拳は魔術よりも強い
「クロト、もう帰ったのかしら?」
レティシアは一通り校舎を探し回り、中庭の噴水近くで息を整えた。
夏にはまだ早いとはいえ、身体を動かした直後の冷えた空気は心地いいものがある。
胸の鼓動が収まるのを待ちながらレティシアは手の平を見つめた。
今はもう消えてしまったクロトの魔術式。
家に帰って解読を試みようとしてみたものの、学院の教師にすらわからない術式を解読できるわけもなく、名残惜しいものもありはしたがその日の晩にお風呂で洗い流していた。
今にして思えば、クロトの態度がどこか余所余所しく感じられたのも魔術競技が終わった頃だったかもしれない。
クラスの祝勝会にも参加せず、次の日にはどことなく思いつめた顔を浮かべていた。
不審に思いこそしたが、なぜかクロトとのタイミングが悪い日が重なり、結局一度もその理由を聞くことができなかったのだ。
そして何より――クロトとの距離が遠ざかったように感じたからこそ、レティシアは深く踏み込むことができずにいたのだ。
その一端としてクロトが授業中に笑わなくなった。
そこだけ聞けば聞こえはいいかもしれない。
ただ教科書を開けることもなく、真剣に何かを考えているようにレティシアには見えていたのだ。
加えて昼休みに姿を消すことも増え、放課後はすぐに帰ってしまう。
追いかけようとしても今日のように最後には見失うのだ。
(何もそこまでしなくてもいいじゃない……)
今日だってそうだ。
呼び止めたレティシアに向けた視線に拒絶の眼差しが混じっていた。
まるで俺に関わるなと言わんばかりに……。
これまでレティシアが拒絶することはあってもクロトが拒絶することは一度としてなかった。
だからこそ、レティシアはクロトに対してどう振る舞えばいいのか分からなくなっていたのだ。
「だいだいアイツらしくない」
クロトと言えばこの学院きっての問題児。
入学早々から三角関係を噂され――これに関してはレティシアもだが……。
その後は魔力値の最低ランクを叩きだし、未だに学生からは不正入学をしたのではないかと疑われ……。
授業も真面目に受けず、実技は欠席。それなのに筆記試験だけは成績が良かったりする。
そして何よりも魔術を……この国の大英雄を馬鹿にした態度ばかりとる。
そんなことを知ってか、クラスでも彼に話しかけるのはパートナーであるレティシアくらいで、クラスメイトたちは問題児を押し付けられた秀才としてレティシアのことを見ていた。
けど、実際は違うのだ――。
クロトは不真面目で大英雄を馬鹿にするのに魔術の知識は誰よりもある。
魔術が嫌いでありながらレティシアに影ながら魔術を教えもしたし、レティシアの危険な魔術行使を止めてもくれた。
そして何よりも……身体を張ってレティシアを庇ったのだ。
魔力の障壁も張らずに魔術の前に出て魔術を受け止める。
相当痛かったはずだ。
それでも心が折れかけたレティシアをもう一度奮い立たせてくれた。
クロトは誰も見捨てることはしない。
それがレティシアが見てきたクロトの人間性だ。
だからこそ、レティシアを突き放すような視線を見たときはショックを受けた。
「……私にくらい話してくれたっていいじゃない……」
何か原因があれば力になりたい。
力になれなくても話してほしい。
だって――。
「私たちパートナーじゃない」
それが無理やり決められたものであっても、もうレティシアにはクロト以外のパートナーが思い浮かばなかった。
「やっぱ、魔力量が足りないよな……」
途方に暮れていたレティシアの耳に聞き慣れない男性の声が届いた。
続く複数の声にどうやら噴水を挟んだ向こう側で魔術に関する論議をしているようだった。
何気なしにレティシアはその論議に耳を傾けた。
話の内容からして相手は恐らくレティシアよりも一つ上の学生なのだろう。
詠唱の問題や魔力量の問題を指摘しあっていた。
(いいなぁ。私もクロトと魔術の話が……って! そこは別にノエルでいいじゃない! どうしてクロトが出てくるのよ!)
