ここで飲む酒は旨い
――――なんでだ?
氷が砕け散る音を耳にしながらエミナは眉をひそめた。
新たに氷で創った剣を握りしめ、迫り来る光の刃を迎え撃つ。
パキンと氷に亀裂が入り、エミナはクロトをはね除けるともう一度氷の剣を創造した。
――なんで……。
再び始まる剣戟。
エミナは刃を交えながらその奇妙な感覚に唇を噛みしめた。
なんで……私は馬鹿正直にコイツに付き合っているんだ?
クロトの剣はまっすぐで迷いがない。
不意打ちもフェイントもなくどの一撃も一直線だ。
だから避けることも反撃することも容易かった。
そもそも魔術師は接近戦にそれほど長けているわけではない。
剣はあくまでその場しのぎにしか過ぎず、本命は距離を離してからの魔術での遠距離攻撃。
エミナの使用した《ヒョウカイ》は確かに規格外の魔術ではあるがこの世界はそもそもエミナの魔術行使に都合の良い領域を生み出す意味合いの方が大きいのだ。
この魔術で氷属性の魔術の効力と相性を飛躍的に高めることで『詠唱破棄』で効力が落ちるはずの魔術を通常通りに使用することや、まだ詠唱を破棄出来ない、あるいは破棄不可能な魔術を無理矢理『詠唱破棄』するための結界。
それがどうして――。
エミナは砕けた氷剣の代わりに新たに十の剣を創るとクロトめがけて解き放つ。
クロトはその十にも及ぶ斬撃を全てギリギリで避けると雄叫びを上げながらエミナに飛びかかってきた。
エミナはその一撃を受け止めながら、己の感情にいらつきを覚え始めていた。
(こいつが《ヒョウカイ》に対応出来るなら他の魔術で……それこそこんなちっぽけな剣では防ぎきれない魔術を放てばそれで終わる)
実際、そうできる魔術も魔力もまだある。
けれどそれを実行することを感情が拒否していた。
圧倒的な差を見せつけて勝利するのは敗北だ。
そんなことではコイツは折れないと心のどこかで確信していたこともある。
それに、クロト=エルヴェイトと同じ立場に立って勝つことでようやく超えられるものがあるのだ。
エミナがずっと見続けてきた背中を――。
あの日の絶望を――。
これからの孤独を――。
その全てを乗り越えるために証明しなければならない。
クアトロ=オーウェンがくれた魔術は否定されるためのものではないことを――。
これまでエミナを支えてくれた柱であるクアトロとの思い出が彼にとって否定すべきものだと思わせたくないという気持ちがエミナから確実な勝利への選択しを奪っていく。
だが――。
(これで、終わりだ――)
エミナは鍔迫り合いの隙をついてクロトをはね飛ばすと無数の氷の銃弾をクロトの足下に着弾させる。
立ち上がる砂煙が晴れる前にエミナは《ヒョウカイ》の全域にわたって氷の弾丸を生成した。
剣が防がれるのは面積が大きいからだ。
だが小粒程度の弾丸ならその全てを防ぐことは出来ないだろ?
