酒場での愚痴
「大将~いつもの~………うっぷ」
扉を開けて早々にエミナは遠慮の欠片が全くない挨拶をしてテーブルの上に突っ伏した。
見ればここに来るまでにかなりの量のお酒を飲んだことは明白で、頬は赤から青白い感じに変わってきている。
額に手を添えて嘔吐くエミナに大将は眉をゆがませた。
「吐くならあっちで吐いてくれよ」
親指でトイレを指さす。
実際にこの酒場で吐かれると営業妨害以外の何物でもないのでこの大柄な男性のいう台詞はもっともだ。
けれど――。
吐くだけなら可愛いものだ。
とも同時に思っていた。
昔は店を半壊にさせられたこともあったのだ。
それに比べれば、床を汚されることくらいは多少は目を瞑れる。
「吐かない、吐かない――うっぷ」
言いながら嘔吐くエミナからは説得力の欠片もなかった。
普段は夜のように綺麗な黒髪も酒に任せて酔いつぶれたせいか無残に乱れ、
ミルクの様に白い肌は赤く染まり、ついでにいうと酒臭い。
酒場でなら許される悪態ではあるが、これを余所でやってしまうと流石に彼女のメンツも潰れかねない。
エミナ=アーネスト
この国では英雄『開闢の魔術師』に次ぐ有名人と言える魔術師だ。
『氷黒の魔女』としての異名を持つ彼女は尊敬と畏怖の眼差しを受け、魔術を目指す若者にとっては雲の上にいる存在とも言える。
そんな彼女の酔いつぶれた姿を見れば彼らが幻滅することはまず間違いないだろう。
それにだ。
大将はエミナの側に搾りたてのオレンジジュースを置くと、ついでに甘めのお菓子を何個か適当に置いた。
「う~」
のろのろとまるでゾンビの様にコップに手を伸ばすエミナに大将は呆れた眼差しを向ける。
「全く、こんなに酔いつぶれるなんて何してるんだか。お前さん、今じゃ魔術学院に通ってる子供の面倒を見てるんだろ? そんな姿を見せていいのかい?」
あのエミナ=アーネストが十歳くらいの子供を引き取ったのは今から五年ほど前のことだ。
当時のことはかなり鮮明に覚えている。
なにせ、その頃のエミナが誰かと一緒に過ごすことなど考えもしなかったからだ。
それに、その少年とエミナの出会いがこの酒場だったことも付け加えておく。
とにかく彼女のことをよく知っているつもりでいたこの大将にとっては驚くべき光景だったことは間違いない。
「確か……クロト君だっけ? あの子と一緒に過ごすようになってからお前さんがここまで潰れたのは初めてじゃないか?」
「そう……だっけか?」
なんとか危機的状況を脱することができたのか、幾分かましになった顔色を浮かべるエミナはテーブルに置かれたお菓子を口の中に放り投げる。
「そうだよ。っていうかここに来るのも久しぶりだろ? それで『いつもの』とか言われても俺が困るんだよ」
「あはは。悪い、悪い。けどちゃんと出してくれる辺り、流石だよ」
「そりゃあ、俺もプロだ。ひいきにしてくれたお客の好みは忘れたりしねえよ」
「あ~この酒場と出会えたことは私にとってまさに奇蹟だ。メシは不味いし、酒も薄い。そのくせ金だけは高い店だが、ここは私のお気に入りだよ」
「それ……褒めてんのか? バカにしてんのか?」
「言葉で察してくれ。どうも男って生き物は女の気持ちには疎すぎる」
「それが男って生き物なんだよ」
本当に嫌なら何度も足を運ばない。
エミナがここを気に入っているのはその態度から見てもわかりきったことだが、大将は言葉を濁してエミナの愚痴に付き合った。
「もしかして何か? あのガキと上手くいってないのか?」
「……聞きたい?」
「―――――いや、やっぱりいい」
エミナの瞳が狩人のように大将を睨んだ瞬間、身の危険を感じ、すぐさまキッチンへと踵を返す。
長年酒場を切り盛りしてきた危機感値能力は流石の一言に尽きる。
だが、その程度では『氷黒の魔女』の魔の手からは逃れられるはずもなかった。
「ちょっとくらい聞いてもいいだろ? どうせ私しかいなし暇だろ?」
「店の看板見たか? 『Close』ってあるだろ? だから客がいないのは当たり前だ。夜はそれなりに忙しいんだよ。これからその仕込みもあるし話に付き合ってる暇は――」
「いいよ。私が勝手に話すから。クロトのやつ夏休みに入った途端、部屋にこもりっきりなんだぞ。顔を見るのはメシかトイレか風呂くらいでそれ以外はほとんど見かけないんだ」
「…………それがどうした? あのくらいの年齢のガキならそれが普通だろ?」
「普通なものか。こんなにも綺麗な女性が目の前にいるっていうのに襲いもしない。まさか……不能ってことはないよな?」
「年の差を考えろ」
「――女性に年の話をするな」
途端に冷えた口調になったエミナに大将は背筋を正した。
確かに年の話をするのは失礼だったかもしれない。
見た目は二十代前半に見えるが実際には――。
「考えるのも失礼だぞ? あぁー、酔いのせいで店を吹っ飛ばしてしまいそうだ」
「それだけは止めろ! お前さんが言うと冗談に聞こえねえ」
冷や汗を流す大将にエミナは「冗談だ」だと苦笑を浮かべた。
盛大に肩から力を抜いた大将は面倒くさそうに頭を掻くとため息交じりで口を開いた。
「なんだ? つまりはあれか? 構ってもらえないから酒に溺れたとでも言いたいのか?」
「……そんなわけないだろ……この私が、ちょっと構ってもらえないだけで……あるわけないだろ……うっかり店を吹き飛ばしてやろうか?」
「止めろ! 頼むから店を人質にするな」
必死にエミナをなだめる大将だが、その口元には微かな笑みが浮かんでいた。
あの全てを拒絶した様な雰囲気を纏っていた少女がこんなにも優しくなったこと――。
そして――絶望に沈んだ瞳が嘘の様に明るくなったことが素直に嬉しかったのだ。
(これも――全部あのガキのおかげだろうな)
全ては五年前――この酒場にクロトが訪れたその日に『氷黒の魔女』の人生は大きく変わったのだ――。