顔を赤らめて自責の念に顔を俯けたレティシアだったが彼らが口にした魔術の名を聞いた途端、我を忘れた。
「あなた達、なんて話をしてるんですか!」
気付けばレティシアは上級生の前に立ち、彼らが手にしていた『禁書』を指差す。
「その魔術って禁呪ですよね? 禁呪を扱えるのは国に認められた魔術師だけですよ!」
見られた上級生たちはバツが悪そうに視線を逸らすとヒソヒソと話し合い始めた。
頷きあった上級生の輪からリーダー格である大きな体格をした男子生徒がレティシアを見下ろす形で向かいあう。
「悪いね……勘違いさせてしまって」
「勘違い、ですか?」
「そうだ。これでも俺たちは学年ではトップクラスの成績でね。研究の一環としてちょこっと本を読んでただけなんだ。使ってみようなんて思ってもいないよ」
「なにを言っているんですか。禁書の持ち出しは制限されていましたよね? たしか国の許可がいたはずです。あなた達に許可を出すなんて考えられない。その本、無断で持ち出したものですよね?」
今度こそ後味が悪そうに男子生徒が眉間にシワをよせた。
間違いない。とレティシアは確信した。
この上級生たちは無断で禁書を持ち出した挙句、そこに書かれた魔術を使おうとしていたのだ。
そんなことが許されるはずがない。
同じ魔術師として怒りすら覚えた。
「なにを考えているんですか!? 禁呪は倫理に触れるばかりかこの世界を危険にさせるものばかりなんですよ? それを勝手な考えで持ち出した挙句に使ってみようだなんて馬鹿げています! 魔術師の風上にもおけない!」
「そこまで言われる筋合いはねえよ」
途端、男子生徒の気配が変わった。
険のある鋭い口調にレティシアは肩を震わせる。
「これでも俺たちは良かれと思ってこの本に目を通しているんだ。いつかこの国の役に立つって信じてな。それをそこまでバカにされちゃあ我慢できねえ……お前、たしかこの学院始まって以来の秀才――アートベルンだよな?」
「そ、それがなにか……?」
「ならこうしようぜ。英雄の再来と呼ばれるほどの魔術師に俺たちが勝てればここは見逃してくれないか? アンタが勝てばアンタの言うことを何でも聞いてやるよ」
レティシアはその条件に顔をしかめた。
一年生と二年生では使える魔術に大差がないはずだ。
一年で使えた魔術を二年では詠唱で使えるようにするのが主な教科項目だったはずで新学期が始まってすぐに新しい魔術を使えるようになっているとは思えない。
詠唱が出来るのは精々基礎魔術くらいだろう。
そして基礎魔術程度ならレティシアの魔力の障壁がほとんどを打消す。
決して勝てない勝負ではない。
むしろ勝つ可能性が高い勝負だ。
「いいですよ。その勝負受けて立ちます」
「決まりだ」
その一言が勝負の始まりを告げた。
ほとんど同時にレティシアと男子生徒は魔力を纏った。
(短期決戦なら《魔力術式》でも大丈夫なはず!)
魔術筆で魔術式を描くには時間がかかる。
多少の疲弊は無視してでも分のある《魔力術式》を選び、レティシアは指先に魔力を密集させる。
その直後――。
「きゃあああああ!」
思いもよらなかった衝撃がレティシアを襲い、尻もちをついた。
見上げると、男子生徒の太い腕が突き出され、それがレティシアを突き飛ばしたのだのと理解した。
「魔術式を描く暇なんて与えねえよ」
男子生徒がゴキゴキと耳障りな音を鳴らしながら拳を握り締めた。
その圧倒的な暴力を前にレティシアは身体が冷え切っていく感覚を覚える。
冷酷な瞳がレティシアを射抜く。
「先輩から一ついいこと教えてやるよ。拳は魔術よりも強いってことをな」
「あ、あ、あ…………」
勝てる見込みがある?
そんなのは大きな間違いだ。
殴られた衝撃が忘れられない。
恐怖が拭えない。
ただ単純な力というものがこれほどまでに怖いものだなんて知らなかった。
「じゃあ、決闘の続きをはじめようか」
振り抜かれた拳。暴力の前にレティシアは身体の震えを止めることができなかった――。