絶対の自信とともに放たれた百をも超える弾丸が砂煙を穿つ。
油断なく神経を研ぎ澄まし、そして聞こえたのは――。
無数の氷が砕け散る音。
そして砂煙を振り払う光の残滓。
「……そういうことか」
エミナはクロトの足下に散らばる氷の破片を見て忌々しい表情を見せる。
それはまんまとクロトの策に溺れた自身に対する怒りそのものだ。
エミナは瞳に魔力を纏わせる。
エミナの視界には《ヒョウカイ》の青い粒子が視界を覆っていた。
だが、その青い粒子に紛れるように光輝く無数の粒子がクロトの手にした柄から漏れ出していたのだ。
これまでクロトは一本の剣だけを使って氷を弾いてきた。
二本目はあくまで予備か、それか切り札かと思っていた。
だが、それは間違いだ。
クロトは最初から二本の剣をずっと使っていた。
ただそれが刀身の姿ではなく、光の粒子としてクロトを守る盾代わりとなっていただけ。
恐らく、この光の粒子がエミナの創った剣の位置をセンサーのようにクロトに知らせ、氷の弾丸のように小さな粒はクロトに触れる前にこの粒子が砕いていたのだろう。
全てはクロトの策の内なのだ。
視界の魔力を解除するように促したその瞬間からこの二本の魔導器を起動させてエミナの攻撃に耐えきってきた。
だが――。
タネが分かれば対処することも可能だ。
エミナは光の粒子の流れを見て、ほんの小さな隙間を見つけると針の穴に糸を通す正確さで氷の剣を撃ち出した。
「ぐあっ!」
肩を掠めた氷剣は初めて血の色で赤く染まる。
続けて放った二本の剣も防がれることなくクロトの体を掠めていく。
最初の人間離れした防御が嘘のように立て続けにクロトに攻撃が当り、ついに片膝をつかせた。
「もうタネは分かった。私の攻撃を防ぐ手段はないぞ」
「まさか……こんなに速くバレるなんてな……もうちょっと粘れるかと思ったんだけど……」
「十分だろ? この私が気付くまでここまで時間を要したんだ。誇ってもいい」
そもそもこの少年には魔力が全くないのだ。
だと言うのに魔術師と対等以上に渡り合える段階で疑問を持つべきだった。
それもこれも言葉巧みにエミナの心を揺さぶったこの男の話術のせいだ。
まんまと踊らされた。
まんまと騙された。
あの時のように。
生贄にされたあの夜の時のようにまんまと――騙された!
「もう、お前には私は倒せない。お前がいくら策を弄しようと私はそれを叩き潰す。お前に私が否定されるものか。お前ごときに私を否定させてたまるか! 私を見捨てたお前が口に出来る言葉か!」
のどの奥から怒りを露わにする。
エミナの創り上げた《ヒョウカイ》がぐにゃりとゆがみ、上空に巨大な氷塊が生まれた。
その大きさは《ヒョウカイ》全てを飲み込むほどの大きさでエミナに残された魔力のほとんどを使って生み出した塊だ。
ビキビキと魔術空間に亀裂が奔る。
その質量に耐えきれず崩壊しだしたのだ。
だが、そんなことに目もくれずエミナは視線を下げた。
クロトは――いや、クアトロ=オーウェンは私を――この世界を騙し続けてきた。
クアトロはただ利用するためにエミナを拾ったにすぎない。
クアトロとの思い出は偽りで、彼の愛情が嘘に満ちたものだと知っている。
でもだからといって……。
エミナに芽生えた感情は嘘ではなかったのだ。
彼のその背中に憧れを抱いた。
その温もりに安堵した。
彼に頭を撫でられるのが好きだった。
彼が他人に魔術を教える姿に嫉妬した。
何より初めて彼からもらった『アーネスト』の名前がたまらなく嬉しかった。
何もなかった少女が初めてもらったもの。
そして、この感情が、この想いが、たとえ偽りの中で芽生えたものであったとしても、誰にも否定されたくない。
だから倒す。
クロトを――過去を否定する者を、教えてもらった魔術で。
「お前が――私を否定するなああああああああああああああああ!」
振り下ろした腕が合図となって上空に浮かんだ氷塊がゆっくりと降下する。
直撃すればタダではすまない。
それはクロトだけでなくエミナにも言えたことだ。
だが、そんな後のことを考える余裕すらなくなるほどエミナは追い詰められていた。
「――否定するさ。俺の想いは間違ったものだったんだから――」
だというのに、クロトは落ち着いた口調でそんなことを言った。
「俺がお前にあげられたのは名前だけだ。それ以外は全て嘘だった。お前に向けた愛情も魔術も全て、ただ利用するために過ぎなかった。だから否定するんだ」
クロトは光の剣を一度解除すると一本の柄を天空の氷塊に向けて尽きだした。
「お前が過去の俺に縛られているっていうなら俺が否定する。お前が俺を恨んでいるのは百も承知だ。けど……その気持ちのせいでお前が『氷黒の魔女』になっちまったんだとしたら、俺が今日ここで『氷黒の魔女』を殺す。殺して明日のお前を俺は――――否定しない!」
「なにを……」
言っているんだ?
