逃げたくないッ!
何度も地面を転がったレティシアは痛みを孕んだ喘ぎ声を漏らした。
痛い。
ただただ痛い。
競技戦で感じた高揚感も胸の高ぶりも何もなかった。
ただあるのは絶望だけ。
早くここから立ち去りたいという本音だけだった。
けど――逃げられない。
逃げたくない。
彼らは魔術師としての禁忌を冒しているのだ。
ここで逃げたら魔術師に絶望してしまいそうな気がする。
もう魔術に目を向けられない。
そのちっぽけなプライドだけが挫けかけたレティシアを支えてくれる。
「降参するか?」
にやけた笑みを浮かべる男に虫唾が走る。
レティシアはふらつく足を奮い立たせた。
「……まだよ。絶対に負けないんだから……」
「そうか――よッ!」
突き出された拳にレティシアは魔力を張り巡らす。
眼前でバチィッと青白い光が弾け、男の拳の皮が裂けた。
「ッ! まだ硬くなんのかよ……」
「アンタの拳なんか怖くないのよ! 今度はこっちの番よ!」
この魔力を維持するためには魔力を大量に消費する《魔力術式》は使えない。
ポーチから魔術筆を取り出したレティシアは地面に魔術式を殴り描く。
「だからさせねえっての!」
「きゃあッ」
目の前に男の足が現れ、レティシアの手元から魔術筆を弾き飛ばす。
指先が痺れ、レティシアはその痛みに顔をしかめた。
だがそれで終わりではなかった。
「お前ら、用意は出来たか!?」
「へ、もう出来てるぜ」
「ぶちかませ!」
「――――え?」
男の合図に従って後方に控えていた一人が描きあげたばかりの魔術式を起動させる。
別方向からの攻撃を全く予想していなかったレティシアは反応に遅れ、振り返るのと同時に腹部に水で出来た魔術の槍が直撃し、吹き飛ばされた。
大きな弧を描き、地面に叩きつけられたレティシアはあまりの衝撃と。
そして、今までに感じたことのない……内臓を掻きまわされるような痛みにのたうちまわる。
「う…………あぁぁぁぁぁ………!」
収まらない激痛に涙が込み上げ、口元を抑える。全身を駆け巡る寒気と嘔吐を噛み殺し、それでも止めきれなかった胃液が口の端から零れ、痛みと吐き気は熱となって体を掻き乱す。
全身の違和感が警鐘を鳴らし、冷や汗が止まらない。
レティシアはこれまで一度も見たことのない魔術によって一瞬で無力化されたのだ。
「おいおい。ただの初級魔術だぜ? そんな痛がるなよ」
「――ッ!?」
これが初級魔術?
基礎魔術を習え終えた後に教わる魔術が初級魔術だ。
基礎魔術と扱う魔術に違いはそれほどないと聞いていた。
あるとすれば魔術の規模が一回り大きいことくらい。
光魔術の《ライトボール》が基礎魔術だとして、それを初級魔術に置き換えるならより速く、そして威力の高くなった光魔術《ライトマイト》と呼ばれる魔術に置き換わる。
今のは恐らく水魔術《レインスロー》の初級魔術版である《レインスピア》と呼ばれる魔術だ。
槍のような形状と水属性の魔術からそうだとわかるが……。
聞いていた以上の破壊力だ。
一回り上? そんな次元ではない。
明らかに基礎と初級では魔術の次元が異なる。
それこそ基礎魔術なら問題なく防げていたレティシアの魔力の壁が一撃で砕け散る程の威力があった。
「どうだ? 降参するか?」
倒れ伏したレティシアを見下し、男が告げた。
もう無理だ。
痛い。
――痛い。
――――痛い。
―――――――痛い。
もういっそ負けを認めて楽になりたい。
けど――。
もし。もしもだ。
あの大英雄『クアトロ=オーウェン』はこの状況で逃げるのだろうか?
…………たぶん、逃げない。
英雄譚でしか知らない英雄だけど、彼の物語に敗北の二文字は一言たりともなかった。
魔術を使った戦いの物語でも彼は傷つきながらそれでも勝利を収めてみせたのだ。
その時の彼もきっと痛かったに違いない。
それでも彼は魔術の誇りを支えに戦ったに違いない。
そんな彼をレティシアは目標にしているのだ。
逃げたくない。
何よりも自分自身の夢に背を向けたくなかった。
クロトに馬鹿にされた時の怒りを嘘にしたくなかった。
「い、嫌……それだけは……」
クロトとの思い出に嘘は混ぜたくない。
この学院で一番、感情を向けてきた人にぶつけた言葉はすべて偽りなきレティシアの本音だ。
それだけは穢させない。
「そうかよ。俺たちとしてはこれ以上痛い思いはさせたくなかったんだけどな」
「余計なお世話よ」
「いいぜ。ならお前が逃げ出す条件を追加だ。もしアートベルンが再び魔力を纏うようならこっちの勝利時の要求に『お前を好きにしてもいい』ってのを付け加える」
男の後ろでヒューと鼻を鳴らす虫唾の奔る野次が聞こえる。
目の前の男はニヤリと口の端を吊り上げるとクイッと顎を動かす。
ここから立ち去れ――。
と言いたいのだろう。
もともとあちらの要求は『見なかったことにしてくれ』とレティシアに何も求めてはいなかった。
それは勝つ自信があって、尚且つレティシアに心の傷を負わせないための彼なりの配慮だったのかもしれない。
けれどこの条件を呑めばレティシアの身がどうなるかわからないのだ。
男の後ろにいる取り巻きのようにレティシアの身体を目当てにしてくるかもしれない。
負ければ――どうなるか……。
レティシアはその光景を想像し、ゴクリと唾を呑みこむ。
けど、それだけだった。
レティシアは口元の汚れを拭い取ると無色の魔力を纏った。
「おいおい、やる気なのか? 逃げとけよ、ヘッポコ!」
大柄な男の後ろでレティシアの魔力を見た取り巻きの一人が彼の背中ごしから声を飛ばしてきた。
レティシアを馬鹿にするような野次に真っ先に反応したのは相対していた男だった。
「黙ってろ! 魔術師の決意を汚すんじゃねえ! てめぇも魔術師の端くれなら大人しく見てろ!」
「アンタ……」
「悪いな連れがお前の決意を踏みにじるようなことを……安心しろ。俺たちが勝っても悪いようにしない」
「いいわよ。勝つのは私だから……」
その言葉に答えるようにレティシアの身に纏った魔力が膨れ上がった。
初級魔術を止めるために纏った膨大な魔力の渦に目の前にいた男は感嘆の息を漏らしていた。
「コイツはすげえな。お前の決意とその魔力に敬意をもって俺たちも今できる最高の魔術――中級魔術を使ってやるよ」
「ッ! い、いいわよ。来なさい。私は中級だって防いでみせるから……!」
膨大な魔力の壁がレティシアを守るようにその身を覆う。
――同時。
「…………だからヘッポコで三流なんだ。お前は」
「――え?」
その場の空気の流れを掻き乱すような呆れた声と共に大柄な男の影から見知った少年――クロト=エルヴェイトが姿を現した。