開闢の魔術師の業
ドサリと地面に墜落したクロトは全身を切り裂かれ、倒れ伏したその場所にはすぐに真っ赤な血の水たまりが出来はじめていた。
――致命傷。
その姿を見れば誰もがそう思う光景にレティシアは青ざめた表情を浮かべ、かすかに歯をガタガタと鳴らしていた。
これまでの人生で一度として見たことのない大けがにレティシアは思考を凍り付かせていたのだ。
「あ、あ・・・・・・」
喉からは声にならないかすれ声ばかりが口に出るだけ。
駆け寄ろうにも足が震えて動けなかった。
「ククク・・・・・・クハハハハハハッ!」
恐怖に包まれた静寂を打ち破ったのは狂気に染まったマークの高らかな笑い声だった。
レティシアは恐る恐るマークへとその視線を向ける。
興奮しきった表情を浮かべ、額に手を押し当てながら大きく仰け反った姿勢をしていたマークは血の海に横たわっているクロトを蔑んだ視線で見下していた。
「やはり! やはりそうなのですよッ! この結果こそが全て! たかだかEランク風情の一般人がクアトロ様と互角に戦えるはずがなかったのですッ! けれど、エルヴェイト君、君には感謝しないといけない。目を覚ましたばかりのクアトロ様に立ち向かったのが君で良かった」
「せ、先生・・・・・・それってどういう事ですか・・・・・・?」
「わからないのですか? クアトロ様はまだ本格的に目覚めてはいないのです。体は蘇ろうと、その魂がまだ目を覚ましていなかった。クアトロ様の魂を呼び覚ますにはアートベルン、君の魂が必要だ。けれど――」
マークは歓喜に打ち震える声で続ける。
「エルヴェイト君によってわずかばかりでも命の危機を感じてくださったクアトロ様はその魂の片鱗を自らの意思の力で呼び起こされたのです。これがもし、彼以外の魔術師ならもしかすればクアトロ様の魂が目を覚ますよりも先にそのお体を壊されていたかもしれない。その点だけは感謝しなければ・・・・・・。エルヴェイト君のおかげでクアトロ様はより生前の力を取り戻されたのだからッ!」
「そんなんじゃ・・・・・・ねえよ・・・・・・」
マークの推測を否定する声が途切れ途切れに紡がれた。
血の水たまりの中で浅い呼吸を繰り返しながら――クロトは四肢に力を入れていた。
もう剣を振る力も、立って走る力もない。
生命が――魔力が枯渇したのだ。
生きていること自体が奇跡に等しい。
「フン、何を言うかと思えば、そのような戯れ言を。今、そこで這いつくばっている君の言葉には説得力の欠片もありませんよ」
「ハハ・・・・・・確かにその通りだ。けど、違う・・・・・・違ったのはクアトロの・・・・・・魔力量だ」
「何を・・・・・・言っているのですか? 話がかみ合わないですよ」
事実、クロトはマークに視線を向けてはいない。
クロトはただ己の敗因を確認するためだけにその事実を口に出して整理していた。
「レティシアの魔力・・・・・・それで・・・・・・生きていた頃より魔力量・・・・・・が」
簡単な話だ。
なぜ、クアトロ=オーウェンが生前以上の魔力を保有していたのか。
禁呪『死淵転生』の発動条件となったレティシアのランクSオーバーの魔力、それをクアトロ自身が身につけていたからだ。
そもそもこの術式で生前以上の魔力を必要とするのは、死した体を生前のように動かすのに生きていた頃よりも多くの生命力――つまりは魔力が必要だからだ。
だからこそ、規格外の魔力を持って蘇ったクアトロの魔術の発動にクロトの判断力が追いつけなくなっていた。
けれど――。
逆に言えば、これは本当に本当の最後のチャンスと言えなくもない。
体を動かすのに必要な魔力を使用してまでクアトロはクロトに対して魔術を使ってきたのだ。
それはつまり、今、あの躯を満足に動かせるだけの魔力をもうあの死体は持ってはいないことになる。
クロトと同様に『魔力の枯渇』状況に陥っているはずなのだ。
クアトロ=オーウェンがその魔力を回復するすべはただ一つ。
レティシアの魂を取り込む事で、レティシアの魔力を奪う方法しかないはずだ。
だからこそ・・・・・・。
今、この時こそがクアトロとの決着をつける最高の機会に他ならない――。
(くそッ! 動け。動けッ! 動けええええええええ!)