その言葉がエミナの口から漏れ出すことはなかった。
言葉を失ったエミナが見たものは無色に輝く魔力の本流。
瞬間的に悟った。
あれはクロト本人の魔力だ。
無理矢理魔力を生成したのだろう。その額には大粒の汗は浮かんでいた。
当然だ。零から一の魔力を生み出すことは命を削る行為だ。その身を焦がす痛みは氷剣に穿たれた傷よりもさらに苦しいはずだ。
けれど、クロトは笑っていた。
「エミナ、俺は確かに絶望した。魔術に。自分自身に。けどな、そんなのは俺だけでいい。俺だけでいいから、お前は笑ってくれ。俺の代わりに、俺の側で」
圧縮されたクロトの魔力が柄の先端に宿り、その魔力が弾けた瞬間――。
目前まで迫っていた氷塊が跡形もなく消し飛び、同時にエミナの氷の世界も砕け散った。
クロトは『魔力装填』の衝撃に耐えきれず粉々に砕け、使えなくなった魔導器を投げ捨てるとエミナに向き直る。
晴れ渡った広間で佇むクロトをエミナは涙で霞んだ視界で見つめる。
よろよろした足取りでクロトに近づくとその胸に縋りついた。
今にも泣きそうな表情でエミナは愚痴る。
「……私はお前が好きだ」
「……知ってたよ」
「恨みもした。絶望もした。けど、それ以上にお前が好きだったんだ」
「……ああ」
「怖かった。一人なのが。お前がいないのが。どうしてだ? 生きていたならどうして教えてくれなかった?」
「…………ごめん」
「許さない。絶対に許さない」
それはかつてエミナがクアトロの死体に向かって口にした言葉と同じものだった。
あの時、エミナの思考は怒りに染まっていた。
今も怒っている。
けど、その怒りはあの時と比べて受け入れやすい。
「絶対に許さない。だから二度と私を――――絶望させるな」
「ああ。約束するよ」
力強く頷いたクロトはその後泣きじゃくるエミナの頭をかつてのように撫で続けた―――。
――――――――――――――――――――――――――――
「やっぱり今日は飲むか」
そう口にしたエミナに大将は嫌そうな顔を浮かべた。
「お前さんまたやけ酒か? いい加減その癖は直せ」
「違う。大将が私の話をろくに聞いてくれないのは確かに頭にくるが……」
不条理過ぎるだろ……。
と顔に浮かべていた大将にエミナは笑みを浮かべる。
「そんなのとは関係なく飲みたい気分なんだよ」
「……そうかい」
エミナの笑顔に根負けした大将はカウンターに戻るとこっそりこの店で一番安物の酒を取りだした。
全く売れない酒で、どの客もそろって「不味い」と口にする一品だ。
意趣返しとばかりにその酒をグラスに注ぎエミナの前に差し出す。
「ほらよ」
「ん」
グラスを手にしたエミナはゆっくりとグラスに口を近づけ、ゴクリと喉に通した。
「……ん?」
一瞬ピタリと手が止まり、エミナはグラスに注がれた酒を凝視する。
大将は冷や汗をにじませながら、口を開いた。
「ど、どうかしたのか?」
「ん? いや、何でもないよ。ただ――」
エミナは手にした酒を一気に飲み干すと朱に染まった顔で、
「ここで飲む酒は旨いって思っただけさ」
恥ずかしそうに呟いた。