破格の代償
深い闇の底から引き上げられるかのように意識が浮上する。
まどろみの中にあった意識が覚醒し、クロトは重たい瞼をそっと開けた。
「ん……あぁ……」
視界に映った光景がいつもと違う。
見慣れない天井ということもあるが、それ以上に大きな違和感を覚えていた。
その違和感を探ろうと首を回した時、胸の上にのしかかっていた金髪の少女のうなじが目に入った。
規則正しい呼吸を繰り返す少女――レティシアは布団の上にヨダレを垂れ流し、熟睡している。
「どうりで胸が苦しいと思ったわけだ」
力が抜けた人間の頭部という物は案外重たい。腕を枕に居眠りした時、腕が真っ赤になることがある。
それは頭の重みで腕の血流が圧迫されているからだ。
その重みは時には腕をしびれさせるほどで……。
つまり何が言いたいのかと言えば、この胸にのしかかった頭が胸を圧迫して息苦しい。
手っ取り早いのは布団をはね除けて頭をどかすことなのだが、その気の緩みきった寝顔を見るとその強攻策がとりづらい。
結果としてクロトは小さなため息をこぼすと再び横になることに決めた。
けど、まあ、ただ横になるのも勿体なかったので手持ちぶさたな片手でレティシアの金色の髪を掬う。
(まあ、これくらいなら大丈夫だろ?)
普段触ることの出来ない彼女の髪に手を伸ばすという罪悪感がなくはないが、それ以上に彼女の髪の質感にクロトの手は自然と虜になる。
よく手入れされているのか一本の枝毛もなく、梳いた髪はクロトの手に絡まることがない。
柔らかい質感とつやのある手触りにクロトは夢中になり始める。
(やば。これいつまでも触っていられる……)
レティシアの隠れた魅力にクロトの心から遠慮という枷が外れていく。
「ん……あ……」
時折もらす喘ぎ声が絶好のスパイスとなってクロトの耳を溶かそうとする。
髪フェチではないクロトですらこの様だ。もしその趣向がクロトの中にほんの少しでもあれば今ので陥落していたことは間違いないだろう。
(黙っていればスゲー可愛いのに)
その様子にクロトは頬を緩ませていた。
普段目にするレティシアといえばいつも説教ばかりで怒った顔がほとんどだ。
こんな寝姿――いや、そもそも嬉しそうに笑った顔すらほとんど目にしたことがない。
そのほとんどの理由がクロトの所業せいだということを棚に上げ、なんて可愛くない性格だと嘆き始めた時――。
「いったい何をしているんだ、お前は」
いつからそこに立っていたのか、呆れた様子で額に手を押し当てたエミナが盛大なため息を吐いていた。
「い、一週間!?」
エミナから聞かされたその月日にクロトは目を剥いて叫んだ。
一週間も眠っていたなんていきなり言われても信じることが出来ない。
だが、そう言われなければこの体の気怠さが説明出来ないことも事実だ。
まるで脳の信号に体が追いついていないような違和感。
それに加え、筋肉の衰えにこの空腹感は異常だ。
だが一週間も意識がなかったのならこの肉体の衰弱ぶりにも説明がつく。
クロトは呂律の回らない舌を動かしてあの夜ことを聞き出した。
「簡単な話だ。何時までたってもお前達が帰ってこないから様子を見にいった。
そこで、お前を背負って地面を這っていたライベルを見つけたまでだよ」
あの後、気を失ったクロトをアイリは背負って帰ろうとしたそうだ。
だが、アイリも両手足の骨が折れるという重傷。
とても一人の人間を背負って歩くことなんて出来なかった。
エミナがクロトたちを見つけたのは森の入り口付近。
アイリは森の奥深くからそこまでの距離を地面を這いずって来たそうだ。
発見され次第すぐさま学院の医務室に運ばれ、そこで二人は別々に治癒魔術で治療された。
アイリの怪我は骨折程度ですぐに治癒出来たが、クロトは外傷こそほとんどないが、魔術負荷により今日まで昏睡していたらしい。
「ライベルから話は聞いた。力を使ったらしいな」
「ああ……」
バツが悪そうに頷く。
クロトも出来れば|《黒魔の剣》の力は使いたくなかった。
あの剣の力は少々特殊だ。使えばその担い手であるクロトの正体が疑われる。
疑われる程度で済めばまだいい方だが、それがクアトロ=オーウェンの転生者であることが知られれば話が変わる。
転生という生命の円環すら超越した魔術はまだこの世には存在しない。
だが、クロトという実例が存在することが明らかとなれば、時の権力者達は必ずその方法を解明しようと躍起になるはずだ。
