優雅な朝は唐突に幕を下ろす
魔歴十八年、魔術国家ウィズタリア。
建国して間もないこの国にはある英雄譚が語り継がれている。
『クアトロ=オーウェン』
その名はこの国に住む者ならば誰もが一度は聞いたことのある名前だ。
彼は旧国家であったウィズタリアにこの世界の生命に宿る『魔力』を触媒として引き起こす奇跡――『魔術』をこの国に根付かせた《開闢の魔術師》として知られている。
彼の英雄の生涯は短く、旧国家が魔術国家として新たに建国された年に彼の英雄を慕う仲間たちに見守られながら静かに息を引き取ったと語り継がれている。彼の英雄は二十代という若さで神の下に召されることとなったのだ。
だが、彼の英雄がなくなる直前まで彼がこの地に残した魔術の数々は今なお、この国の発展に大きな力を及ぼしている。
そして、それだけでない。
彼の魔術師が英雄と呼ばれる所以、それは彼のなしてきた奇跡とも呼べる目を疑うような数々の魔術を扱える最強の魔術師だったことに他らない。
曰く『クアトロ=オーウェン』はあらゆる魔術を習得した稀代の天才魔術師であったと。
その魔術は雲を裂き、空さえも割った。
彼の魔術は襲い来る魔獣たちを一瞬で退けた。
彼の操る魔術はあらゆるものを無に帰し、そしてあらゆるものを生み出した。
彼の魔術は絶対的な不可能すら可能とし、その力は生命の循環さえも凌駕してみせた。
数々の英雄譚が残る『クアトロ=オーウェン』は魔術を目指す者にとっては今なお憧れ、敬われる存在だった。
英雄『クアトロ=オーウェン』
その存在は今日、魔術師としての第一歩を踏み出すことになる彼女――レティシア=アートベルンにとっても憧れの存在であり、目指すべき目標でもあった。
だからこそ、国立ウィズタリア魔術学院への入学を控えた今日、その記事を目にしたレティシアは口に含んでいた紅茶を盛大に噴き出した。
ポタポタとテーブルから紅茶が零れていくことすら忘れ、レティシアはその記事の内容に見入る。
「う、嘘でしょ? 英雄『クアトロ=オーウェン』の墓荒らし? ええっと……」
改めて記事の内容に誤りがないか目を走らせる。
「先月末日、彼の英雄が眠る地が不当な輩によって暴かれた…………墓守が事態に気付いた時にはすでに彼の遺骨は持ち去られた後……ってどういうことよ?」
英雄が眠る地はこの国にとっては重要な意味合いがある。
魔術師の遺体は死した後にも影響を及ぼすことがあるのだ。
いってしまえば魔術師の身体は魔術の結晶だ。
そのものが培ってきたこれまでの魔術の痕跡がある。
人によっては身体に魔術式と呼ばれる魔術を発動するための起動キーを書き記す者もいる。当然、死した後も身体に残った魔術式は消えることはない。
さらに言うと魔術師が死んだことで魔術式に対するプロテクトも弱くなっているから簡単に魔術式が盗まれることがあるのだ。
通常、魔術師の遺体は入念に火葬した後、地面に埋められる決まりとなっている。
もちろん、『クアトロ=オーウェン』の遺体も入念に火葬した上で遺骨が納められていたわけだが、レティシアの問題はそんな些細なことではなかった。
誰もが憧れる英雄の眠る地。そこは魔術師――否、この国に住む国民にとっては聖地といって過言ではない。
その墓は神殿の中にあり、彼の英雄が生きた証と共に祭られているのだ。
無断で神殿の中に入ることすら罪深いことだというのに、墓荒らしとはその人間はどういう神経をしているのだろうか?
「なになに? 荒されたお墓には魔術の痕跡があることから魔術師の犯行って……同じ魔術師として殺意すら覚えるんですけど……共に祭られていた『杖』と『ローブ』も盗まれたものとして考え捜査を進めるって……ええぇぇぇ」
レティシアの表情は怒りから徐々にあきれ顔へと変化していき、最終的には深いため息を吐いて意気消沈していた。
幸い、盗まれた物には危険性はないと締めくくられているがそれ以前の問題だ。
遺骨だけなく『杖』と『ローブ』すら盗まれたというのか……。
本当に笑えない。
『杖』と『ローブ』といえばその魔術師の象徴のようなものだ。『杖』の名を聞けばその魔術師の名もわかるといわれるほど深い関係性があり、『ローブ』も同様の意味合いがある。
そして別の意味でこれら二つには重大な意味が込められているのだ。
それは魔術師が自身の後継者に『杖』と『ローブ』を譲り渡すという伝統だ。
『クアトロ=オーウェン』にも弟子はいたが、終ぞその『杖』と『ローブ』は継承されることなく『クアトロ=オーウェン』と共に神殿に祭られていたはずだ。
いつか英雄をも超えるほどの大魔術師になって堂々と『杖』と『ローブ』を国から授かりたいと夢見ていたレティシアにとって他人事ではなかった。
本当に笑えない。
いったい何のための墓守なのだろうか。
怒り心頭のレティシアはその紙面を握り潰し、気分直しにと紅茶に口をつけようと――
したところでその中身がないことに気が付いた。
(――あれ? 下着が湿ってる……?)
視線をスカートへと向けたレティシアの表情が一瞬で凍った。
テーブルからポタポタと落ちる紅茶がスカートに大きなシミを残していたのだ。
レティシアは慌ててテーブルナプキンへと手を伸ばすとスカートのシミに押し当てた。
だが――。
「え? え? う、嘘……お、落ちない……」
十六にもなる淑女がシミのある服なんて着れるわけがない。
いや、そんな些細な問題よりも由緒ある学院の制服にシミをつけるなんて魔術師の恥だ。
必死になっておとそうと試みるがシミは広がるばかりだった。
レティシアはとうとう涙目になってキッチンにいる母親に助けを求める。
「お、おか~さ~ん!」
レティシアの涙声に「はいはい」とキッチンから顔を出した母親は娘の姿を見て呆れたようにため息を吐くのであった――――。