クロトは歯を食いしばりながら、血の池から体を起こしていく。
両手を地面から離し、膝をつく。
膝が地面から離れ、おぼつかない二足でしっかりと床を踏みつける。
「まさか・・・・・・まだ戦おうと? 実力の差はハッキリと証明されたはずでは? なぜ、まだ抗おうとするのですか?」
そんなもん知るか。とクロトは吐き捨てる。
ただ守りたい人。
償いたい後悔。
見てみたい夢があるからだ。
そんな誰もが持つ譲れないもののために立ち上がることに明確な理由などあるわけがないッ!
「――もう止めてッ!」
クロトが立ち上がった瞬間、目の前に影が差した。
目の前が一瞬真っ暗になる。
意識を失った?
一瞬、そう思った。
体がふわりと浮き、立ち上がったはずの体の感覚がなくなったからだ。
けれど違う。
体を包み込む温もり。
倒れた体を必死で支えるか弱い力。
鼻こうをくすぐる甘い香り。
視界に色が戻る。
最初に飛び込んだのは目一杯に広がるきれいな金色の草原だった。
甘い香りも温もりもさらさらとした感触も全てがそこから伝わる。
「レ・・・・・・ティシア?」
「もう、止めてよ・・・・・・これ以上は・・・・・・本当に死んじゃうよ」
クロトはその草原とも呼んでいいような金色の髪の中に顔を埋めていたのだ。
瞳を涙で腫らしてぐしゃぐしゃになった顔でクロトを見上げるレティシア。
背中に回したか細い腕はふるふると震えていた。
その悲愴な表情にクロトは思わず押し黙った。
「お願い。無理・・・・・・しないでよ・・・・・・」
レティシアの嘆願にクロトは渋面をのぞかせる。
それだけは出来ない。
と、クロトはほとんど見えなくなった瞳に映った金色の髪をなでながら呟いた。
今、クロトがこの場から逃げ出せば、運が良ければクロトの命は助かるかもしれない。
けれど、その結果、レティシアは命を落とし、クアトロ=オーウェンの死体は手のつけられないアンデッドへと代わり果てるだろう。
そうなれば、被害はこの国の全土に及びかねない。
理性のない魔術の塊がそこかしこにその驚異を刻んでいくだろう。
そして何よりも、こんな計画を企ててしまったこの国そのものが、自らの行いの結果に絶望してしまう。
――かつてのクロトがそうだったように・・・・・・。
「どうして? もう・・・・・・嫌よ。こんなの・・・・・・知りたくなかった。魔術がこんなに人を・・・・・不幸にするものなんてッ!」
「それは・・・・・・違う」
クロトがそう言うとレティシアは否定するように頭を振った。
「嘘よ・・・・・・だってクロトが・・・・・・そう言ったじゃない」
「そうだ。けど、違う・・・・・・俺は・・・・・・クアトロは求めた魔術が間違っていたんだ。この世界は広い・・・・・・とても全ての魔術を知り尽くすことなんて出来なかった。だからほしかった力を手に入れるために全てを切り捨ててきたんだ。」
「クロト・・・・・・?」
「俺はただ取り戻したかったんだ。大切な日常を。そのために嘘をついて、人を騙して・・・・・・国を騙して・・・・・・俺自身を騙し続けてきた」
かつての記憶が次々に蘇る。
絶望だけしかなかった記憶だ。
目の前に光りを失って呆然と佇む・・・・・・クロト自身の過去に向かってクロトは後悔に満ちた表情を浮かべていた。
間違った過去は変えられない。
けれど、その間違えは――。
クロトが背負うべき罪であって誰にも味合わせてはいけない絶望だ。
それは――かつて『開闢の魔術師』という名の偽りの英雄を背負い、この国を騙したクロトに残された償いの一つなのだから――――。