自分の命はもちろんのこと、大切な人の死すら回避出来るなら誰だってそうしたい。
だが、そんな奇蹟の術が存在しないことをクロトは誰よりも知っている。
今のクロトの状態はまさにそんな過ちを犯した彼に対する呪いのような奇蹟なのだ。
もっともそれ以上に使いたくない理由があったのだが……
「別に力を使ったことを責める気はない。だが、使った力が不味かったな」
「どういうことだ?」
なんだか嫌な予感がして、クロトは聞き返した。
「まず最初に言っておく。私は《黒魔の剣》の力はほとんど知らない」
「まあ、そうだろうな」
《黒魔の剣》が使えるのはクロト――否、クアトロ=オーウェンだけだ。
そしてクアトロはエミナの前で《黒魔の剣》をまともに使った試しがない。
せいぜい公衆の全面に立つ時に魔術師らしい服装として無色の《ローブ》を纏ったくらい。
後は思い出したくはないが、クアトロが人生最後の魔術を使った時くらいだろうか。
つまるところ『氷黒の魔術』エミナ=アーネストですら《黒魔の剣》の力を完璧に把握出来ていないのだ。
知っているのはクアトロから聞いた『他者の魔力の特性を纏える力』ということくらいだろう。
エミナはポケットから一つの魔晶石を取り出すとそれを手の平で転がした。
それは群青色に輝くアイリの魔力が詰まった魔晶石だ。
「まだ魔力が残っているのか?」
その青い輝きにクロトは驚きを覚える。
少なくともこの魔晶石にアイリが魔力を込めたのは一週間も前のことだ。
それでも尚魔力が残っているということは、相当に魔力の扱いが上手いということ。
(どこかのバカにも見習わせたい腕前だな……)
と、クロトは未だに眠りこけるレティシアを半眼で睨む。
「ああ。実際にこの力を使ってお前がどんな力を発現させたのかは知らないが――この力は危険だ」
「―――」
クロトはその言葉に沈黙を貫いた。
それはエミナの言い分が正しかったから。
実際に使って痛感した。あらゆる魔術を盗み、使用するあの青い《ローブ》が与える激痛を思い出せばその判断は間違ってはいないからだ。
その破格の性能に伴う代償は想像していた以上。
むしろ命を落とさなかっただけマシだ。
エミナはその魔晶石に目を落としながら呟く。
「もともとこの力はクアトロ=オーウェンの為だけの力だ。剣の引き出す力は全て彼に合わせて創られる。だからその力の絶対条件は――」
「ランクAオーバーのクアトロの魔力が必要だ。そう言いたいんだろ?」
「ああ。その通りだ。言ってしまえば今のお前は魂だけが別の肉体に入っているようなもの。そこには当然クアトロの肉体も魔力も存在しない。《黒魔の剣》を担うにはあらゆる面で不足している。まったく皮肉なことだ……」
そう言ってエミナは乾いた笑みを浮かべた。
杖はその者の魂で主を判断する。
だが、クロトには魂はあってもその杖を使うだけの器がない。
だから杖が求めるスペックに体が追いつかず悲鳴を上げる。
アイリから受け継いだ力|《完全魔術武装》だってクアトロという器があれば問題なく使用出来ていたはずだ。
危険――とはつまりそういうこと。
クロト=エルヴェイトという器では《黒魔の剣》を完全に制御することが出来ない。
レティシアの無色の力はなんの特性もないので問題なかったが、他の魔術師の力を纏えばその危険性が如実に表れる。
その結果が一瞬間に及ぶ昏睡とこの体の違和感なのだろう。
「いいよ。覚悟していたことだ」
「クロト……だが、その体では……」
もう全て割り切っていた。
アイリの力を使うと決めたあの時に。
今の状況も納得している。
だからそんな心配そうな顔をしないで欲しい。
クロトは今にも泣き出しそうなエミナの柔らかい頬にそっと手を伸ばし、優しく撫でる。
「まったく、もういい大人だっていうのにそんな顔を見せないでくれよ。子供扱いしたくなるだろ?」
「……別に、いいさ。お前になら」
エミナはそう言ってクロトの手に身を委ね、瞼を閉じようとした――。
「―――ッ!?」
まさにその瞬間、エミナは目を見開いてあさっての方向へと視線を向ける。
その瞳は驚愕に彩られ、肩が小さく震えていた。
「なんだ、これは? ありえない……」
「おい、どうし――」
動揺に満ちた表情からただ事ではないと思い始めたクロトの思考は――。
「誰かが神殿に足を踏み入れた――」
その一言によって停止した――。