が私のなりたいものだから!」
「違うな。
それは押しつけられたものだ。お前は単にそれを理解していないにすぎない。お前の行いは偽物、お前の都合で歪められた誰かの正義を背負っているにすぎない」
男はアイリの中に眠る矛盾を正確に言い当ててみせる。
それはアイリ以外の誰も知りながら、誰も言わなかった彼女の矛盾。
アイリが勝手に抱き込んでしまった、『歪んだ正義』そのものを男は包み隠すことなくいった。
「な、なにを……?」
アイリはその言葉を聞いた直後、体が硬直していた。
視界が反転し、色という色が消えて行く。景色という景色が遠のいていく。
息が出来ない。苦しい。
動かない体は激しく呼吸を乱し、青ざめたアイリの額からは止めどなく汗が噴き出していた。
アイリは必死になって男の言葉を否定しようと、意識を張り巡らせる。
押しつけられたもの? それは違う……
これはお父さんとお母さんの夢で、二人は、私にとって『正義の魔法使い』で、だから私は、お父さんとお母さんが残してくれた魔術と剣でその夢を……
夢を……
「誰かを救うと豪語するならなぜ、貴様は拳を握りしめる。なぜ、貴様の魔力からは治癒の力が感じられない?」
「そ、それは……私の使う魔術が、拳が誰かを守る為の……」
「違うな。その拳は誰かを守る為のものじゃない。お前を守る為のものだ。お前の拳もその力も全て、お前という人間の命を守る為に用意されたものにすぎない。理解しろ、女。貴様の力は誰かを救う為のものではない。あらゆる脅威からお前を生かす為に与えられた力だ。お前に出来るのはただ目の前の驚異を破壊することだけだ」
「そ、そんなわけ……」
否定の言葉は最後まで出てこなかった。
否定したかった。
両親が残してくれた力が破壊の為の力だなんて信じたくなかった。
だってこれは、『正義の魔法使い』って教えてくれた二人の残した力だ。
なら、その力はその為に使われるべきで……
破壊なんかに……
アイリはチラリと守るべき存在であるクロトを見つめた。
まるで最後の希望に縋るような思いで見つめたその先で、アイリの何が砕け散る。
「あ、あ、あああ……」
漏れ出したのは小さな嗚咽。
その肩は震え、瞳から光りは消え失せていた。
どうして、今まで疑問に思うことがなかったのか……?
あり得ない方向に折れ曲がったクロトの右腕を見て、あらゆる理性が音をたてて崩れていく。
これまで『正義の魔法使い』という旗を掲げて何度も拳を振ってきた。
ただ助けを求める声を聞いたから。たったそれだけの理由で剣を向けた相手のことを深く考えず、悪だと決めつめ、何度も戦ってきた。
今回もそうだ。そんな理由だけでクロトと戦い、アイリはクロトを傷つけた。
それが間違いじゃないと思っていた。
どうして――
どうして、それが間違いじゃないと勘違いしていた?
友達をなんの躊躇いもなく傷つけ、そして、今度は身勝手な理由でその友達を庇おうとする。
「ああ、あああ……」
そんなの、『正義』でもなんでもない。
こんなのは、ただの身勝手な我が儘ではないか――
本当の自分の姿を捉えた瞬間、
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――ッ!」
アイリは絶望に心を染め上げ、これまで築き上げた何もかもを踏み壊して、頭を抱え、悲鳴にも近い叫び声を上げていた。